男の手が伸び、娘のしっとりと艶を帯びた銀髪をかき乱した。
「・・・また駄目か。身体は少しは感じているようにも思えるのだが・・・お前の心はどこにある?」
問われた娘は淡く微笑した。その問いの答えこそ娘が時折苦しくなるほどに求めているものであることを男は知らない。知る必要もない。
男は娘の紫色の瞳を覗き込み行為の後とは思えないほど慎重に唇を重ねた。娘は目を閉じてそれを受け入れた。
「こうすればお前は素直に受け止める。素直に身体を開いて払った金の分は確かに俺を満足させる。美しさも肌の感触も申し分ない。背中と足の傷さえもお前の 神秘に味を添えるものに過ぎない。噂を聞いてやって来て興味本位にお前を抱く男も多いだろう」
僅かに困惑の気配を浮かべた娘の表情を見た男は薄く笑った。娘の上から傍らに身体をずらし、肩肘をついて手足を伸ばす。
「俺は好奇心の強い人間でな。お前に傷をつけたのがどんな人間だったのか、どうしてお前がこんな世界にいるのか知りたいのさ。そして何より・・・・お前の この身体を作った男のことを知りたい。わかるのさ。お前はいつもそんな風に何かを悟ったような顔で笑っているが、全く違う顔を見せた相手がいるはずだ。お 前を心から可愛がっていた男がな。そいつに見せていたはずの甘えた顔を少しだけでも見てみたいと願っちまうんだがな・・・」
その言葉を聞いた娘の瞳に浮かんだのは紛れもなく悲哀の色だった。
男は短く笑った。
「悪いな、勝手なことばかり喋ってしまった。今度来た時に追い返さないようにしてくれ」
男は娘の頭の後ろに手を回して静かに引き寄せ唇の先にキスをした。その時、男の指先は柔らかな髪の下にある傷跡を感じていた。
これが娘の中から記憶を消してしまったのだろうか。
背中と足の白い肌にくっきりと浮かび上がる傷を持った娘。本当なら色を売るこの世界では最低の評価を受けて投げ売り同然の扱いを受けても不思議ではない その条件がまったく反対に魅惑の一つと数えられている。この界隈で一番の売れっ子だ。
傷跡。決して客の腕の中で乱れることなく、誰もこの娘の身体が頂点を迎えるところを見たことがないという噂。一度抱けばすぐに真実とわかる噂を確かめ挑 戦するために訪れる客も少なくないという。
向かい合って見ればこんなに華奢で繊細に美しく、およそ色売りの世界とは縁がなさそうに見えるのだが。抱いてみれば思いがけずこの細い身体には抱いてい る相手を惹きつけてしまう深さがあり、思わず夢中になってしまう。血の気ばかり多くて先を急ぐ若造にはこの味わいは勿体無いしわかるまい。そんな優越感さ え抱かせる。
「・・・何か欲しいものはないのか?」
問えばまた困ったように微笑する娘に笑いかけ、男はスプリングがきいた寝台を下りた。
男が手早く身支度を整える間に娘はベッドの脇に畳んで置かれていたガウンを羽織り、腰紐を結んだ。
「じゃあ・・・またな」
どこか無理矢理なおどけた仕草で手を振る男に娘は頭を下げた。
「ありがとうございました」
娘の声を聞いた男の顔に一瞬真面目な表情が浮かんで消えた。男はそのまま手をひらひらと動かしながら部屋を出て行った。
娘は深く息を吐きながら寝台に腰掛けた。
ドアが開いて中に入ってきた姿を見上げた瞳には疲労の気配があった。
「疲れたか」
慣れた動きで部屋の奥の浴室に入り湯の蛇口をひねって戻ってきた男は、薄い僅かな明かりが灯った部屋の中でも黒いレンズの眼鏡をかけていた。男が娘の身 体を抱き上げると娘は逆らわずにただじっとしたまま浴室に運ばれた。紐を解きガウンを脱がせる男の手は何の感情も見せず事務的で、娘の身体を眺める視線は 商品の価値を確かめるように冷静に全身を一瞥した。
「あの客は無駄に所有欲を出さないのが有難い。金払いも極めていい。抱かれて損はない客だ」
男は娘が静かに湯の中に身体を沈めるのを待ち、袖を捲くると娘の長い銀髪を濡らして両手で立てた泡を塗りつけた。
「お前の白い肌には痕が残りやすい。我武者羅に食らいつくヤツは一度きりで終わりだ。二度と相手をする必要はない」
髪と身体を洗う男の手に感情はない。だから娘はただ目を閉じてすべてをまかせていた。一度だけ男に抱かれた時も男の手は今と同じくらい冷えていただろう か。病室で目覚めた時。頭と片足にはまだ生々しい傷があり、自分の名前も年齢も何もかもが空白であると知ったあの時。確かな身分も金も持っていない、戸惑 いと混乱に包まれていた娘に示された生きるための手段は数少なく、限られていた。どう考えたらいいのかさえわからなかった娘の前に現れたこの男は病室で突 然に娘を抱いた。恐怖と驚きに声を上げようとした娘の口をふさぎ、男は細い身体の隅々まで指と唇を触れ、ただ頷いた。
他では使い走りに回されてこの身体をすり減らされてしまうだろうが、それは無駄遣いというものだ。お前はただ、最初は作られた評判と噂につられてやって くる小金持ちにほんの時たま身を任せるだけでいい。安売りはしない。お前は高く売れる。じきに本物の評判がたつ。そうすればお前の消えた過去も向こうの方 から近づいてくるだろう。
男の言葉を娘は驚きをもって聞いた。男は色街では広く名が知れた存在で、常に一人の娼婦を抱えて管理してきた人間だった。常に一人だけ、そして常にその 娼婦は色街で一番の人気を誇る。男についてそんなことを知ったのは最初の客に抱かれている最中だった。男が所有している女を抱くのは初めてではないという その客の言葉を聞きながら、自分がどこからなぜこういう場所に来ることになったのだろうとぼんやりと思った。
「ルーラ」
しばらくたってからそれが男に与えられた名前であることを思い出した。これはどういう名前なのだろう、と時々思う。男の知っている誰かの名前だろうか。 その女は果たして今、生きているのか死んでいるのか。
目を開けるとすぐ前に男の顔があった。黒いレンズの向こうの瞳は見えないが観察されていることを感じた。
「ぼんやりしているな、さっきから。傷が痛むのか?」
「・・・いいえ」
時々こんな風に自分が夢の中にいるような気分になる。やがて決まって記憶がないことへの喪失感に胸を焼かれる。忘れてはいけない何かがあった筈だ、と理 由なく思う。
男は自分が名前を与えた娘を見下ろし、無言のままタオルで身体を包み込んで抱き上げた。娘の横顔に浮かんでいるどこか幼い少女のような影をこれまでにも 何度か見たことがある。実際、彼が見つけたときは娘というよりも少女という方が似合っている印象があった。それが変わったのは身分も経済状況も良く知って いる馴染みの客を最初の客と決めて抱かせた後だった。
商品として確かに腕の中にあるこの身体とは違い、娘の精神はいつまでもこの身体の中に定着しないように見える。その捉えどころのなさが商品価値を高めて いるというのは皮肉なことだ。失くした過去を取り戻すことを願っているのは本人のみ。男も客達も娘にありふれた過去が蘇ることなど望んではいない。
「俺の名前を覚えているか?」
男が問うと娘は驚いたように男を見上げわずかに微笑した。
「ホーク。まだ忘れてはいません」
「そうか」
男は客を迎えるための装飾華美な部屋を出て2階へ上がり娘の寝室に入ると細い身体を寝台に寝かせ、毛布を掛けた。質素な印象さえ受けるこの部屋の様子に はつい時々唇を歪めてしまう。棚に隙間なく並んでいる本。机の上、サイドテーブルの上、床の上にも位置を定めだした本。客達の中にはこの娘の私室の様子を 想像できる者は誰もいないだろう。
「眠りたいだけ眠っておけ。来週まで客は入れてない」
頷いた娘が目を閉じるのを確認すると男は部屋を出た。
客に嬌声を上げることもしない、身体を欲望に明け渡すこともしない頑なな姿。そのくせ毎回の消耗は強く、時に魂を切り売りしているような気分になること もある。
案外、売ることができる期間は短いかもしれない。
ホークは娘の寝室の隣りの自分の部屋に入り、革張りのソファに身体を沈めた。赤ん坊の時からこの、他とは色彩も空気さえ違う街で生きて生きた彼には年齢 以上に経験と女の行き先を見通す目が備わっていた。
別の売り方も考えてみるか。
思ったときに胸のどこかに感じた違和感のようなものは何だろう。ホークはボトルの栓を抜いてグラスに微量の酒を注いだ。この一口の香りと味を貴重だと 思った。
娘は眠れないまま寝返りを打ち、胸にあてた手を強く握りしめた。予感したとおりの切なさに焦燥感も加わっていた。
思い出したい。
いつまでも覚えていたい何かがあったはずだという思いが強くなる。
胸を締め付けられるような感覚に再び大きく寝返りを打ったとき、窓の外に気配を感じた。
コツ、コツン。
小さくてかたい音が聞こえた。
何かが風で飛んで窓に当たったのだろうか。
寝台から降りて歩く娘の足は自然と速まり、カーテンを開けたときその目は大きく見開かれた。
明けはじめた空から降る淡い光の中、窓ガラスのすぐ外に白い小さな姿があった。鳩だ。
コツ、コツ。
娘の姿を見ても鳩は逃げようとせず、まるで合図のように嘴でガラスをつついた。
「・・・お前・・・?」
娘の手が躊躇いながら窓を開けると、鳩は翼を広げて部屋の中に飛び、天井で一度旋回するとゆっくりと舞い下りてきた。反射的に差し出した娘の手の指先に 降りた鳩はじっと娘の顔を見た。
首にネクタイを締めた鳩。
娘はこの珍客の目を静かに見返した。
「クルッポー」
まるでその視線に答えるように鳩が一声鳴いた。