咲 香

写真/淡い色の薔薇 その日。
 会社が順調な軌道に乗りはじめたガレーラカンパニーの社長、アイスバーグは彼の元で日々熱心に作業をこなし腕を磨いている職人たちをねぎらうために ウォーターセブンの中心街にある酒場、ブルーノの店を夕刻から借り切っていた。アイスバーグの技と人柄を慕って彼の元に集まった職人たち。年齢以上の腕や どこか光るものを見出して呼び寄せた職人たち。地元出身の者も海を越えて来た者も造船にかけた想いと誇りが共通しているだけあって互いに馴染むのはとても 早かったようだ。これまで自分たちが作ってきた船やこれからの夢について語り合い、時には熱くなりすぎて子どものように素直に喧嘩をする。そんな男たちを 見守るアイスバーグの瞳には温かさと懐慕の色が浮かんでいた。
 男が溢れた店内にいる女はただ二人。一人はアイスバーグの隣りで常に一歩後ろに下がって控えている有能な秘書、カリファ。勤めはじめた頃は短かった髪も 伸びてこの頃は後ろで綺麗にまとめあげる髪型に変えた。露になったうなじの白さと全身のスタイルのよさが冷静な知性の奥の女らしさをほのかに感じさせる。 今日も懲りずにカリファのスカート丈に文句をつける金髪男を軽くあしらいながら、カリファの視線は常にアイスバーグの上に戻った。
 もう一人は一ヶ月ほど前にこの酒場に雇われた少女で銀髪と紫色の瞳が印象的だった。細い身体でよく動き、床磨きからウエイトレス、時には習いはじめたカ クテルも作る。女に対して強気な大男たちも逆にこれまで女を避けるように己の道一筋だった男たちも、なぜかこの リリアには弱いようで少女の人気は日に日に上がっていた。噂では リリアがこの街に来た時に最初に出会った人間がアイスバーグだと言う。船大工たちにとってこれ以上の運命はなかった。アイスバーグが庇 護する少女なら勿論彼らも盛り立ててやらなければならないというものだ。今 リリアは職人の一人と笑顔で話しこんでいた。相手は四角い形の長い鼻と若者のくせにどこぞの爺さんのような口調が特徴的なここにいる男 たちの中でも高い技術の持ち主であることを認められている青年だった。
 さっきカリファの服装に文句を言っていた男は名前をパウリーというのだが、このパウリーが職人たちのムードメーカー的な存在であることは一目瞭然だっ た。どうやら昨日何かいいことがあったらしく普段より少し高い酒をボトルで注文して気前よく振舞っている。彼を中心に雰囲気が盛り上がって店の中はお祭り 騒ぎになっていた。
 その喧騒の中で静かにグラスを傾ける男とそのそばに立って慣れた手つきでグラスを磨く男の姿があった。ルッチとブルーノ。一人は白い鳩を肩にのせた寡黙 な船大工。そしてもう一人はこの酒場の店主で温厚な大男。本当は二人の間にはさらに深い繋がりがあるのだが、その闇色のつながりはこの街では明るい光の影 に沈んでいた。ほんの時たま今のように二人の周りに誰の姿も好奇心もなくなった時にだけ、二人は短い言葉で本当の言葉を交わすことがあった。

「・・・自分が『女』にした相手のことをどう思うか、と訊かれたことがあったな」

 グラスを磨きながら呟いたブルーノの視線は離れたテーブルに座るカリファに向けられていた。アイスバーグに答え、アイスバーグに語り、アイスバーグを支 える美しい女で腹心の部下。その姿は予定通りのものでそれ以上でもそれ以下でもなかった。
 ルッチはブルーノの視線を追い一口含んだ酒を飲み下した。

「『愛しい』というやつか?」

 ルッチの顔には嘲笑も好奇心も他のどの感情も見えなかった。だからブルーノはいつもルッチに本当のことを言えた。

「・・・そうだな。その言葉が合うかもしれないな。・・・守りたいとおもうほどに。そして何かあったら俺のこの手で殺してやろうと思えるほどに」

 ルッチは改めてブルーノの顔を見た。時々、カリファからは見えない場所でブルーノは今のような顔をする。それはブルーノがカクを見るときの顔とどこか似 てはいるが、恐らく決定的な部分でまったく異なっている。そしてブルーノがルッチに向ける顔は二人に向けるものとは全然違う。
 ルッチはカリファに視線を移した。冴えた知性の陰にある艶めいたもの。普通の男ならそれに気がつかないはずはない誘惑の性。パウリーのような餓鬼くさい 男には手を伸ばすよりも真正面から顔を赤らめながら垣間見るのが似合っているが、なぜアイスバーグはまるで無頓着な顔をしているのだろう。カリファの有能 さを認めて尊重しているのは確かに賢い。けれどルッチの客観的な瞳にさえ誘惑のエッセンスを感じることができるカリファのそれをそういつまでも見ない振り はできるはずもなく思えた。
 カリファの魅惑。このブルーノが磨き上げたもの。
 確認の意味で一度ルッチがカリファを抱いた時、その深さと豊かさにひそかに驚いたものだ。その時までにブルーノがカリファを抱いたのはほんの数回だった はずで、それなのにここまで女の身体を仕込むことができるのか、女を形作ることができるのか・・・・それはルッチの想像を超えていた。まだカリファ が・・・そしてカクが幼い頃から何かとそばにいて面倒をみてきたブルーノ。いつのまにかブルーノと対等な口をきくようになっていたルッチにとって時にはそ れは不必要な甘さに見えた。けれどカリファを抱いた時、ブルーノがしてきたことは少なくともカリファを作り上げるためには無駄ではなかったのだという点で 認識を改めた。
 ブルーノは大きくて深い男だ。素朴で忠実で静謐。ルッチの身体を開いたときの様子を思い出せばカリファを開花させた才能も納得できる。そのブルーノがカ リファに送る視線の意味を推測すること自体が不遜なのかもしれない。

「お前にならカリファはただ・・・命を与えるだろうな」

 そして心はもしかしたらアイスバーグという男に。本人はまだまったく気がついていないようだがルッチは、そして誰よりもブルーノがそれを予感している。
 そしてカリファは組織を裏切るはずはない。できはしない。
 どう転んでも馬鹿な女だ。
 任務の遂行に影響がなければどれもルッチのあずかり知るところではなかった。それぞれが彼に見せたい姿を黙って見てやるだけだ。
 ルッチの感情を読み取らせない顔を見下ろしていたブルーノは空で置かれたグラスに酒を注いだ。

「この間、 リリアに花を持ってきたやつがいたよ」

 ルッチは口調が変わったブルーノに顔を向けた。

「花とは古風なことだな。情報が取れそうな男だったか?」

「いや、ただの若い見習いだ」

「坊やが生娘に贈り物か。暇なことだ」

 興味なさげに呟いたルッチの横顔は冷ややかだった。
 グラス磨きに戻ったブルーノは空になったグラスやボトルを集めて追加の注文を取っている リリアの姿を目で追った。ある日、任務から戻ったルッチが連れてきた少女。まだ普通なら無邪気でいられる年齢であるはずのその少女は不 思議とすんなり組織のメンバーになじんだ。明るい光が似合うその銀色の髪も澄んだ瞳も少女のどこかに潜んでいる闇への属性を隠しているのだろうか。 リリアの瞳はただ静かにルッチを見ているのだが。そしてルッチは無関心に リリアを放り出したように見えるのになぜかあれからずっと リリアをそばに置いている。
  リリアと同じくらいの年齢の時のまだ幼さが残っていたカリファに自分はどんな視線を向けていたのだろう。ブルーノは リリアの姿に面影を重ねた。けれどそこには彼が果たせる役割はないことはわかっていた。紫色の瞳にある種の光が宿るのは彼の目の前のこ の男を映した時だけなのだから。崇拝、思慕、幼い愛欲・・・・その光につける名前を定める事は誰にもできない。

 満載になった盆の重さを懸命に支えてきた リリアはカウンターにそれを置いて安堵の吐息をもらした。

「追加注文は『何でも飲めそうなものを適当に』でした、ブルーノさん」

 額にうっすら汗を浮かべた リリアの顔はブルーノには眩しく痛々しかった。

「わかった。かなり重くなるから俺が持って行く。お前はちょっと座って休め」

 ルッチの隣りのスツールを指で示したあとブルーノは店の奥に姿を消した。
 躊躇っていた リリアはルッチが小さく頷くのを確認してから静かに浅く腰掛けた。ルッチは氷が溶けて中味が薄くなった自分のグラスを少女の方に押し やった。

「馴染んだようだな。・・・何の花をもらった? リリア

 酒を飲めないはずの リリアはグラスに口をつけて小さく一口飲んだ。礼儀正しく感謝を示すために。白い顔に赤みが差した。

「綺麗な薄い色の薔薇だったけど、わたしには全然似あわないから受け取らなかった。・・・他の人にあげた方がいいって言った」

「・・・そう言ったのか?」

 聞き返すルッチに リリアは頷いた。それからハッとして視線を下げた。

「もらわなきゃいけなかった?」

「別にどっちでもいい」

 グラスを干したルッチは目を細めた。『花を持ってきたやつがいた』と言ったブルーノの言葉は嘘ではない。嘘ではないがその言い方には何か思惑が見える気 がした。ルッチは口角を上げた。闇世界の正直者、ブルーノ。油断できない男だ。

「花よりも宝石が似合う女になることだ」

 ルッチは リリアの宝石に似た瞳を見ながら囁いた。目を丸くして言葉を失った幼さに苦笑した。

2005.11.18

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