遺 忘 2

イラスト/濃色の花々 結局その白い鳩は娘と枕を分け合って眠った。
突然の訪問者をどうしていいか戸惑いながらその小さな姿をひどく愛しいと思ったことが不思議だった。鳩は娘の指先から離れて先に枕の上に降りて身体を丸 め、早く来いとでもいうように目を向けて鳴いた。娘は速くなる心臓の鼓動を感じながらその隣りに横たわった。自分が御伽噺の一ページに彷徨いこんだ気がし た。

「ポッポー」

白い片羽が開いて娘の額を撫ぜた。
気がつくとなぜか涙が落ちていた。

「・・・お前はわたしを知っているの?」

やわらかな翼はただ撫ぜ続けた。その感触を感じているうちに娘はやがて眠りに落ちた。




その日から、その白鳩は娘のそばにいた。

「妙な同居者が増えたものだな」

ホークは鳩の姿をしばらく眺めた後、娘に視線を移した。たった一晩のうちに現れた微小な変化。彼はそれをどう評価するべきか迷っていた。鳩を見る娘の顔 には今まで見たことのない明るい表情があった。無理に大人の女になることを強いられてきた姿が本当の年齢に少しだけ後戻りしたような。娘が鳩に笑顔を向け るときに限ってのほんの短い印象ではあったが、それはもしかしたら彼がずっと恐れてきたものかもしれないと思った。失われた過去の気配。彼の商品の価値を 下げることにつながりかねないもの。
しかし、ホークは鳩を追い出そうとはしなかった。娘の笑顔にはどこか彼の予想を超えたものがあった。
それからの数日、娘は幸福だった。
どこかに飼い主がいるのかもしれない、すぐに飛び去ってしまうかもしれないという不安は常にあり、部屋に鳩のための籠の類を用意はせず、ずっと窓を開け ておいた。ここを去りたくなったらすぐに飛んでいくことが出来る状態の中で、鳩は娘のそばを離れなかった。娘が客を迎えている時、ホークは鳩が部屋にいな いことに気がついたが、客が帰った後に娘が部屋に戻った時にはやわらかく鳴きながら枕の上で出迎える姿があった。
互いに身を寄せ合って眠り、同じテーブルで食べ、本を読み、一緒に散歩を楽しんだ。話し掛けると、視線と驚くほど人間に似た仕草、やわらかな鳴き声でそ れに答えた。

「お前の言葉がわかるといいのに」

言いながら笑う娘の横顔をホークは無言で眺めていた。考えをまとめる時期がきたのかもしれない。決めるなら早い方がいい。彼が部屋を出た時、娘はまだ鳩 を抱いて話し掛けていた。




「最後の客・・・?」

娘は不思議そうにホークの顔を見、ゆっくりと自分の身体を見下ろした。その視線の意味を読んだホークは思わず苦笑した。

「違う。お前の人気が落ちて売り物にならなくなったわけじゃない。もう随分前からお前を身請けしたいという話がいくつかあった。その中で一番条件のいい客 にお前を渡す。その前にお前を買えるのはあと一人だけ。かなりいい値がついたぞ」

娘の顔にはなお戸惑いがあった。
ホークは娘の前に歩いて行き、その肩にとまっている鳩を見下ろした。それから突然と言っていい動作で右手で娘の顎を捉えた。

「お前は数多くの客に切り売りするには向いてない。野心も欲も持たないお前には金が有り余ってるおまけにお人よしもいいところの一人の客のそばで暮らすの が似合ってる。俺が扱いやすいのはお前とは正反対のタイプの女だ。お互いに解放された方が楽になる」

つまり、もうホークの役にはたたないということなのだろう。娘は合わせていた視線を外して俯いた。身体を売ることは好きではない。一人の男に仕えるとい うのはもしかしたら今よりも罪悪感も苦しさも少ないことなのかもしれない。娘は自分がこれまでこうしてやってこれたのはホークに事務的に冷静に、時に守ら れながら管理されていたからだとよくわかっていた。ホークが言うことなら従うだけだ。
ホークはそんな娘の姿を見下ろしながら、自分の中の感情をひとつひとつ確認していた。自分の名前さえ思い出せない娘に仮の名前をつけてやったとき、決し て情を移すことにならないようにと強く思った。犬や猫に対する時、人は愚かなほど自分に所属すると感じるものに心を許す。それは人間でも同じかもしれない という警戒感があった。
娘が欲を大きくしてこの街のNo.1で在り続けることに固執するなら楽だ。もう一段、二段と上を狙えばさらに面白い。彼は手持ちの情報と駒を駆使して娘 の野望達成を援護することができ、大きな金を手に入れることができるだろう。彼の目には娘にはそのための条件がすべて備わっているように見えた。
しかし、現実はかなり違ったものになった。滅多な客には売らず、伝説めいた噂を流布し磨きながら上客だけを相手にさせるうち、娘は彼の思惑通りすぐに色 街一番の位置にのぼった。それでも娘そのものに対する印象は最初に会った時と驚くほど変わらなかった。今にも花開きかけている精神性の強い美しさ、少女か ら娘へと脱皮しようとしている時期特有の全身の透明感、無垢に見えながら抱けば吸い込まれるような深さを感じる華奢な身体。男達は誰一人娘の心と身体を変 化させることなく、ただ通り過ぎていく。ある意味ではこれは大当たりだとも言えた。言われるままに素直に従う娘の味わいと魅力がいつまでも変わらないな ら、彼は常に安定した高額の収入と時間を得ることができる。このまま娘を売り続けていればいい・・・少なくともあと数年は。そして娘の味わいが薄れだした 頃を見計らってゆっくり最後の行き先を決めればいい。
考えていた計画にホークの中で気持ちがひっかかるようになったのはあの鳩を見たときだった。何がひっかかっているのかは今もわからない。初めて見た少女 らしい面影の笑顔と表情は彼がこれからどれだけ時間をかけて磨いても多分決して得られるものではない。それがひっかかるのかもしれない。だとすればこれは プライドの問題だろうか。
娘が俯いたまま顔を上げないことにホークは苛立ちのようなものを感じていた。金持ち男に身請けされればこれからは楽に生きられるどころかアホらしいほど の贅沢がし放題だ。彼はちゃんと娘に対してそうなるはずの男を選んでいる。娘は喜んでいいはずなのだ。
なのに。
ホークは娘を眺めているうちにひとつだけ思い当たった。

「お前、そんなに失くした過去を取り戻したいか?」

娘の身体が小さく震えた。

「それは愚かな願いかもしれんぞ。お前が負った傷は普通の生活をしている平凡な人間ならそうそう身体につけるものじゃない。そして、もしただ平凡な生活を していた人間だとしたら、思い出した途端にお前の周りの目くらましの魔力は消えて、ただつまらない人間に戻るだけだ。どっちにしてもお前を待っている贅沢 三昧な甘っちょろい暮らしとはおさらばだ」

それでも。
娘は顔を上げ濡れた瞳でホークを見た。
それでも思い出さなくてはいけない何かがある。忘れてはいけなかった、忘れるはずがなかったものがある。その確信の強さは変わらない。
二人はただじっと視線を合わせた。どちらの中にも相手には見せない感情が揺れていた。

「クルッポー?」

沈黙を破ったのは鳩だった。
ホークは唇を歪めた。

「とにかく、俺はお前を手放す。切り売りの客は今夜のあと一人、ただいつもと同じように我慢していればいい。それが終わればお屋敷暮らしだ」

ホークが決めたのだから。
娘はひとつ、頷いた。
胸の中にこれからの生活の変化に対する不安が湧き上がりだしていた。

2006.9.26

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