雛はルッチの顔を見ても口を開けようとはしなかった。
当たり前だ、とトリロは言った。雛の意識にはすでに親としてのフクベの存在が刷り込まれている。それに対抗するためには、今度は多少強引にでも餌付けと いう条件反射を人間の側が刷り込まなければならないのだ、と。
トリロの部屋で半日を過ごしたルッチは手の中に不恰好な巣を持って部屋に戻った。戸口の前までルッチを追って飛んできたフクベは一度だけ軽くルッチの頭 を嘴で突いた。本能よりも主への忠心を選んだその姿を振り返ることなくルッチは歩き続けた。
なぜ、こんなくだらないことに巻き込まれることを自分に許しているのだろう。ちっぽけな巣とは対照的に部屋の隅に山積みになっている飼料、新聞紙、野菜 を横目で眺めたルッチの口から吐息が漏れた。指先の1、2本で絶つことができそうな体長数センチの命。素直に口を開けることはしないが、ルッチの身体の動 きにあわせて丸い瞳が後を追う。左に動けば左、手を上に伸ばせば上に。飽くなき好奇心は自衛本能の表れだろうか。
それから3日、ルッチは雛の世話にかかりきりになった。呼び出されるまでは他にすることもなかった。本を読み、毎日の自室でのエクササイズをこなし、そ の合間に雛に食事を与え巣の掃除をした。
「ピッルー?」
雛の鳴き声は想像していたものとはだいぶ違っていた。首を傾げて鳴く様子はまるで会話をしようとしている人間のようだった。
「・・・気軽に返事をするようになったら終わりだな」
呟いたルッチは丸い瞳をよぎった反応の鮮やかさに驚きを感じた。
「ピッピール、ピッポー」
懸命に音を返そうとする姿は玩具のようで滑稽だった。
ゆっくりと時間が過ぎた。
あれからさらに5回、教練という名目の時間に女を抱いた。そのうち後半3回は毎回別の女を相手にした。五感に感じる様々なものを心の外に遮断する術もわ かりはじめた。刺激の程度と時間の組み合わせを様々に変えて、得られる反応から次の組み合わせを考えた。
部屋に戻ると女を抱いた痕跡を身体からすべて消してから雛に食事をさせた。その頃には自分で餌を啄ばむことも覚えだしていた雛は、身体も大きくなり柔ら かな羽毛に覆われはじめていた。
「・・・女はとりあえず卒業らしい」
独り言のように呟いたルッチの声に、雛は顔を上げて一声高らかに鳴いた。
「逆の立場は・・・気が進まない」
ルッチが自分の口から零れた愚痴に苦笑すると雛は首を傾げた。その邪気の無さに訳もなく怒りを覚えた後にそれが八つ当たりであることを自覚したルッチ は、黙って飲み水を交換した。日課となっている小事をこなしていくうちに波立っていた心が静まっていった。
「いいさ・・・俺を抱く相手を飲み込む方法を見つけるまでだ。それを卒業したら次には自分にやられたことを男相手にやってみろと言われる・・・・それだけ だ」
少年の顔に浮かんだ微笑には無自覚の妖艶さの気配があった。
「ピルッピルー?」
小さく羽ばたいて見せた雛に視線を戻したルッチの顔はすでに平静そのものだった。
「気にするな。・・・もっと野菜を食べろ」
「ピルルル」
いつの間にか雛を相手の口数が僅かずつではあるが増えていた。時々ルッチは今の時期の自分に偶然のようにこの雛を与えたトリロのことを思い出した。そこ には何の思惑もなかったのだろうか。引退前の最後の任務は予定よりも長引いているらしく、まだ帰還の報告はない。戻ってきたら聞いてみようと決めていた。
これが誰かを待つ、という感情か。弱いものではあるが。
気がついたルッチは指先で雛の頭に触れた。伝わってきたものは予想よりも熱かった。
結局、老人と白鳩は戻らなかった。
長期にわたった任務の終了と同時に引退し、報告の書面だけを残して第二の人生に旅立ったと聞かされた。ともに任務に当たったCP9の一人がルッチに一つ の包みを渡した。中に入っていたのは見覚えがあるパイプと煙草の葉の小袋だった。
これからが賭けのはじまりだ
誰の目にも見慣れたパイプはやめて楽な紙巻に変えようと思う
気が変わらないうちにお前にこれを託す
ハットリによろしく伝えておくれ
中に一緒に入っていた一枚の紙切れに書かれた文字を読んだ時、最初はそれが雛の名前であることに気がつかなかった。
フクベにハットリ。
理解できないネーミングセンスだと思った。
「どうやらお前は名前をもらったらしい」
声をかけるとふらふらと舞い上がった白鳩は真剣な顔でルッチの肩に下りた。
「・・・カク、という名前でもいいかとは思ったが・・・」
ルッチの顔を通り過ぎた見えるか見えないかギリギリの笑みを追うように白鳩は頭をルッチの頬に触れた。ルッチはまだ慣れないそのくすぐったい感触に眉を 顰めた。
「やめておけ・・・・ハットリ」
初めて呼ばれた名前を聞分けたように、白鳩は一声鳴いて舞い上がった。