すべて曲線からできているように見えるバスタブに身体を沈めると湯の熱さがゆっくりと肌に浸透してきた。この感覚は嫌いではなかったが、時々抵抗の出来な い脱力感とそれに対する警戒心に身体の表面が鋭敏なパルスを感じることもある。バスタブという限られた空間の中の湯がまるで大海の水に繋がっているよう な。その中に落ちてしまえば決して敵わないと知っている唯一の存在に。
感覚に逆らうように身体を伸ばしたルッチは短い吐息とともにバスタブの縁に頭をのせた。
失ったもの。取り戻したもの。そんな計算に興味はなかったが、安普請の宿の薄い壁の向こうから漏れ聞こえる話し声が彼に想起という珍しい行動を取らせよ うとする。
名ばかりの少年時代から同じ組織に属してきた男。
気がつけば彼のそばにいた少女。
・・・聞こえているぞ、すべて。
ルッチは目を閉じた。
「豹?」
リリアは熱を出していた。顔の横にハットリを眠らせて少女自身もベッドに入っていた。
無理もない。カクは少女の額の上のタオルを替えた。彼とルッチはこの2週間ほど記憶を失った少女をただ陰から見守ってきた。その間に耳にした噂や拾い集 めた情報から
リリアがエニエス・ロビーのあの戦いから半年間、およそその心と身体には似合わない薄闇に包まれた生活をしてきたことを知った。記憶を 取り戻した今、この半年の全ては少女にとって苦痛でしかないだろう。
痛ましいことじゃったな。
そっと額を撫ぜたカクの手に少女は驚いたように瞳を見開いた。
「カク?」
「いや、なんでもないんじゃよ。お前が身体に傷を負って動けないでいた時、わしらもそれぞれに倒れてしまっておったからのう。今はただ、お前を海に逃がし た誰かに感謝しておくとしようかの」
傷ついて記憶を失った少女は海の上に浮かぶボートの中で身体を丸めていたのだという。それを見つけて助け上げた船員達によれば、傷には簡単ではあるが応 急処置が施されていたと言う。そのおかげで少女は命を取り留めた。
「でも、カク・・・・ルッチが豹って・・・・?」
カクは椅子に座りなおし、足を組んだ。ルッチが浴室に行っている今しかこの話をする機会はないだろう。後でルッチは怒るかもしれないが、それでも
リリアには知る権利がある。カクにはそう思えた。
「島の橋や建物が壊されたのをお前も知っとるじゃろ?あの崩壊の中でもしも落ちた先が海だったらそのままお陀仏といったところじゃった。・・・・ああ、お 前は知らんかもしれないがわしもあの時にはもう悪魔の実を食べていたんでのう」
少女が目を丸くするのを見てカクは笑った。
「はは、意外とお前はわしのあの姿を気に入ってくれるかもしれんのう。わしはかなり気に入っとる。そのうちこっそり見せてやろうな。で、気がついた時にわ しが倒れていたのはギリギリ地面の端じゃった。敗北感がいっぱいじゃったし身体は痛いわ半分感覚がないわでな・・・だが、そのわりに目覚めた気分は最悪で もなかった。その時、見たんじゃよ・・・ルッチの頭と尾の先が海に沈んでいくところを」
不安げに自分を見る少女の額を再びそっと撫ぜ、カクは話し続けた。
「見えてはいても身体はなかなか動かなかった。わしらCP9は個々の能力を高めあうために互いを相手に戦うことはあっても、協力し合うやら連携すると言う 習慣はなかった。まして、任務の最中に誰かが命を落とすことがあってもそれは正義を守るためには必要な犠牲に過ぎないと気持ちと身体に叩き込まれてきた。 だから、あの時わしは沈んでいくルッチを見ながら自分の気持ちを黙って覗いていた。心を動かされることはないじゃろうと思っていた。ただ、最後を看取って やるのもひとつの縁じゃと・・・それから自分も自然とその後を追うことになるんだと思った」
カクは目を閉じた。
「じゃがのう・・・・。あのなぁ、
リリア、わしはCP9の候補生として施設に入った幼い頃、心が偏ったおかしな子どもだったんじゃ。今もまっとうな人間とは言えない が・・・言いたくもないが、あの頃は今思えば本当にバランスを欠いた子どもでのう。で、そのわしと一緒にいたのがルッチだったんじゃ。わしより数年先に施 設に入っていたルッチになぜかわしは勝手に懐いてな。おかしなもんじゃ、他人の言葉や周りの景色にちっとも色がある現実に思えなくても、ルッチの言葉を聞 くとその言葉や対象だけはちゃんとそこにあるように思えたんじゃ。もしかしたらあの頃にルッチだけは特別な色をつけてわしの中に存在するようになってたの かもしれん。わしは、ルッチを死なせるわけにはいかないと思った。麦わらに負けたルッチ自身はもしかしたら生きていくことに固執してはいなかったかもしれ ん。だがわしは、こだわった。何とか起き上がって折れた木材を掴んだ。それで必死になってルッチの身体を水の中から掻き寄せた。ようやくルッチの身体を地 面に引きずり上げた時には目が回って、しばらくそのまま意識をなくしていたようじゃ。気がついたら恐ろしく静まり返った空気の中にいた。エニエス・ロビー は完全に廃墟になっとった。そしてルッチは、背中にあの傷を持った豹の姿になって力なく身体を横たえて目をつぶっておった」
リリアの震える息づかいに気がついたカクは目を開け、またタオルを替えてやった。
「最初、ルッチはわしに身体を触らせようとしなかった。本物の豹のように低く唸りながら金色の目で睨むんじゃ。わしは自分も体力がほとんどない状態じゃっ たから恐ろしく気が短くなっとって、何度もルッチを怒鳴りつけた。無理矢理怪我の手当てをするために乱暴に身体を押さえつけたりもした。何度かわしの腕に 噛み付いた後、なぜかルッチはすっかり抵抗するのをやめた。でも相変わらず豹の姿のままでいつも黙って遠くを見てた。脱出した後も水を飲もうともせず何も 食べない。傷を負って一人ひそかに死んでいく孤高の獣のようじゃった。そんな時にわしらを探し当てたのがハットリで・・・まあ、この辺の話はいつかルッチ 本人から聞くのがよかろう。とにかく、ルッチはそのハットリとの再会をきっかけに人間の姿に戻ったんじゃ」
カクの話をずっと無言で聞いていた
リリアは、ここで安堵のため息をついた。
「それからは負った傷を癒しながら二人で次々と場所を変えた。わしらの立場は微妙じゃ。あのままエニエス・ロビーに残って待っていたら、もしかしたらまた 世界政府のために働くことになったのかもしれん。そうしないで許可のないまま勝手に離脱したわしらは今は多分世界政府のお尋ね者じゃ。いろいろと知りすぎ ておるからのう。わしはルッチが戻ると言えば一緒に組織に戻ってもいいかと思ってたんじゃが、ルッチは何も言わずに移動し続けた。・・・・お前を探してい る・・・と、わしはこっそり思っておったよ。ルッチは絶対に認めんじゃろうがな。でも、お前を見つけてもルッチはすぐに迎えには行かなかった。ただハット リをお前のところにやっただけじゃった。お前が記憶をなくしていることを噂で聞いておったからかもしれん。ルッチは何も言わんからわからんが。わしらはそ れぞれにお前の様子を見守っていた。宿に戻って顔を合わせてもお前の話はしなかった。ルッチは何を考えて何を待っていたのかのう。わしはお前が生きていて くれて元気にしとるのを見てすぐに本当は会いに行きたかった。でもルッチがじっとしとったから・・・・人間の姿はしとったがあの豹になってたときと雰囲気 が同じようじゃったから、わしも黙って待っとった。お前達の間にまた縁がつながるのかどうか・・・不思議じゃがあんまり心配はしなかった。つながらんもの ならもっと前にとっくに切れとる、そう思ったからのう。とまあ、こんな感じだったんじゃ、わしらは」
カクはグラスの酒を一口飲んだ。話が終わったとわかった
リリアは少し躊躇ったあと、気になっていることを口にした。
「・・・カリファは・・・」
カクの顔は一瞬感情を消した。残りの酒を一気に飲み干すと、やがてカクは微笑しながら感情が揺れる瞳で
リリアを見た。
「・・・もしも、目の前でルッチでなくカリファが水の中に沈んでいくのを見たのだったら、わしは自分が悪魔の実を食べたことも忘れて助けるために水に入っ てしまったかもしれん。カリファもわしと一緒にあの実を食べたから、そのまま二人一緒に溺れ死んだかもしれん。・・・そういうのも案外悪くはないと思って しまうくらい、わしは今も前と少しも変わらない気持ちなんじゃと思う。じゃが、わしが見たのはルッチだった。カリファの姿はどこにもなかった。とすれ ば・・・これが運命と言うやつなのかもしれんな」
カクの穏やかな話し方が余計に
リリアの胸に響いた。
何も言えない少女の頬に指先を触れ、カクは静かに立ち上がった。
「さて、交代して風呂に入って来ようかの。何じゃ、
リリア、顔が赤くなったのは熱のせいだけじゃなさそうじゃの」
カクが歩いていくとバスルームの扉が開き、ガウンに身を包んだルッチがタオルで髪を拭きながら現れた。浴室に入ったカクは振り向いて室内を一瞥して口角 を上げ、音を立てないように扉を閉めた。
リリアはベッドの中からルッチの姿を見つめた。
どれだけ見ても足りない気がした。
ゆっくりと髪を拭う手と腕の動き。少し傾げた首の角度。
何もかもが懐かしく、嬉しく、見ていると前以上に胸の鼓動が速くなる。
ルッチは2個のグラスの片方に水を、もう一方に酒を注ぎ、両手にそれを持ちながらベッドの脇に歩み寄った。
「・・・熱が上がったか」
サイドテーブルに水のグラスだけ置くとルッチは立ったまま
リリアの頬の赤みを無表情に見下ろした。まるでこの半年が間になかったように少女の顔色を判断する自分に僅かに唇を歪めた。
毛布の下で少女の手が動いた。彼に向けて差し伸べたいと思い、すぐにそれを諦めたのだとわかる。遠慮深さも恥じらいもまったく変わっていない。呆れるほ どに。
リリアはゆっくりと目を瞬いた。
立っているルッチとの視線の距離を熱いと思った。無表情なルッチとは違い、自分はこの距離とルッチの存在そのものに熱さを感じてどうしていいかわからな くなっている。鼻の頭までそっと毛布に潜ったのは少しでも熱さから逃れるためだったが、どうやらまったく効果はないらしい。
身体も心も高熱を発している。今夜一晩眠れば恐らく片方は治るがもう片方は無理だ。
ルッチはグラスを傾け静かに中身を飲み干した。そのグラスを持つ指と手の形、曲げた手首にさえ
リリアの心は高鳴ってしまう。
ダメだ。
リリアが頭の上まで毛布を引っ張ろうとした時、ルッチはベッドの端に腰掛けて少女の手を掴んだ。
「面白いな・・・お前は」
その言葉を口にしたルッチと耳に聞いた
リリア、どちらがその響きの懐かしさに先に気がついただろう。
リリアは溢れそうになった涙を見せないために慌てて空いた手で目を拭った。
ルッチはしばらく黙ってそのまま少女を眺めていた。それからガウンの胸元に手を入れて何かを引っ張り出すとそれを握らせてから少女の手を離した。
リリアはルッチの動作をじっと見つめていたが、手を握ったまま中の感触に心を集中した。小さな固い丸み、そしてそれに繋がっている細い 紐のようなもの。
これは。
思わず息を止め、手を開いた。手の平の上で紫色の石がベッドサイドランプの明かりを受けてしっとりと輝いた。あの時、ハットリに託した石。心の全てを預 けた石だった。
「これは・・・お前のものだ。確かに返したぞ」
低く囁いたルッチの心の中には半年前のある日の場面が蘇っているのかもしれなかった。
傷の手当てをしようとするカクに逆らうことも面倒になってただ一頭の獣として一日の半分以上をまどろみの中で過ごしていた日々。そんな時に彼を探し出し て飛来したハットリは嘴に見覚えのある宝石を咥えていた。深い紫色の石。ある少女の瞳とそっくり同じ色。バスターコールという破壊に満ちたあの場所で恐ら くは命を終わらせた一人の少女。
彼の中に蘇ったその姿は驚くほど鮮明でその声と体温、肌の感触さえもついさっき感じたばかりのように思えた。
これは俺のものじゃない。
ルッチは心の中で呟いた。
これは・・・・
リリアのものだ。
人間の姿に戻ったルッチは首からその石を下げた。そうしておけば本当の所有者に戻すまで失くすこともないだろうと・・・心の中で付け加えた。
「ルッチ」
少女の声が彼を呼んだ。他には何も言えなくなっているらしい様子が前と変わらず可笑しかった。
「バカヤロウ」
ずっと口にしていなかった言葉が滑り出た。
また何かをひとつ取り戻した気がした。もうそれを失いたくないと思うのは彼の流儀ではない。だから、それを祈る代わりに少女の手から石を取り、静かに細 い首に巻いた。