遺 忘 4

イラスト/濃色の花々すべて、夢だったのだろうか。
 気持ちが通い合っている気がした白い鳩。
 心も身体も包まれたと感じた闇の夜。
 目覚めた時、娘はその両方がなくなっていることに気がついた。すぐに飛び起きて窓辺に走った。そこから見えるのは背の高い木々と手入れの行き届いた庭、 ひっそりとした小道だけだった。
 バスルームの中で声を押し殺して泣いた。
 また何かを失ってしまった気がした。あの、真っ白に全てが見えなくなった瞬間に大切なものを思い出した気がした。その記憶も一緒に・・・今はもう手が届 かない。
 娘は自分の腕を見た。
 この腕で抱きしめたたくましい身体の感じをまだはっきりと覚えている。引き締まった筋肉、そして背中の傷。一度抱かれただけでなぜこんなにいろいろと深 く身体に刻み込まれているのだろう。深く・・・深く苦しくなるほどに。

「少し早いが支度をするぞ、ルーラ」

 ドアの外でホークの声がした。
 何の支度だろう。不思議に思った娘は返事をできなかった。

「お前を待ちかねている男がいる。夕方、連れて行く」

 身請けの話だ、とわかった。脱力感が広がった。夢から目が覚めてしまったのだろうか。あまりに早く現実が目の前にあった。
 せめて顔を見ることが出来ていたら・・・あの最後の客の。
 娘は耳に残る男の声を思い出した。冷ややかで皮肉めいていて、心を揺さぶる滑らかな声。

「ルーラ」

 娘が慌てて浴槽に身体を沈めたとき、ホークが入ってきた。腕に抱えている白い布は衣装だろうか。娘は手の平に湯をためて顔を洗った。

「最後の客・・・無駄じゃなかったようだな。肌の調子がいい」

 娘の顔を覗き込んだホークは不意に唇を重ねた。驚いた娘が身体をひくと、ホークは笑った。

「いい反応といい顔だ。少しだけ生身に戻ったお前はさぞかし喜ばれるだろうな」

 ホークの手が普段と変わりなく娘の髪を身体を洗った。
 この手は違う。昨夜のあの手ではない。娘は身体の力を抜いて目を閉じた。心は自然と過ぎた夜の記憶を辿ってしまう。
 ホークは無言のまま長い髪をタオルで拭いた。



 黄昏時の陽光が白いドレスを染めていた。
 娘は広大な敷地を囲む鉄柵を眺め、門の高さを見上げた。奥に立つ石造りの館から歩いてくる男の姿には見覚えがあった。3度、それとも4度。娘の最初の客 であり、一番多く抱かれた客でもあった。自分のことを好奇心が強い、と言っていた男だ。

「あれが今日からお前の主人になる男だ。馴染みだろ?」

 ホークの言葉を半分他人事のように聞いた。心と身体の感覚の半分がどこかへ行ってしまったような・・・・そんな感じがずっと続いていた。
 門をあけた男はそっと娘の手を取った。

「こんなに早くこの日が来るとは思っていなかった・・・どうして気を変えたんだい?ホーク。もっと焦らされると思っていたよ」

「まあ、きっかけなんてそんな大したことは特に。こいつにはこういう売り方があってる気がしただけで」

「『売る』か。痛ましい響きだな。今日からはもうそんな言葉を聞く必要はなくなるさ。もっと気楽に生きられるようになる。ここでな」

 男は僅かに身体をかがめて娘の顔を見た。微笑もうとしてうまくいかなかった娘はただ頷いた。

「ドレスは気に入ったかな?お前以上に似合う人間は想像できないな。よく似合ってる。今日は家の中の使用人たちは全部外出させた。残ってるのはここの警備 の人間だけだから・・・ゆっくり休める」

 娘は視線を動かし、建物の正面と周囲に何人かの男達を見た。全員が黒づくめの服装をしていた。
 男はホークに革のケースを渡した。

「これでお前は自由になれる。使用人達がいないから祝い事は後回しだが、祝砲だけは大きく一発鳴らそうと思って・・・」

 男の視線の動きを追った娘は館の屋上を見た。そこには光を浴びて輝くほどに磨き上げられた黒い砲身があった。
 娘の心臓が強く打った。

「近所迷惑かもしれないが、今日ぐらいはいいだろ。そのくらい嬉しく・・・」

 男の声は心の中から響いた重い破壊音に消されて聞こえなくなった。黒い砲身。壁も屋根も当たったものを粉々に砕く砲弾。大きくすべてが崩れる音。バラン スを失って落ちていく身体。五感に残る生々しいものがじわじわと娘を包み込んだ。
 知っている。命あるものもそうじゃないものも区別なしに破壊するための道具。巻き込まれたら抵抗することなどできない。

「・・・ルーラ?」

 目を閉じた娘の身体が揺れた。
 ホークは娘の腕をつかんで支えようとした。その手を娘は反射的に振り払った。
 この手は違う。確かに自分を守ってきてくれた手かもしれないが、この手ではない。
 重い瓦礫が身体の上にある苦痛と圧迫感。
 流れ出る血液のあたたかさ。
 そういうものを自分は良く知っている。
 頭に激痛を感じるまでずっと何かを強く願っていた。自分ではない誰かの命が無事であることを。

「どうした?具合が悪いのか?」

 ただ見上げていた空。
 光の中で見たのは・・・・白い羽だった。端が赤く染まった白い羽。大切な命を育む血の色。
 衝動に襲われた娘は身体を翻して走った。

「待て!」

「ルーラ!」

 呼ばれた名前をはっきりと他人のものだと思った。自分には別の名前があった。それを呼ぶ誰かの声を思い出せそうな気がした。今は届かない失くしてしまっ た大切なもの。その人の命があるのかないのかそれすらもわからない。

「ちょっと待て!お前」

 ホークの手がドレスの袖をつかんだ。出会った日からずっと面倒を見、守られてきたこの手。はじめて触れられることに、所有されることに嫌悪を感じた。

「離して、ホーク!わたしは・・・・」

 ホークは強引に袖を引き娘の身体を腕の中に閉じ込めた。

「何をどう思い出したのかは知らないが、今のお前に戻る場所はない。それはお前が一番知ってるはずだろ?」

 わかっていた。
 わかっていても帰りたいと願った。
 大切だった人がいる場所へ。恐怖など遠くに追いやって安心していられた場所へ。
 白い鳩が飛ぶ・・・あの空を見ることが出来る場所へ。
 娘の口から呻き声が漏れた。
 白い鳩。
 あの鳩はきっと娘の過去からやってきた鳩だったのだ。あれを追って行けばもしかしたら行きたかった場所へ行けたかもしれないのか。
 あんなにも親しげにそばにいてくれた鳩。

「ごめんなさい、ホーク。わたし・・・鳩を・・・」

 ホークは笑い、腕の力を強めた。

「あの鳥を探してどうする?この街の売れっ子No.1だった話でもするか?あきらめるのが利口だ。お前は今は記憶を失くす前のお前じゃない」

 娘の身体の動きが止まった。
 ホークの言葉が心に冷風を吹き込んだ。まだ見えない過去のことはわからないが、確かにこの数ヶ月娘は人に胸を張ることが出来ない生き方をしてきた。
 自分の身体を、本当なら大切な人とだけ行うはずの行為をひとつの手段として使ってきた。

「まっとうな生き方をしている人間にはお前の姿は汚く見えるだろうよ。じゃなかったらただの便利な欲望のはけ口か」

 ホークの言うとおりだ。
 娘は肩を落とし、ホークは娘の身体を拘束していた腕をほどいた。

「お前はお前の生き方を受け入れて大金を払ってくれた男のところへ行け。願ったものとは違うだろうが、生きていければ十分だろ」

 娘は振り返り、門の前に立っている男の姿を見た。生きるために、と割り切ることが今の自分に出来るだろうか。考えると肌の表面が粟立った。

「もう・・・・できない。なぜかわからないけれど、きっともうできない。ごめんなさい、ホーク」

 娘は地に膝をついた。進むべき方向がわからなかった。過去には戻れない。先にも進めない。
 ホークは苦い笑いを浮かべた。

「そうやってどこへも行けなくなってどうするつもりだ。利口になれ、少しは。今欲しいと思っているものは全部捨てて安楽な暮らしを選べ。お前がちょっと笑 いかけてその身体を差し出せば済む話だ」

 差し出されたホークの手をまた振り払った。

「できない・・・もう」

 あの白い鳩が飛んでいった先にいるはずの人のことを。
 娘は立ち上がり、走った。今度こそ息が切れるまで止まらないつもりだった。

「どこまで馬鹿だ」

 ホークの手を肩に感じたとき、娘は悲鳴を上げた。

「いや!ホーク。汚いとも・・・どう思われてもいい。わたし、どうしても探さなきゃ・・・」

「クルッポー」

 その時、白い鳩が宙を過ぎり真っ直ぐに娘の肩に舞い下りた。

「「お前・・・」」

 二人の声が重なる中、木の陰から一人の男が姿を現した。

「・・・騒がしいことだ」

 黒一色に身を包んだ男の姿。娘の心は強く揺れた。そして、その声には聞き覚えがあった。

「なるほど、最後の客の登場ってわけだ。この鳩もあんたのだったんだな」

 鳩の嘴につつかれた手を娘から離したホークは男の顔を見た。

「確かにハットリはルッチの鳩じゃよ。久しぶりじゃな、 リリア。会えて嬉しいぞ」

 続いて現れたもう一人の男の衣類も黒かった。
 娘は瞳を見開いて初めに現れた男の姿を見つめていた。黒い髪、冷たく鋭い瞳、全身を包む圧倒的な空気、背中に在るはずの傷跡、今とは全く違う静かで時に 気だるげな表情の記憶。歓喜に胸が苦しくなった。生きていた。生きて立つ姿をまた見ることが出きた。ならばもう、何も望むものはない。
 ルッチ。
  リリア
 2番目に現れた男が口にした名前が記憶の中のあるべき場所におさまった。あまりに早くて鮮明な渦巻くような記憶の流れに失いかけた意識を唇を噛んでとど めた。

「・・・ルッチ・・・」

 名前を呟きながら倒れかかった身体を受け止めたのは娘の傍らに立っていたホークではなく、黒衣の男の腕だった。

「・・・いつまでも無茶をする。おとなしくあの屋敷におさまってしまえば・・・それで終わりだっただろうに。 リリア

 ルッチに呼ばれた名前が心に沁みた。

「・・・ルッチ・・・ルッチ・・・」

  リリアは手を伸ばしてルッチの身体にしがみついた。
 死んでしまったかもしれないと思ったあの時の恐怖と悲しみを思い出す。それと入れ替わるように切ないほどの喜びが溢れる。
 ルッチは リリアの銀色の頭から視線を上げ、ホークを見た。

「こういう場合、また金を払うか?」

「おい、ルッチ。 リリアの前じゃ。あまり即物的な物言いはやめておけ」

「・・・相変わらず甘いな、カク」

「当たり前じゃ。 リリアはわしにとっては守護天使みたいなものじゃからのう」

 天使。
 その言葉を聞いた リリアはハッとして身体を硬くした。冗談でもその呼び名は自分にはふさわしくないと感じた。
 記憶が戻ったのはいい。でも、だからといって記憶をなくしていた間のことが代わりに消えてなくなるわけではない。
  リリアはゆっくりとルッチの身体から手を離した。
 うなだれてしまったその姿に男達の視線が集まった。

「どうしたんじゃ、 リリア?照れ屋なところはかわらんかのう」

  リリアは数歩身体を退いてルッチから離れた。

「わたし・・・」

 震える声を聞いたカクはルッチの顔を見た。
 ルッチは腕を組み短く息を吐いた。

「何も変わらん。お前が不感症になったらしいという噂を聞いたが、夕べ確かめても変わりはなかった。お前のままだ・・・拍子抜けするほどにな。 リリア

 ルッチの顔に不機嫌そうな表情が浮かんだ。

「・・・なんちゅう言い方をするんじゃ。まあ・・・・言いたいところはくんでやれ、 リリア。お前が前のまんまなら、ルッチも変わりようがない男じゃ」

 娘は涙に濡れた瞳でルッチとカクを順番に見た。

「・・・ったく、どこの旅回り一座だ」

 ずっと無言のまま様子を見ていたホークはため息をついた。そして、目の前にある リリアの背中を強く一押しした。不意の圧力にバランスを崩して前に進んできた リリアをルッチは黙って見下ろした。

「連れて行け。俺はこの金をあの男に返す。それで誰も文句は言えなくなる」

「ホーク」

 振り向いた リリアの顔にホークは唇を歪めた。

「素材は悪くなかったが、お前、やっぱり色街向きじゃないな。俺は手を引く」

 ルッチは鋭い視線でホークの顔を見た。
 カクはのんびりと笑った。

「案外人間らしい男じゃの、あんたは。金はどうする?ルッチから取るか?」

「・・・いらない。昨日、この身請けの金より多くもらった」

「呆れたな、ルッチ。お前、一体どれだけ・・・・ま、いいか。それなら長居は無用じゃの」

 カクは リリアを抱き上げた。

「お前には今これはできんじゃろうからのう」

「フン」

「でも、カク、わたし・・・」

 カクは面白がるように笑い抱いている腕に力を入れた。

「照れんでいい、 リリア。大丈夫じゃ。誰も観客がいなくなったらちゃんとルッチに交代するからのう」

 困惑の色濃い リリアの顔の前にハットリが舞い下りた。

「ポッポー?」

  リリアは小さな白い身体を抱きしめた。

「ごめんね、ハットリ。この間はまだ思い出せなかったの、何もかも」

「クルッポー!」

 ハットリは満足気に鳴くと娘の頭に両羽を回した。

 ただ不機嫌そうに立っている男。
 嬉しげに笑う男とその腕の中で渦巻く感情に包まれている娘。
 まるで人間のように振舞う鳩。

 ホークは一人、肩を竦めた。恐らく一枚の絵の中におさまるべきものが全部おさまったという場面なのだろう。彼としてはこれ以上とても見ている気分にはな らない。プロとしては望みがかなうと思った瞬間にそれを奪われてしまった哀れな客のフォローでもしておくべきだろう。

「さっさと行け。この街から出て行け。ここにいる限りそいつはいつまでもNo.1だ」

 ルッチは最後にホークを一瞥し背を向けた。

「もうそれは他人の呼び名じゃ。・・・・忘れることじゃな、あんたも」

 歩きはじめたルッチの後を追うカクの腕の中で リリアはホークを見た。

「・・・ありがとう、ホーク。あなたが言ったとおり失くしたものを見つけられた」

「・・・馬鹿。あれはお前を手に入れるために使った飾りの言葉みたいなものだ」

 黒いレンズの奥の瞳にはどんな感情が浮かんでいるのか。
 ホークは離れていく姿を・・・揺れる銀色の髪をほんの一瞬見つめ、背を向けた。

「さて、そろそろ不機嫌なルッチにお前を渡そうかの。若干殺気が強くなった気もするし」

「カク、わたし、自分で歩く」

「この綺麗じゃがズルズルのドレスでか?まず服を何とかしないとのう。一応、お前、訳ありのわしらと一緒になってしまったわけだし」

「・・・訳あり?」

「まあ、積もる話は後じゃ。ここは隣町までひとっ飛び。あまり夜が更けないうちに宿を取りたいのう、ルッチ。ほれ!」

 無造作に宙に放り出されて思わず目を瞑った リリアは受け止めてくれた腕にしがみついた。

「飛ぶぞ」

 細い身体をしっかりと抱きなおしたルッチは林の中を走り、木々の幹を蹴りながら宙に上がった。
  リリアはルッチの胸の中の鼓動を聞いた。
 生きている。走り、飛んでいる。
 枝葉を鳴らしながら林を渡っていく身体の周りには風が起きた。
 ルッチ。
 風に託すように囁いた名前はすぐに遠くに流れて行った。
 もう一度抱きしめられた腕の強さに、声が届いたことを知った。

2006.9.27

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