午後、ステーションには島々を一周してきた海列車が戻ってきたはずだった。停車し、清掃・点検され、燃料を補給されているはずだ。そして明日、エニエス・ ロビーに向けて発車する。
リリアはふぅっと息を吐きながら窓を見た。
アイスバーグとパウリーを相手に沈黙を貫いた数日。2人の言葉の端々から早ければ明日にでもウォーターセブンから連れ出されて別の島に連れて行かれるの だろうと感じていた。ならば、チャンスは今夜1度。夜のうちになんとかこの部屋を出て列車に隠れ、発車を待つしかない。
リリアは慎重にブーツを履いた。毎日裸足で歩いてきた足は少し引き締まって細くなったのだろうか。余裕を感じた履き心地に苦笑した。痩 せてガリガリの身体に磨きがかかったということか。運動とスープとパンの食事のおかげでおそらく体重も落ちている。体力も少しは落ちたのかもしれないが、 身軽になったというのはいいことかもしれない。
ひとつひとつの小さなことを自分に有利に考えた。そうして紡ぎだした勇気という名の気持ちを抱えてテーブルの横にある椅子を持ち上げた。
チャンスは1度。後悔だけは絶対にしない。
より強く反動をつけるため、椅子を逆さまにして細い足の先を握った。
思い切り振り上げて窓にぶつけるとガラスは割れて破片が散った。自分がたてた音の大きさに震える気持ちを堪えながら、もう1度椅子をぶつけた。1枚の板 に亀裂が入り、もう1枚は浅く折れたのがわかった。
いける。外への出口を作ることができる。
リリアは形が歪んだ椅子を持ち上げ、渾身の力を込めて大きく振るった。
割れた板を足で蹴り、必死の思いでできた隙間に身体を通した。やはり、ガリガリの身体でよかった。ふと思いながら苦笑する。夜の空気を吸い込みながら見 上げれば、久しぶりに直接目で見た月は覚えていたよりも大きかった。
幾つもの人の気配と物音が聞こえはじめていた。
アイスバーグとパウリーがここに少女を捕えていることを他の人間には隠していたことが幸いした。そうでなければすぐに思い当たる人間が出てきてガレーラ カンパニーの敷地を抜け出す前に追っ手に追いつかれていただろう。
リリアは耳を働かせて水音が聞こえる方に走った。ここからただ走ったのでは誰よりも先にステーションに着くことは出来ない。出来るだけ 物陰に身を隠しながら走り続けた
リリアはやがて水路にぶつかり、すばやく見回して目的の物を見つけた。
「・・・これ、パウリーの・・・?」
ユラユラと水に浮きながら居眠りをしていたヤガラの首に掛けられた色鮮やかな輪に見覚えがあった
リリアは、そっと首の鬣に触れた。
「・・・ニー?」
目を開けたヤガラは不思議そうに首を傾げて
リリアを見た。
「・・・あなたを覚えているわ。1度パウリーの借金取りレースに巻き込まれたときに乗せてもらった。あなたは覚えている?」
「ンニー」
首を動かしたヤガラは
リリアの手に頭を擦り付けた。
「あのね・・・急いでステーションまで行きたいの。パウリーには悪いけど・・・連れてってくれる?」
乗りやすいようにと身体の向きを変えたヤガラに
リリアは心の中でそっと謝った。
ごめん、ヤガラ。きっとパウリーはあなたのことを怒ったりはしないけど・・・・でも、ごめんなさい。
別のブルを探す時間が惜しかった。
乗り込んだ
リリアは手綱を握った。
「じゃあ、お願い。出来るだけ早くステーションに連れてって」
「ニー!」
泳ぎはじめたヤガラは一気に速度を上げた。
ああ、この感じだ。
リリアは目を閉じた。全身を包んで通り過ぎていく風と頬にあたる水しぶき。懐かしい、ウォーターセブン。ルッチは大工の顔をしていると き以外は滅多にブルを利用しなかったが、それでも何度か後ろに乗せてもらった。一人で乗るときはブルーノの店のブルを借りた。知らない水路を巡って冒険気 分を味わったこともある。
やはり、自分はこの街が好きだ。
リリアは思った。ウォーターセブンで過ごした日々が今は眩しく思える。店での賑やかな時間、活気溢れる住人達、作り出される大きな船、 美しい花火、ルッチの部屋。
リリアは目を開き、前を見た。驚くほどの速さで過ぎていく景色の先にルッチの姿が見える気がした。戻りたい場所も戻ることが出来る場所 もひとつしかない。自然と手綱を持つ手に力がこもった。
人気のないステーションに入るとホームに止まっている列車が見えた。
どこに隠れたらいいだろう。
リリアは迷いながら建物の中を見回した。エニエス・ロビー行きのこの列車のことをアイスバーグとパウリーはとっくに思いついている。 きっとすぐにやって来る。
ステーションの中に隠れることをあきらめ、
リリアは列車の前に立った。乗り込んで客席の下に潜り込んでも見つかってしまうのは時間の問題だ。焦りを感じながらホームを歩いていた
リリアはふと列車の屋根を見上げた。あそこに登って身体を平らに寝かせていれば、ちょっと下から見たくらいでは見つかることはない。
リリアは燃料車にのっていた黒っぽい布袋を拾うとそれを持って梯子を登った。目立たないように素早く座って足を伸ばすと埃だらけの袋を 広げて身体を覆った。本当にこれで大丈夫だろうか。不安を抱えながら身体を寝かせると真上で光る月が見えた。こうしてこのままここで朝を迎え、無事に発車 時刻を迎えることができるだろうか。
建物の中から響いてきた足音に気がついた
リリアは呼吸を抑えた。
「いたか?」
「いや、ホームにはいません。ったく、無茶をしやがる小娘だ。強情で一途で・・・・困ったヤツですね」
アイスバーグとパウリーだ。
リリアの身体は緊張に細かく震えはじめた。
「ンマー、捕えたことが本当は間違っていたのかもしれん。怪我の手当てをして食事でもさせてやってすぐに解放してやれば・・・」
「でも、あいつ、捨てられた猫みたいな目をしてやがったし。それに・・・あいつらのことを知りたいでしょう、あなたも俺も」
「簡単に聞ける話ではなかったな。・・・
リリアは随分連中を慕っているようだ」
「騙されてるんじゃないといいですがね、あいつも」
それから列車に乗り込んだ2人の声は聞こえなくなった。
リリアはホッと息を吐いた。
このままじっとしていれば・・・・すぐそこにはいないとわかっていても黙って身体を硬くしていた。中を動く気配とゴトゴトという低い音。すぐ下で物音が した時は思わず目を閉じた。
「暢気に月見か?」
声が聞こえた。
低い、ほとんど感情のない、冷ややかな声が。
一瞬で胸の鼓動が大きくはち切れそうに苦しくなった声が。
「ル・・・!」
声が詰まって出ないまま
リリアは飛び起きた。
月の光の下、黒に身を包んだ姿がじっと
リリアを見下ろしながら立っていた。
リリアは走った。半分闇に隠れたその姿が消えてしまう前に一瞬でいいから触れたいと思った。
「・・・また、無茶をしたな」
走り寄る少女の足取りにほとんど乱れがないことを見てルッチは呟いた。どうやら離れていた間船大工たちに捕えられていたようだが、自分を哀れんで泣いて いたわけではないらしい。走るときに引きずっていた足を鍛えなおした様子な上に、乗れば捕まって命を落とすと警告を受けたこの列車に潜り込み、あの島に戻 るつもりでいたようだ。
「やはり、愚かだな、お前は」
ルッチは
リリアに向かって1歩踏み出し、飛び込んできた細い身体を腕の中に受け止めた。
「愚かで・・・救いようがない」
リリアは髪に触れたルッチの唇を感じ、ルッチの身体に両腕を回した。
しがみついた
リリアをルッチは静かに抱いた。
互いの熱を確認するように2人はじっとそのまま動かなかった。
「ルッチ!・・・・なのか?」
ホームにまろび出てきた2人をルッチは黙って見下ろした。
「お前、
リリアを・・・・・って、動くなよ!てめぇの口から聞きてぇことが山ほどあるんだ」
鋭く腕を振って身体に仕込んだ縄を宙に放ったパウリーにルッチは口角を上げ、左腕で
リリアを抱き上げた。
「お前のそれは俺には通用しない。以前捕まってやっていたのは遊びたい気分の時だけだ」
高まる感情に揺れるパウリーの目を見ながらルッチは列車の屋根を蹴って跳んだ。
「待て、ルッチ!お前は・・・カクは・・・・カリファは・・・・」
アイスバーグの視線を受け止めたルッチは皮肉な笑みを浮かべて宙で目礼した。
「世界政府は今すぐあなたをどうこうしようとは思っていない。だが、注意することですな。あなたはいろいろなことを知りすぎている」
空気を蹴ってさらに高く跳んだルッチに向かってパウリーは両手を振り上げた。
「待ちやがれ、ルッチ!お前、なんでそんな子どもを連れて行く。闇の正義だか何だか知らねぇが、そこは小娘を巻き込んでいい場所じゃねぇだろう!」
ルッチは腕の中の少女に視線を落とし、細い身体を抱いている腕に力を込めた。
「生憎・・・これは俺の所有物の一つなのでな。お前には関係がないことだ。もう顔を合わせることもない」
宙を進むルッチを追って走りながらパウリーは次第に開いていく間の距離に唇を噛んだ。
「待て、ルッチ!俺はまだ何も納得しちゃいねぇ!」
その声に振り向いたルッチの唇に一瞬浮かんだ笑みは穏やかといってさえいいものに見えた。
「疑問など何もないはずだ。設計図がない今、お前にもこの街にも興味はない。幸運なことだ」
「ルッチ!」
離れていくルッチがそれ以上振り向くことはなかった。滑らかに動く黒い姿とその腕の中から零れている月明かりを受けて輝く銀色の髪。パウリーは息を切り ながら足を止めた。
「・・・どこへ行く気だ、あの野郎。海列車に乗るんじゃねぇのか?」
呟いたパウリーの肩にアイスバーグが静かに手を置いた。
「カクの山風も・・・連中にすれば当たり前のことだったんだな」
決してCP9も世界政府のやり方も許さない。だが・・・・今、何かがひとつ確実に終わったのかもしれない。
アイスバーグは目を閉じ、あっという間に建物の影に見えなくなった姿の残像を瞼の裏に映した。
あまりに短い対面だった。
パウリーはまだ宙から目を離せなかった。
また会うことは本当にないのだろうか。もしもあったならその時は。
熱い思いの裏には不思議とほろ苦い何かがある気がした。
「ルッチ・・・・?」
小さな声に視線を向けると
リリアが彼の顔を見上げていた。思い詰めた、何か物問いたげな表情が浮かんでいる。
「・・・何を・・・そんな顔をしている」
「・・・わたし、また、ルッチのものなの?前みたいに・・・戻れたの?」
ルッチは苦笑した。
「教えるつもりはなかったんだがな」
その言葉を聞いた
リリアは瞳を輝かせ、ルッチの胸に掴まっている手に力を入れた。
「おかしなヤツだ。ハットリと同じ・・・・人間と認めていないに等しい扱いなんだぞ」
リリアは何も言わず、ルッチの胸に頬を寄せた。
宙を飛んでいる状態では振りほどわけにもいかないか。
ルッチはため息とともに少女の身体を抱きなおした。
リリアはそっとルッチの胸に顔を埋めた。
「・・・・お前の方が猫のようだな」
ルッチは建物の屋根を蹴り、月夜に高く飛び上がった。