月 磨 5

写真/雲間の月 エニエス・ロビーには夜がない。
 ルッチは窓の外に見える波とその上に浮かぶ月に目を向けていた。途中の海には夜がある。永遠の昼との境界線はどの辺りだっただろうか。

「くるっぽー?」

 膝に下りたハットリがルッチの顔を見上げた。恐らく、銀色の髪の少女の存在を求めて。

「・・・残念だったな、あれはあの煩い街にいるそうだ」

 無感情に答えたルッチは背もたれに少しだけ深く寄りかかり、再び月を見た。
 闇の世界に リリアを連れ戻ろうとしたことが正しかったかどうかはわからない。どうでもいい。カリファから事情を聞いたルッチの胸に浮かんだのは怒 りに似た気持ちの揺れだった。いつの間にか リリアを自分のものだと当たり前のように考えていたことを滑稽だと思った。元はと言えば、何枚も書類を書く煩わしさを避けるために咄嗟 に決めたことのはずだった。それからは無関心に少女をただ放っておいたつもりだったが。
 ルッチの唇に歪んだ笑みがよぎった。
 本当に滑稽だ。
 戦いの最中に少女のことを思い出して戦闘力が鈍っただと?
 そんなことを考えつく人間の頭の中身を見てみたいものだ。麦わらとの戦いをそんな中途半端なものだったと本気で評価しているのなら、その人間は闇の正義 にも世界政府にもふさわしいとは思えない。不必要な人間だ。
 そんな理由で リリアを処分しようと決めたなら、その リリアを捕えずに逃がしたカリファにもいずれ何らかの処罰が下るのだろう。それを知った上でとったカリファの行動に対してルッチは何を 言うつもりもなかった。

「じゃが、これは少々まずいことになったぞ。 リリアがもしもあの街の人間の手に落ちたとして、わしらのことを喋るとは思えん。そうすると街の人間の怒りをかってしまうことになりそ うじゃ」

「・・・・やっぱり話さないのかしら、 リリアは。私たちに利用されたといいなさい、と言っておいたのだけど」

「あの子が知っていることなどほんの一握りじゃから話してもまったく構わんのだがのう。じゃが、話してあの街に受け入れられてあそこで楽しく生きよ う・・・・・とは思わんじゃろう、 リリアは」

 ルッチは隣りのボックスで向かい合って座っているカクとカリファの会話を聞いていた。カリファの行動が リリアの命を思ってのものだったことを知ったカクはホッとしたように笑った。離れていた時間をあっという間に乗り越えたらしい二人の様 子を眺めながら、ルッチは青キジの姿と容貌を思い出していた。
 初めて顔を合わせた頃から唯一ルッチを子ども扱いするつかみ所のない男。あの男は確か、数年前にエニエス・ロビーで リリアにも会っている。いくつもの傷から血を流し埃だらけになった姿で青キジに手を引かれて歩いてきた リリアの姿を・・・・・
 ルッチは目を閉じた。
  リリアと離れる時は自分がその命を奪うときだろうと半分確信してきた。他人の手によるあっけない幕引きに納得できないのはそのせいだ。

「くるっくるー」

 ハットリはそっとルッチの手に頭をすり寄せた。




 アイスバーグの部屋に呼ばれた医師は少女の両足を氷を浮かべた冷水を満たしたバケツの中に入れた。それから両手で力強く少女の足をこすりはじめた。
  リリアはまるで他人のことのようにその様子を眺めていたが、やがて足に触れられると感じる点がいくつも現われ、その点がつながりだすと 今度は痛みを感じはじめた。

「痛んできたならもう安心できる。あとはとにかくしばらくマッサージを続けるのが最良の処置だと思いますよ」

 水から上げた リリアの足を丁寧にタオルで拭った医師は笑顔でそう告げ、アイスバーグの合図にうなずきながら部屋を出て行った。

「どうやら、足を失わずにすんだようだな」

 アイスバーグは リリアが座っているソファの前に膝を落とし、むき出しの素足にそっと手を触れた。 リリアが黙って視線を返すとため息混じりにその隣りに座り、少女の足を膝に乗せて大きな手でマッサージをはじめた。 リリアは痛みに対して反応しないように身体を強張らせた。

「・・・・お前を最初にステーションで見かけた時のことを覚えている。旅行者だと言っていたな。そして・・・・人を探していると」

  リリアの頭の中にもあの時の情景が鮮やかに蘇った。
 初めてウォーターセブンに着いた日。あの時はルッチとの再会への期待に全身を満たされていた。

「探していたのは・・・ルッチか?カクか?ブルーノか?それとも・・・・手を貸してやるように俺が言ったカリファその人・・・ってこともあるのかもしれな いな」

 アイスバーグの表情のあるのは・・・・これは怒りなのだろうか。 リリアはそこにあるはずだと予想していた熱い感情の気配が見えないことに胸を衝かれた。そこに見えたものはむしろ悲哀のように感じられ た。
  リリアの戸惑いを感じたアイスバーグの瞳は強い光を浮かべた。

「誤解はするな。連中の正体を知ったときから俺の中にはどす黒い感情がずっと消えずに燻っている。命そのものを奪われかけたことへの怒りはそれほど簡単な ものじゃない」

 命を?
  リリアは今更ながらに自分がウォーターセブンで起きたはずの出来事を何も知らないことに気がついた。

「お前達は4年の月日を費やして求めたあの設計図を手に入れることはできなかった。そのことを知るまでの俺は燃え盛る怒りそのものだったが、今は心の底に 冷えて底知れない怒りを抱えているよ」

 任務が失敗したことは聞いていた。けれど、詳しいことはやはり何一つ知らないのだ。
  リリアの中に不意に脱力感が蘇り、強張っていた身体はようやくその重さをソファに預けた。アイスバーグの手はひどく熱く感じられた。ズ キズキと規則正しく繰り返す痛みと足全体が燃えている様に思える熱。 リリアは唇を噛んだ。

「何も言わないつもりなのか?」

 アイスバーグの表情に初めて困惑の色が浮かんだ。
 ルッチ、カク、ブルーノ、そして・・・・カリファ。彼が安心して自分の会社の船作りを任せられると見込んだ男達とくつろぐことが出来る酒場の気のいい店 主、そして自分の片腕だと信じていた女。自分の師である船大工に起きた悲劇の後は出来る限り慎重に生きてきたつもりだったのが、蓋を開けてみれば自分から 両腕を広げて世界政府の人間を歓迎していたのだ・・・・・その存在を自慢にさえ思ってきた。だからこそ、苦しかった。自分の見る目のなさにはふがいなさを 感じ、裏切られたという思いがどうしても湧いてくる。
 そうではないことは理解しているのに。裏切るも何も、あの4人は最初から世界政府に忠誠を誓った人間だったのだから。騙されただけなのだ。連中は巧みで 自分が愚かだっただけだ。
 そしてこの少女は。
 アイスバーグは動かしていた手を止め、そのまま少女の足に手をのせたまま熱を感じようとした。
 最初に会った時から不思議と印象に残る少女だった。一人前の女になる頃にはどれほど美しくなっているのだろうかと、まるで父親のような気分でその姿を眺 めることもあった。ブルーノの店でカリファとこの少女が会話している光景を見るたびに心が和んだ。
 もしもこの少女が世界政府の手先だとしたら、よくもこれほどの作品に育てたものだ。黒であることをほぼ確信している今でさえ、何の穢れもない無垢な存在 に見えてしまう。

「あの男の鳩がずいぶんお前にはなついていたようだが・・・」

 ハットリ。いつもあの白い鳩を肩にとまらせていたロブ・ルッチ。
 ルッチの本当の声はアイスバーグの耳に刻みつけられている。鳩と腹話術をつかいこなす殺し屋。CP9の中でも一番危険な男だったのだと麦わら海賊団のメ ンバーに聞いた。確かに、彼が見た分だけでも十分に人間離れしていた。

「お前がこの街に戻ってきたのはなぜだ?他の連中も一緒なのか?この足はどうした?」

 質問ばかりぶつける知りたがり屋の子どものようだ。自分をそう評価して苦笑したアイスバーグの顔を リリアはただ見ていた。
 ウォーターセブンに戻ってきたのではない・・・・その先に行くつもりだったのだ。でもふるい落とされた。カリファの優しい手によって。
  リリアの瞳に涙が浮かんだ。
 行く場所を失くしてしまった。ルッチやカク、ハットリにもう会えないなどとはそう簡単に信じられるものではないし納得できるものでもない。自分が次に取 るべき行動を考えなければいけないことはわかっていた。ただ、どうしようもなく心細かった。アイスバーグにもパウリーにも何も話さないと決めていたが、結 局彼らが聞きたいことなどほとんど知らないのだ。ここで何があってなぜアイスバーグが怒りと失意を抱いているのかさえわからない。その自分の無知さと事が 起こったあまりの突然さに今はまともに考えることもできていない気がした。

「返事はなしか」

 アイスバーグは静かに立ち上がった。

「少し狭い部屋に移って何日か考えてもらうしかないようだな。パウリーが窓を明かり取り程度の隙間を残して塞いだ筈だが、理解してくれ。お前を逃がすわけ にはいかないんでな。あとは一応人間らしい生活ができる状態ではあるだろう。食事ももちろん与える。まともに思考できるようになったら俺たちが何を聞きた がっているのかを考えて話す決心をしてくれ。早いほうがいい。俺とパウリーの間だけの話にできるのは恐らくほんの数日の間だけだ。他にもお前たちの存在を 知っている人間はいるんでな」

 遠慮がちに抱き上げようとしたアイスバーグの腕を リリアは力を込めて振り払った。
 アイスバーグの唇に初めて本物の笑みが通り過ぎた。

「その方がまだいい。こっちも遠慮なく扱える。ひとまず、食べて休むことだ・・・・ リリア。それからお前の涙の意味を教えてもらうことにしよう」

 アイスバーグの腕は今度は半ば強引に少女の身体を抱き上げた。そして リリアがそこから逃れようとすると首がきしむほどの勢いで リリアの頭を捕えて胸に押し付けた。

「大人の男に刃向かうな・・・せめて今夜はおとなしくしていろ」

 外の闇は濃くなり、月明かりが増していた。
 帰りたい。 リリアは思った。そして心の中でルッチの名前を一度だけ呼んだ。

2006.1.19

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