もしかしたらルッチは微笑もうとしたのかもしれない。そして、それをやめたのかもしれない。
リリアはルッチの瞳と口元に感じた気配から目を離すことができなかった。
背後から受けた光の中で生じかけた温和な空気。目を細めたルッチが短く息を吐いたとき、それは消えた。
「何を見ている。・・・そんな顔を・・・見せるな」
自分は今どんな顔をしているのだろう。
リリアは確かめるように両頬を手で触れた。再会してから、ルッチの前で表れそうになる感情を抑えるのが以前よりも難しくなっていた。も しかしたら膝の上にいるハットリと同じような顔でルッチを見上げてしまっているのだろうか。純粋にルッチを慕い信じているつぶらな瞳。
リリアはハットリがルッチを見るその顔が好きで、ハットリに返すルッチの視線も好きだった。
ルッチは左手を差し出してハットリをとまらせ、右手の指先でゆっくりと少女の顔の輪郭をたどった。見せるなと言いながら視線をとどめてしまう少女の表情 を作っている唇を、目の下をさらにたどる。恐らくそこにあるはずの無条件の信頼に直接触れて乱してみたくなる。
ハットリの信頼に慣れるまでどれほどの時間がかかったのだっただろうか。片手で握りつぶし、豹となった一噛みで食い散らせそうなちっぽけな身体の中にあ るものを価値あるものと認めるまでに。
ルッチと
リリア、そしてハットリ。やわらかな光の中でただ視線を合わせ続けた。
まだどこか線が細い印象が残るルッチの手の上で、白鳩は嘴を使って進むべき方向を示した。
そう言えばこの鳩の名前を知らない。主であるあの老人の呼称は知っている。そもそも、鳥に名前は必要だろうか。
ルッチは嘴が示す方へ足を向けながら次第に馬鹿らしさを感じはじめていた。手の上の爪の感触、軽いとしか形容できない重さ。白い羽毛に覆われた身体の中 の心臓も鼓動の強さも流れる血の量も多分とても小さいだろう。
「なんと・・・・連れてきてしまったのか、荒々しく生まれ変わろうとしている魂を。見込みがあると判断したということか?フクベ」
どこからか姿を現した老人の着地は、音もなく・・・と言えるものではなかった。しかし気配の消滅は完全で、ルッチはその小柄な姿が目の前に現れるまで少 しも存在を感じなかった。
白鳩は大きく羽ばたいて舞い上がり、老人の肩に下りた。
「あなたはもう船に戻っていたと思っていた・・・トリロ」
自分を凝視する少年の視線にトリロは瞳を和らげた。そのおよそCP9の一員らしいとは思えない表情にルッチは眉を顰めた。
「そのつもりだった。衰えた六式ではお前たち他のメンバーの邪魔になるしかないと自覚してるからな。でもな、最近、自分が関わった任務の最後が気になるよ うになってな。自分が果たした役割が何に繋がり、どう終焉するのか見届けたくなった。年のせいかな」
トリロの手がルッチを招いた。
ルッチは数歩近づき手ごろな距離と思われる間をとって足を止めた。
「まあ、ちょっと座らんか。船に戻れば皆と合流。こんな風に話す機会はあり得ない」
トリロが指し示したのは初期の戦闘で崩れた建物の廃材の山だった。ルッチはまだ老人の姿を凝視しながらしなやかな身のこなしで腰を下ろした。
「最年少で組織に加えられただけのことはある。お前は聡明さも体術の会得の早さも他に類を見ないほどに優れている。この闇の組織の一員である我らは所詮は ただのコマに過ぎないが、お前はそのコマの中でのリーダーになるべくこれからさらに教育されるだろう。不運なことだ」
「・・・不運?」
ルッチの唇に笑みが浮かんだ。トリロは少年の顔に浮かんだ鮮やかさに驚きながらも、一見大人びて見えるそれに残る未熟さに首を横に振った。
「これまではただ己を強くすることと躊躇いなく命を奪うことに喜びを感じるように身体と心に叩き込まれてきただろう。それだけでも十分、常人とは異なった 存在になっているが、お前はこれから命だけでなく魂を殺す手段も教えられることになる」
「随分と文学的な表現だ」
「わかりやすく言えば女を抱き、男に身体を開くということだ。単純な強さを早く身につけすぎたお前は、お前をコマとして使う者を欲張りにしてしまう。お前 に心を完全に失くすことを望むだろう」
ルッチの笑みが深まった。
「心など、残っているか?」
「あるさ。・・・六式を身につけたばかりの頃はただの殺戮機械となって澱んだ快感を貪ってきたこの老いぼれと同じでな。とっくに捨てた、消したと思ってい ても知らぬ間に蘇ってここにある。これもまた不運なことだな」
トリロは肩の上で首を傾げて覗き込んでいる鳩に微笑んだ。
「本当に心を消すことができていたら、こいつとこうやっていることもなかっただろう」
ルッチは理解しがたいと思いながら目の前の光景を眺めた。
「結局、あなたは何を言いたい?」
「任務がなくて一人でいるときは己の心を会話をしろ。他人の魂と命を奪う技を身につけても、己の中にも同じものがあるということを忘れるな・・・そういう ことだ。ただのお節介にすぎないがな。年若く何もかもが一番柔軟なはずのお前をほっておくことができなかった。老人の戯言だ。遺言とでも思って忘れないで おけ」
「・・・・あと何ヶ月かたてば引退だと聞いている」
「そう。わしもそう聞いている。まあ、これは噂を確かめるための機会みたいなものだな」
「噂?」
「知らないだろうな、お前はまだ。この組織に所属して長く命を保ち続ける者の数はそう多くはない。そして、無事に引退という引き際を迎えた者たちは、名前 も身分もそれまで生きてきたものとは完全に別なものを与えられて新しい人生を生きる。お前はそう説明されてきたはずだ。だがな、新しく生まれ変わったはず の引退者たちの姿・・・・これまでに確認されたことはないんだ。別の人生を生きているから、というのが理由だというが、わしらの探索力、情報収集能力を もってしてもほんの僅かな痕跡さえ見つけることができないというのはあまりにおかしくはないか?頭を切り替えて少し考えればお前もきっと同じ結論を出す。 ひとつの情報も見つからないのは・・・」
「もう生きてはいないからだ、ということか」
大きく頷いたトリロの顔は急に普通の老人らしく見えた。
ルッチは唇を歪めた。
「あなたは自分の身でそれを確かめるというが、もしもあなたの推理が正しかった場合、真実を確かめたときにはあなたは死んでいる」
トリロの顔にも微笑が浮かんだ。
「そうだな。そしてそのことにさして腹もたたないだろうよ。だが、好奇心への答えはわし一人で独占するのもつまらないだろう。お前さんを巻き込んでもう少 し楽しませてもらおう。わしが引退した後、もしもこのフクベがある日突然お前のところに現れたら、それはわしが死んだということだ。現れなかったらわしは どこか退屈すぎるほど平和な場所で残りの人生を楽しんでるだろう」
「・・・俺は関係ない」
「そう言い切れることを願うしかないな。まあ、老人の我侭だと思ってつきあってくれ」
ルッチはトリロの顔に現れた笑い皺を眺めた。この老人が生きてきた年月がどれほどか、まったく想像することはできなかった。