「なんじゃ、子どもみたいに目を丸くしとるのう、
リリアは」
カクは半歩遅れて歩く
リリアを振り返って笑った。心なしかその表情がそれまでよりも晴れ晴れとしているのは、今の道中が目的地が定まらない旅から帰ることを 目的としたものに変わったからだろうか。
リリアはカクと目を合わせて笑った。エニエス・ロビー。破壊しつくされたあの場所が今どんな状態なのかはわからなかったが、ただ破壊さ れたまま風化していくはずがない場所であることを感じていた。ルッチとカクが戻る先をあそこに決めたのも早かった。たとえ以前のように動いてはいなくても そこで何らかの情報が得られることは確実だと思われた。
「色々な島と街があるんだね」
カクより数歩前を歩いていたルッチは
リリアの声を拾い、少女の表情が見えた気がした。次の手ごろな船を探す間の僅かな時間、
リリアが港の活気を堪能して喜んでいるのがわかりすぎるほどにわかる。思えば、この少女はこれまであまり普通とは言えない生き方をして きたと言えるが、その足を踏み入れたことがある場所はかなり限られているのだった。山の奥の賊のアジト、エニエス・ロビー、ウォーターセブン、そして記憶 を失くしていた間の時間を過ごしていた街。あの街で再会してからしばらくは体の調子が戻らないこともあってほとんど宿の部屋にいた。ようやく回復したこと を確認して旅立ってから2ヶ月。時に夜の闇を走るルッチの腕に抱かれ、時には船に乗り、
リリアはルッチとカクとともにエニエス・ロビーへの帰路を進んでいた。
「そう言えばお前はいつも留守番が得意じゃったからのう。おかげでルッチはいつも迷わずにお前のところに帰って来れたんじゃな」
いかにも彼の反応を期待するようなカクの声音にルッチは小さく鼻を鳴らした。その肩の上でハットリが楽しげに左右に頭を振った。
「次に乗る船は少し注意して選ばなければならんじゃろうのう・・・・とうとうまたあの街に僅かな時間とはいえ行かねばならん。短い船旅じゃが間に紛れ込ん でしまえるほどの乗客を乗せる船を探そう」
ルッチは無言のまま頷いた。
ウォーターセブン。エニエス・ロビーに向かう海列車があの街から出る。今の彼らにはそれがあの場所に向かう唯一の交通手段だった。3人とも顔を知られて いるというリスクをわかっていても避けて通るわけにはいかない。
アクアラグナに破壊されたあの街もすでに元の姿を取り戻しただろうか。アイスバーグは死ななかったらしいということだけは風の便りに聞いていた。あの男 が生きているということは、恐らくあの脳天気な船大工たちも健在だということだろう。それとも、エニエス・ロビーの戦闘に潜り込んだ連中の中には命を落と した者もいただろうか。むしろそっちの方が自然な場所と状況だったのだが。戦ったわけではないちっぽけな少女も深い傷を負ったほどの。
ルッチはハットリに合図した。白い鳩は嬉しそうに舞い上がり、真っ直ぐに
リリアのところへ飛んで行った。負けないほどの笑顔で
リリアはハットリを指先にとまらせた。伸びた髪がやわらかく揺れ、白銀に輝いた。
「・・・あの子を手放すことも、あんたから離れることも・・・・あんたも
リリアもそんなことは少しも考えなかったんじゃろうなぁ」
カクの呟きにルッチは片方の眉を僅かに上げた。
「お前にしては珍しい台詞だな」
カクは肩を竦めた。
「わしは時々あんたがうらやましくなるんじゃが、それと一緒に何か落ち着かない気分になることがあるんじゃ。もしかしたら、怖い、というのはああいう気分 なのかもしれんな。
リリアは普通の人間じゃ。あまりに普通の人間じゃ・・・・と思うとなぁ」
「置いていく方がいいと思うのか?」
「・・・いや、それはない。大体、そんなことになったら今度こそ
リリアは身体を壊すくらいじゃすまんじゃろう。どうせ失ってしまう命なら・・・・多分、
リリアはあんたの手にかかる方を望むじゃろうな」
「その望みをかなえるのは簡単だろうな」
ルッチの唇に浮かんだ笑みを見たカクは目を細めてため息をついた。
「わしはあんたの何を羨んどるんじゃろうな。よくわからん」
「あれを欲しくなったか?」
「あんたと違う意味ではな。ずっと前からじゃ。わしはあの子のお気に入りでいたいんじゃ」
ハットリと会話には聞こえない会話を続ける少女の姿を二人は眺めた。曲線の部分が少しだけ増えたしなやかな身体。白い鳩に惜しみなく笑みを注ぐやわらか な表情。陽光の中で冴えている紫色の瞳。
「綺麗じゃな、あの子は。心も何もかも」
ルッチは答えなかった。
普段と比べると数倍以上豊かな色に身を包み、髪はなるべく目立たないように帽子の中にしまい込んだ。何よりもルッチを連想させるはずのハットリはジャ ケットの内側で大人しく羽を畳んでいる。それまでその中に混ざっていた賑やかな乗客たちから離れ、3人は船べりに立ち、近づいてくる水の都を眺めていた。
「ほとんど元に戻ったみたいじゃな」
「・・・本当に水の都だね」
大噴水から流れ落ちる水が光を照り返して輝きを放っている。
リリアはふと、頬に受けたしぶきの感触を思い出した。ヤガラ・ブル。水路を走るときに包まれる風が好きだったことも。
「船を下りる時から別行動をとる。各自で列車の時刻を確かめ、その時間までにステーションに入って列車に乗り込むことだ。列車が動いて街を離れるまで正体 を表すな。乗車する時は極秘任務とだけ伝えて暗号を言え」
「暗号は変わっておらんかのう」
「不審者として逮捕されたとしてもあの街から離れてしまえばもうどうでもいいことだ。どんな形にせよ乗車さえできればそれでいい」
「ま、そうじゃの。問題なのは発車時刻近くまで潰さなきゃならん時間の方じゃな。わしらは顔を知られとるし、だいぶ恨みをかってるはずじゃ」
リリアは近づいてくる街を見た。もう船の上にもその活気が伝わってくる。晴れ渡った空がとても似合っている。当時ルッチたちよりも一足 早くここを離れた
リリアには暗い記憶も苦い感情も現実には一つもない。心に浮かぶのはこれから先もずっと覚えておきたいものばかりだ。
不意に喉元に触れた手に驚いて見上げると、ルッチがすぐ傍らに立っていた。
「入港だ」
指先で
リリアが首に掛けているペンダントの紫の石を軽く揺らすとルッチは背を向けて乗客たちの中に姿を消した。
「列車でな」
カクの大きな手が
リリアの頭を軽く叩いた。
リリアは自分の服装と帽子を確認し、目立つ瞳の色を隠すためにサングラスをかけた。
用心深い足取りで乗客たちに合流した後は周囲に歩調を合わせた。タラップを降りながらそっと見回したがルッチとカクの姿は見えなかった。その代わり。
リリアは一瞬足を止めかけた。港に足を下ろした瞬間、何か小さな気配を感じた。誰かの視線。それともこれはウォータセブンに戻ってきた 緊張感からくる錯覚のようなものだろうか。
リリアはなるべく多くの人間が進む方向に紛れながらしばらく進んだ。記憶していた通りにやがて倉庫の建物が見えてくると、人ごみを抜け 出してすばやくそっちに歩いた。
やっぱりだ。まだ、誰かに見られている。足を速めた
リリアにぴったりとついて来る気配は消えるどころか増していた。振り向いてもその姿は見えなかった。それでも
リリアは追われていることを確信していた。
倉庫街に入ってしまえば。
リリアは小走りになった。蘇ってくる記憶の中から身を潜められそうな場所をいくつか引っ張り出す。迷路を描いて倉庫街を抜け、なるべく 早く観光客たちの中に戻るには。ついに本気で走り出した
リリアは、それでも気配を振り切れなかった。
ビシッという鋭い音とともに帽子が宙に飛び、足元を何かが打った。転びかけて踏みとどまった
リリアの頭上から声が降ってきた。
「歩いている時には気がつかなかったわ。・・・・あなた、走ると足を少し引きずるのね」
聞いた瞬間に懐かしさが
リリアを捕えた。つい今までその気配から逃げていたことを忘れ、足を止めて振り向いた。
生きていた、やはり。死んでしまうはずがなかった。
「カリファ・・・!」
少女の顔を見下ろしたカリファの唇に漂う笑みにはどこか、見慣れない翳が含まれていた。