遺 忘 3

イラスト/濃色の花々 その最後の客は夜半を過ぎた頃、現れた。

「・・・灯りを消せ」

開いた扉の陰から低い声が流れた。娘が躊躇っているとトン、という靴音が響いた。

「俺は夜目がきく。無駄な灯りはいらない」

言われるままに灯りを消すと娘は緊張して高鳴る心臓を感じながら胸に手をあてた。初めて聞く声と気配。この客には今まで会ったことがない。暗がりの中で 気配を探りながら、ただ待った。
気がついたときには目の前にいる男の手が娘の髪を梳いていた。指先が髪の中の傷を辿るのを感じ、背筋に刺激が走った。
どうして。
娘は自分の身体の反応に驚いていた。髪を撫ぜられることなど初めてではない。傷を触られるのもよくあることだ。なのに背筋に走った感覚に思わず声が漏れ そうになった。

「大きいな」

傷の端から端まで辿った男の指先は耳の後ろから頬の伝い顎まで下りた。その動きを愛撫と受け取った肌がまた反応するのがわかり、娘は思わず首を横に振っ た。

「逃げていい身分ではないのだろう?・・・・今は」

この男の言葉には何か意味がある。問いを口にしようとした時、男は娘の隣りに座り、娘の頭と顎を引き寄せると唇を重ねた。その素早さと力強さとは対照的 に男の唇は穏やかでやわらかかった。唇の先を啄ばまれ、娘は目を閉じた。見えない中で傍らの男の身体の熱と存在をいっぱいに感じていた。もしも抱きしめら れたらどんな感じがするだろう。在り得ない感情が浮かんだ瞬間、たくましい腕が娘を抱いた。包み込まれる感覚に圧倒された。

「聞いていたよりも素直な身体だな」

皮肉めいた言葉を口にしながら男はゆっくりと口づけを深めた。表面をなぞる唇とあたたかい舌。包み込んでは誘うようにまた解放される感覚。頬を包む手の 大きさ。心がどんどん男に向けて高まっていくのを感じた娘は堪えきれずに男の胸を両手で突き放した。されるままに身体を離した男は低く笑った。

「客の扱いが下手だな、ひどく。耐えるな。仕事だから感じてはいけないということもあるまい」

そうではない。そんな理由ではなく、ただ、このままではいけない気がした。すべてが娘にとって初めての感覚で、これに身を任せたらどうなるのかわからな かった。

「・・・逃げるな」

再び男の手が娘を捉え、腕の中に包み込んだ。抱かれながら髪に触れた唇を感じた。額、瞼、頬。下りてきた唇はそのまま娘の唇を覆った。
すぐに逃げ出したいのに、本当は逃げたくない。混乱している娘の身体からこわばりがとれ、力が抜けていった。


肌と肌が触れたとき、落ちた涙の意味は何だろう。
キスと愛撫を続けながら娘のガウンを脱がせた男は手早く自分の衣類を床に落とし、娘の上に身体を倒した。大きな熱の中に包まれた時娘の口から漏れたのは 安堵に似たため息だった。肌を重ね互いの体温を感じて安心する。今までには在り得ない感覚だった。十分抱きしめられ口づけを与えられた後、身体を横に転が され男の指と唇が背中の2本の傷に触れた。

「う・・・」

漏れた声を自分のものとは思えないまま娘は唇を噛んだ。男はまるで傷の形と長さを知っているように闇の中で正確な愛撫を繰り返す。身体の中で高まる熱を どうしていいいかわからなくて首を振ると、男の空いている手が娘の胸に触れた。

「我慢しないで声を聞かせろ」

手でやわらかく包みながら直接頂に触れる指先の動きに娘の全身が震えた。漏れそうになる声を抑えようと口元に動いた手は男の手に受け止められてしまっ た。見通されている。そんな感じがした。男は娘の反応を読んでいる。読んで、楽しんでいる。
男は娘の身体を引き寄せて強く抱いた。抱かれてはじめて娘はそれを自分が望んでいたことに気がついた。触れること、抱かれること、身体の熱を感じるこ と。娘は男の腕の中で自分から身体の向きを変え、躊躇いながら男の背中に腕を回した。
その時、指先に感じた感触を。
娘は驚いて手の動きを止めた。少し触れただけで頭の中に鮮明に浮かんだ傷跡の形。これは果たしてあっているだろうか。
男は娘が再び手を回すのを無言で待っていた。それから娘の動きにあわせるように抱いている腕に力を込めた。
首筋、胸の頂、脇腹、臍の周り。
男の唇は次々と娘の身体に甘美な刺激を送り込んでくる。堪えきれずに身体を動かすと指先で唇をなぞられる。男の足が娘の膝を割った時、強い予感にとらえ られた娘は男の腕にしがみついた。男はゆっくりと娘の中に指を沈めた。

「怯えるな。傷つけたりはしない」

男の唇があやすように娘のそれにやわらかく触れた。唇と中にある指の両方の穏やかな動きに娘はただ湧きあがるものを堪えた。
なぜこんな風に感じる。
なぜ他人の手と唇を嬉しいと思う。
なぜ男は娘が思うことをすべて知っているように振舞う。
なぜこんなにも満たされていく。
いつの間にか落ちていた涙は男がゆっくりと身体を繋げた時、大きく溢れた。まるでまた心を読み取られたように指を絡めてきた男の手を握りしめ、娘は目を 閉じた。次第に身体の深くまで存在を感じた。昇りだした身体と心に眩暈さえ覚えた。

「・・・ル・・・!」

最後に自分の唇から零れた音ははっきりとは聞こえなかった。
達した瞬間に抱きしめられ、深い安堵とともに意識が遠のいた。

「眠れ・・・許される間」

男は低く囁いた。その手がそっと娘の頬に触れた。
娘の枕元の薄い明かりが燈された。


初めて娘の艶やかな声を聞いた。
隣室にいたホークはしばらく前から部屋の中を歩いていた。窓際に進み、また振り返って戸口に進む。いつの間にか規則正しかった歩調は乱れていた。
やがて隣の部屋が静まり返り、かすかに客が出て行く気配がした。
なぜ躊躇いを感じるのだろう。
ホークはドアのノブに手をかけたまま息を吐いた。仕事を終えた娘の様子を確かめ風呂に入れるのはいつもの彼の仕事だ。この娘に限らず、自分が抱えている 女すべてをそうやって扱ってきた。常にプロの意識があった。
なのに今夜は。
ホークは自分に対する冷笑を唇に浮かべ、ドアを開けた。
そして一歩入ったところで足を止めた。
娘は眠っていた。明かりの中に無垢な寝顔が浮かんでいた。肩まで毛布を掛けられ、穏やかな寝息をたてている口元には淡い微笑があった。
これまでで一番幼く、一番艶やかな顔。
ホークは素直にそれを認めた。あの最後の客が馬鹿かと思えるほどの大金を無造作に投げ出した時にはただの絶好のカモかと思ったが。最もその男には何とも 言えない静まり返ってはいるが危険な気配があり、相場の2,3倍くらいの金額であれば受け取らずに済ませていただろう。隣室でいつも以上に音と気配を探っ ていたのは、万が一あの客が娘に傷をつけそうな気配があったらすぐに踏み込めるようにと思っていたからだった。
ところがそれどころか。
男の冷笑が深まった。
あんなに甘い声を出すことができたのか、この娘は。
思わず一瞬、身請け話を決めたことを後悔した。甘えることを知らずにトップにいるこの娘はそれを知ればどれほど男を翻弄することが出来る女になるだろ う。心が揺れた。
どんな顔であんな声を出していたんだ、お前は。
ホークは普段は滅多に吸わない煙草を一本箱から振り出し、唇に咥えた。



「・・・いいのか、これで?完全に離れてしまうのか?せっかく探し当てたというのに。・・・平気なわけではないのじゃろ?」

「・・・探していたわけではない。偶然だ。お前も知っているだろう。アレを身請けする男というのはこの街では有数の名家の総領だ。自由になる金は湯水のご とく、女遊びひとつしない地味な人間だ。邪魔をする理由もあるまい」

「じゃがのう・・・・わしもわかっとるつもりではあるんじゃ。闇に追われる身であるわしらのことを例え思い出して前のように慕ってくれたとしても、それが ためになるわけは絶対にないからのう。ただ・・・わしは自分で思っていたよりも諦めが悪い人間なのかもしれんな。お前の方が深い事情やらいろいろ持っとる のにな」

「・・・フン」

闇の中で交わされた会話を聞いた者は誰もいなかった。

その夜、娘の元から白い鳩の姿が消えた。

2006.9.26

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