触れてはいけない空気が見える時がある。
つま先も、指先ひとつでも侵してはいけない領域を感じる時が。
普段から決して近寄りやすい空気を纏っている人ではないけれど、こういう時の姿はそれとも違う。
孤高で孤独。
細い月を見上げる横顔に表情は見えないのに、笑みの気配を感じる。
月を、自分を笑っているのか、それとも自分以外の他者に向けた笑みなのか。
その笑みさえも届かない領域の中にある。
背の高い後姿の肩にのっている白い姿は時々そっと視線を送ってくれる。
大丈夫だよ、ハットリ。あなただけがその中に入ることができる。そのことにほんの少し安心できるよ。
きっと、戻ってくる。
また、声を聞ける。
間に見えない壁があってもここにいることを許されているのが、今でも時々不思議になる。
連れて行く、と言ってくれた言葉が信じられないほど嬉しくなる。
ルッチ。あなたには月明かりがとてもよく似合う。
でもこうして眺めていると、瞬きした間にどこかへ消えてしまうんじゃないかと思う。
そう思うと・・・すごく、怖い。
言葉に出来ないほど怖くなるよ。
1つの年が終わり新しい年が来るということに意味があるかと問われれば、それに答える言葉はルッチの中にはない。自分が年齢を一つ重ねることにも意味は ない。CP9という組織に正式に配属された日から、年齢や月日を意識することはなくなった。
自分が年齢を意識する時がくるとしたら、それは相対した相手に負けて命を落とす時だろうと予想する。或いは、CP9に属する価値がない人間になった時と いうこともあり得る。知力・体力・精神力・六式体技・・・・そのどれかのレベルが落ちた時ということだ。
今現在どこにも所属していないこの身体は、果たしてエニエス・ロビーのあの時の力をまだ保っているだろうか。
ルッチは目を閉じ、まだ肌に生々しい感触が残る戦いを思った。
あのまだ少年の気配を残す海賊は、きっとまだまだ強くなる。その事に彼は感謝めいた気持ちを感じる。強くなり続けて命を保ってさえいれば、そのうちにま た顔を合わせる日もやって来る。また拳をぶつけ合うその時に、互いにあの時以上の手ごたえを感じることができればいい。そして最後に、闇の正義の下に沈め てやる。
自分が組織に戻ろうとしているのは、あの海賊との再会が目的だということはあるだろうか。まだ若い『年齢』を彼に感じさせたあのゴム人間に。そんな感情 を持つことができる生き物だっただろうか。
ルッチは月を見上げた。
弓の弦のような形の月に、今、矢を番えている者がいたら、簡単に彼の心臓を射抜くことができるだろう。
或いは。
そう。もしかしたら。
ルッチが斜めに後方を見下ろすと、驚いたように紫色の瞳が彼を見返した。
この少女は本当に気配を消すのが巧い。だから、つい、邪魔ではなくなってしまっている。邪魔でないからそばに置く。そして、時々こんな風に存在を思い出 す時、改めてその姿を見て幼さと美を認識する。けれど。
ルッチはほとんどわからないほど眉を顰めた。
離れていた間に伸びた
リリアの銀色の髪。以前は肩より伸びると重く感じられていたはずの長さに違和感がない。・・・・むしろ、繊細な顔に似合っていると言っ てもいいかもしれない。つまり。それだけ。
ルッチは低く息を吐いた。
リリアの上に流れた月日を初めて認めてしまったことが、なぜか不本意だった。
もう一度だけ、頬に揺れる長さまであの髪を切ってしまおうか。
ルッチはふわりと身体を移動し、彼を見上げたまま動けなくなっている
リリアの前に立った。
「・・・髪が伸びた」
リリアはやわらかく微笑した。
「また、切るの・・・・?」
黙ったまま見下ろすルッチの瞳に
リリアは見入った。深く、静かで、穏やかな夜の海のような。手が届くところに戻ってきてくれたルッチ。でも、触れるにはまだ自分の中の 高まりが強すぎる。きっとルッチは
リリアが強く想い過ぎることを望まないだろう、と思う。
「まだ切る必要はない。月の光にはよく合う」
まるでワインの味か何かを評するような言い方に
リリアは微笑を深めた。こういうところも・・・すべてに惹かれてしまうのだ。どうしようもないほど。
ルッチが今度ははっきりとわかるほど眉を顰めたので、
リリアは急いで微笑を引っ込めた。
リリアが感じていた熱を見透かされてしまっただろうか。そして、気分を不快にさせてしまっただろうか。
見守る
リリアの視線の中、ルッチの指が静かに伸びた。
「月の光の中で・・・・もっと見せろ」
リリアの頬から唇の先、顎の下、喉、肩と伝わったルッチの手が無造作に
リリアの手を掴んで引き上げた。座っていた床から持ち上げられた
リリアはそのままルッチの手に引かれてテラスに出た。冬らしい景色とは縁がないはずの土地だが、夜の空気はかなり冷たかった。緩やかに 通り過ぎる風の中で二人は向かい合って互いの顔を見た。今までに数え切れないほど互いの色々な表情を見てきたはずだった。
リリアの表情はもちろん、ルッチの無表情さにもいくつもの種類があることを
リリアは知っている。
それなのに、月の光の下で見る互いの顔に、これまでには見たことがない何かを見ているような気がしていた。美しいと同時に体内に潜む微熱を感じているよ うな。昼の太陽の下では気がつかなかったもう一段深い、相手の顔。
互いに声を出してはいけないと感じる空気の中で静かに合わせ続ける視線。そこに音も言葉もないまま通い合った何かを感じたのは・・・どちらかの錯覚だっ たのだろうか。
ルッチは
リリアの顎に指をかけ、ただ突然に唇を重ねた。
リリアは目を閉じてルッチの口づけを受け止め、深まるごとに身体を震わせた。
自分を支えきれずに崩れる・・・・そう
リリアが思ったとき、ルッチは
リリアの身体に腕を回した。それがあまりにあたたかく感じられて、
リリアは滲んだ涙が落ちないように堪えた。そっとルッチの背中に手を伸ばすとルッチの腕が力を強めたので、
リリアはルッチの背中を抱いた。
唇で、腕で、指先で交わす言葉のない時間。
ルッチが両手で
リリアの顔を包み首筋に唇を落とした時、風にのってどこか遠い鐘の音が二人の耳に届いた。
古い年が去り、新しい年が訪れようとしている。
そのことには意味はないと思いながら、ルッチは
リリアの喉元にひとつだけ紅いしるしを残した。普段深く抱いて
リリアの身体を開く時もその白い肌に跡を残すようなやり方は好まないのだが、今、ひとつだけなら気分に合う気がした。
「ん・・・?」
慣れない痛みに声を漏らしながら不思議そうに彼を見上げた
リリアに、ルッチは唇を歪めた。
「考えるな。ただ・・・・感じろ」
つけたばかりの紅を指先でなぞり、ルッチは再び唇を重ねた。
なり続ける鐘の音が消えるまで。
互いの身体の熱をゆっくりと分け合いながら、二人は時の狭間を抜けた。