ルッチが向かっているのが海であることに気がついたのは、空気の中の潮の香りが強くなってきたからだった。
リリアは頭を動かし、前を見た。見れば、とうに街の明かりは遠くなり、眼下には闇が広がっていた。ここは廃船島の辺りだろうか。暗い大 地に続く海も時折月明かりに浮き上がる白い波頭以外は同じ闇色をしていた。
そう言えば、ルッチはどうやってウォーターセブンにやって来たのだろう。今日は島々を巡回してきた列車が着いただけで、エニエス・ロビーからの列車は到 着していない。そして、これからどうやって戻るのだろう。列車が出るのは夜がすっかり明けて昼近くなってからの予定なのだ。
やがて、ルッチの足が大気を強く蹴るのをやめ、自然落下を誘う重力に身体を任せながら時々ブレーキ代わりに軽く宙を蹴った。
「あ・・・船・・・?」
足元に近づいてきたのが帆を畳んだ船の甲板であることに、
リリアは気がついた。
軽い音とともに甲板に降り立ったルッチは静かに
リリアを腕から下ろした。
周囲を見回した
リリアは他には人の気配がないことに気がついた。ルッチは一人で船に乗ってあのエニエス・ロビーから海を渡ってきたのだろうか。確かに 船は小型ではあったが、それは不可能な気がした。間にある海は海だというだけで決して平穏な場所ではなかったが、この区域は特に難所が多いと聞いている。 海列車の就航が大歓迎されて町の未来を開くことができたのもこの海がそれほどに荒いという証拠だ。
船べりに歩いて海の様子を眺めるルッチについていった
リリアは、海の表面に何か白いものを見た。まっすぐに沖に向かって伸びている白い線・・・・よく見ると低い壁のようにも見える。
反対側に歩いていったルッチと一緒にそちら側の海にも同じ白い線があるのを確かめた。海に出来た一本の道。不思議な光景だった。
「・・・・青キジが幼いニコ・ロビンを逃がしたときに使った手だ。それよりも少々大掛かりだがな。船室に入っていろ。風が回ったら帆を張る」
ルッチは甲板後方に見える小さな船室を目線で示した。
青キジ。ニコ・ロビン。
リリアは小さく首を傾げたが動こうとはしなかった。
月明かりの中、じっと自分を見上げる
リリアの白い顔を見下ろしたルッチは、少しの間ただ黙って視線を向けていた。それから、不機嫌そうに視線を外した。
「何をしている。お前がここにいると邪魔になる。船室に入って待っていろ」
再会したばかりでルッチの体温が自分の身体に残っているような気はしていたが、
リリアはまだ怖かった。いろいろな再会の場面を毎晩、夢の中で見た。これがそのひとつでないことをどうすれば確信できるだろう。今ルッ チに背を向けたら目が覚めてこの船も海もルッチもただの幻になって一瞬で記憶から薄れてしまうかもしれない。それが怖くてたまらなかった。
「・・・バカヤロウ」
ルッチはかがむと唇を軽く
リリアのそれに触れて通り過ぎ、白い喉を強く吸った。年が変わったあの夜に・・・・こんな場面があった。思い出した
リリアはルッチの首に手を回した。ルッチの口はあの夜よりきつく
リリアの肌を吸い、強い痛みを残した。
「・・・痛みはしばらく消えないだろう。これを抱えて向こうへ行っていろ」
顔を上げようとしたルッチの頬に
リリアの唇が触れた。頬を赤くした少女はルッチが何も言う前に急いで甲板を走って行った。
忙しいことだ。
風を探るように空を見上げたルッチの唇に刹那の微笑が通り過ぎた。
小振りの船室はキッチンも寝室も兼ねているようで、案外居心地が良さそうだった。
リリアは下ろしてあった寝棚に腰かけ、船体を小さく揺らす波の動きを感じ取ろうとした。
海の一本道を作ったのは青キジだとルッチは言った。
リリアをウォーターセブンから出さないように足を氷漬けにした海軍大将。初めて会った時には心細さに唇を噛んで座り込んでいた自分を ルッチのところに連れ戻ってくれた男だ。
ニコ・ロビンというのは確か麦わら海賊団の一人の名前だ。幼い頃から20年ほども海軍の手を逃れてきた人間だとスパンダムが言っていた。その子どものニ コ・ロビンの最初の逃亡を手伝ったのが青キジだということなのだろうか。そして、今度は
リリアを迎えに来るための海の道を作ってくれたのか。
リリアは背が高い姿と時折鋭い気配を感じさせる以外は拍子抜けするほどマイペースな青キジ表情を思い浮かべた。彼がルッチに対する時の 雰囲気も印象が強かったのでよく覚えている。小さな子どもの行動を面白がる大人のような、よく育った教え子を見守る教師のような・・・・今の
リリアなら青キジをこんな風に形容するだろう。
謎めいた行動の奥には多分、強い信念がある。そう感じられるところがルッチと似ている。
リリアは足を揺らした。凍りついた感触も痛みも今はもう記憶に薄い。
ちょっと外の様子を覗いてみようか。
リリアが立ち上がった時、船は一度船首を大きく下げ、それから風に乗って滑るように動きはじめた。よろめいた
リリアが2歩、3歩とふらふらと前へ進むと、扉が開いて歩いてきたルッチがその肩を捉えた。
「しばらくはこのまま風任せだ。・・・・切ったのか?」
ルッチの目は
リリアの袖に滲んでいる血の色を見ていた。多分、割れたガラスの穴を潜り抜けた時・・・
リリアが傷口が乾いていることを確かめ終わると、ルッチは服の裾に手を掛けた。
「・・・気に入らないロゴだ。丁度いい。脱いでしまえ」
細い身体にはまったくあっていないダブダブのシャツの胸にはガレーラカンパニーの社名が入っていた。
リリアは慌てた。
「でも、ルッチ・・・・!」
反論する暇も与えずにスポンとシャツを引き上げて脱がせたルッチは
リリアの喉に残る赤い部分に指先を触れた。
「痛みはちゃんと残っているか?」
問いかけながら剥き出しの肩に両手を置いたルッチはそのまま細い腕を辿り、片手を背中に回すと腕の中に引き寄せた。
「ルッチ・・・あの・・・何か・・・」
上半身を覆うものを探そうとする
リリアの顎に指をかけ、少女の顔を見下ろす。
「・・・寒いなら熱を分けてやる」
自分は寒いのだろうか。
わからないまま
リリアは唇を塞がれて甘美な感覚に包まれた。自分を包んで抱いているのはルッチの腕であり、その唇の熱を与えられている。これを現実だ ともっと信じたくてルッチの身体を抱きしめた。
「焦るな。時間はこれから飽きるほどある」
棚からあるだけの毛布を片手で引き摺り下ろしたルッチはそのやわらかな波の上に少女の身体を寝かせた。そっと額にかぶさった銀髪をよけてやりながら、今 の自分に苦笑した。この少女にだけは、ゆっくりと時間を掛けて溢れるほどに満たしたいという慣れない欲望を覚える。まるで肌と身体の深い部分を合わせるこ とに肉体的な快楽以外の意味を探ってしまうように。
ルッチは銀色の髪に指を差し入れてそこに残る傷に触れた。それから細い身体を転がして横を向かせ、背中の傷に唇を落とした。
「ルッチ・・・」
リリアの身体は小さく震えた。再び、今度は深く口づけながらルッチは
リリアの足のブーツを脱がせた。下着以外のすべてを脱がせ、細い足に残る傷を手の平で撫ぜた。まだ時々痛むこともあるらしい複数の傷。 ルッチは
リリアの腕の乾いた血糊に舌を這わせながら滑らかな頬を撫ぜた。少女の弱さの証明にも思えるこの傷たちを嘲笑する気にはならなかった。 ただ、消したかった。
「・・・ルッチ」
そっと上衣をひっぱる
リリアの仕草に、少女が彼の肌を求めていることを知った。初めて見せたその仕草に思わず破顔した。
「焦るなと言ったはずだ」
言いながらすばやく衣類を脱ぎ捨てたルッチは身体を倒し、仰向けにした少女の肌に自分の胸を重ねた。腕を回して強く抱くと、少女の瞳から涙が零れた。唇 でその涙を拭い取り、さらに強く抱いた。
「全部忘れさせてやる」
片腕は少女の身体に回して抱いたまま、ルッチは片手で愛撫を加えはじめた。しがみつきながら不器用に甘える少女に自分以外のすべてを忘れさせたいと思っ た。ひとつ、ひとつ、過去に見つけてきた敏感な部分に触れていくと漏れる声の数が増え、次第に甘さが増していく。人の身体を抱くということが熱そのもので あることを思い出す。この少女に我を忘れて気を失うほどの悦びを与えることができるなら、様々な手管を教え込まれた自分の身体もそう悪いものではない。
ルッチは感情が溢れる紫色の瞳に静かな視線を与えた。
お前が言わずに耐えているその言葉を・・・不本意ながらわかっている。それに関して返す言葉はないが、その言葉は聞こえている。
ルッチは
リリアの瞳を閉じさせ、瞼に口づけを落とした。
この細い身体を抱くたびに何かを見つけ、気づいてしまう。それが決して自分のためにならないことはわかっていても見過ごすことができない。
考えるな、と少女に言っている自分自身が頭の中で無意味な思考を展開している。
ルッチは苦笑した。
今はただ、自分のものに戻った
リリアを抱き、その肌と心を味わえばいい。
「ゆっくりと昇れ、
リリア」
熱を帯びはじめた
リリアの身体にいくつもの口づけを落としながら、ルッチは深い部分に身体を進めた。
リリアの腕がルッチの背中を抱きしめた。
しっとりと艶を帯びた肌の感触に感じた賛美は所有者としての誇らしさだろうか。目を閉じたルッチは短く唸り、深く与えながら返される熱に包まれた。
「・・・眠らないのか、珍しく」
ルッチが毛布をかけてやると
リリアは陶酔の余韻が残る顔で小さくルッチの名を呼んだ。半分睡魔に負けそうになっているのがわかる。それでも懸命に瞳を大きく開いて 傍らのルッチの体温を確かめている。ルッチは落ちそうになる瞼に逆らう少女の表情をしばらく黙って眺めていた。やがて、目を閉じた少女の呼吸が静かに規則 正しいものに変わると、立ち上がってランプを消した。
小さな丸窓から入ってくる月の光の中、波の揺れを感じていると、悪魔の実の能力者としては決して敵うことのない大きな存在に対する微少な恐怖を思い出 す。今ここで、突然の嵐にでも出あってこの小さな船が沈んだら、どんな気持ちがするだろう。穏やかな顔で眠っている
リリアだけは助かることを望むだろうか・・・・それとも抱いてともに海の底に沈むことを選ぶだろうか。
月明かりの中に浮かび上がる幼い面影とまた一段上に登ったように感じる美の気配を見下ろした。磨かれていく美・・・それを磨くのが自分以外の手であるこ とになったら恐らく、彼は我慢することができない。許せるのはこの月明かりくらいなものだ。
「・・・愚かな・・・」
呟いたのは少女のことか、それともまるで人間らしい感情の片鱗を見つけてしまった己のことか。
ルッチは静かに
リリアの隣りに横たわった。結局自分はどこまでもこの少女を連れて行くことを選ぶだろう。そう結論し、冷笑を浮かべた。
お前の人生はどうやら明るく平穏に終わりそうもないな。
その時、
リリアの身体が横を向き、頭が彼の胸にぶつかった。溢れた甘美さを唇を噛んで消し、ルッチは少女の額に口づけた。
ルッチの唇が薄く開き、言葉を紡ごうとした。が、すぐにそこに浮かんだ表情は消え、目を閉じた。腕の中に
リリアの身体を抱いて胸に当たる寝息を感じた。
この道がもうしばらく続くのも悪くはない。
思ったそれに苦笑しながらルッチは浅い眠りに落ちた。