そっとドアを開けた少女は息をひそめながら裸足の一歩を踏み出した。
そのことに気がついたはずの男は視線も向けず、もちろん言葉を掛けるでもなくそのまま低く歌い続けた。
広い寝台に身体をうつ伏せに長く伸ばし、肘を突いた右手に頭を預けて歌う男の姿はどことなくしなやかな獣を連想させる。今は獲物を追う必要もなく、身体 を休め静かな時間を楽しんでいるような。
男の周りには何枚もの譜面が散らばっていた。少女は床に落ちている一枚を拾い、そっと寝台の端に腰を下ろした。
男は歌いかけていた小節を数度繰り返し、唇を閉じると身体を仰向けに返した。
「・・・また、眠れないのか」
「カーテンを引いても外が明るいことがわかってると・・・・なんだかね」
困ったように首を傾げた
リリアをルッチは無表情に眺めた。
「それほどおまえにはここに戻るまでの時間が長く濃厚だったということか」
リリアの身体はすっかり夜の闇を当たり前と受け止める性質を身につけてしまったらしかった。ルッチよりも一足先にエニエス・ロビーに 戻った時にはこの闇のない夜にも慣れはじめていたのだが、記憶を失っている間、そして再び訪れたウォーターセブンで囚われの身になっていた数日の体験が、 夜には闇を求める体質を蘇られてしまったのかもしれない。
昼のような夜に眠るときまって悪夢を見た。悪夢の中では決まって形は様々ではあるがルッチとの別離を体験した。それを繰り返すうちに、
リリアはすっかり眠れなくなってしまったのだ。
「クルッポー」
少女を歓迎して傍らに舞い下りたハットリに
リリアは微笑みかけた。
「初めて聴いた・・・・ルッチの歌」
ルッチは短く鼻を鳴らした。
「次の任務に必要なだけだ」
「今度は船大工じゃなくて歌を歌う仕事なの?」
「葬式の後、墓場まで棺を運ぶ間に歌うのが主な仕事らしい。依頼があれば酒場にも行く」
リリアは無意識のうちに近くにあった枕を腕に抱いた。
「・・・まだここにいてもいい?」
ルッチはごろりと身体を転がしてもとの体勢に戻った。
「そのまま邪魔にならないなら・・・どっちでも構わん」
近くにあった譜面を手にとって一瞥した後、再びルッチは歌いはじめた。
最初は低く囁くように、それから徐々に死者を悼む言葉が繰り返し重なりながら紡がれていく。日頃感情を露にしないルッチの声は歌にも過度の感情を込めな いが、その哀切漂う旋律だけで
リリアの胸は少しずつ締め付けられた。
抱いた枕に顎を乗せて目を閉じると次第に瞼の向こうに感じている光が薄くなった。それに代わって
リリアの身体を包みはじめたのは闇だ。すべてのものを眠りにつかせ目覚めることのない場所に運び去る闇。時々はっきりと聞き取れたルッ チの声が歌う歌詞の一部一部は、その闇の中の月明かりのように少女の心に輝きを落とす。
政府の殺し屋と呼ばれる男が歌う哀歌。
湧き上がる物悲しさを溜めていく心の片隅には微少な甘美さがあった。見つけるたびに大切に心に刻んでおきたいと思うルッチの美。
リリアはうっとりと目を閉じていた。やがてその身体はやわらかく倒れ、それでも細い腕は枕を抱いていた。
ルッチは歌いながら少女を眺めた。何をどう感じたか知らないが、どうやら
リリアは眠ることができたらしい。ベッドの隅で枕を抱えたまま身体を丸めている姿は無防備そのものだ。この無防備さと少女を取り巻く透 明な空気に苦々しさを感じながら、一方でこのままにしておきたいと思うことの矛盾。他人と関わりを持つのは不必要だと知りながら、少女が己の所有物だと言 うことに感じる快感のようなもの。
唇を一瞬歪めた後、ルッチは視線を元に戻した。
己の唇から零れる死を嘆く言葉の数々。ルッチはそれを愚かしいと思った。誰がどのような言葉で嘆こうが悼もうが、絶えた命は再び繋がることはない。こん な言葉で嘆く価値がある命が本当にこの世にあるのだろうか。その死が世の中を、誰かの人生を変えるほどの価値がある命が。
その時、
リリアの声が小さく、やわらかく、ルッチの名前を呼んだ。
ただの、寝言だ。
そう知っているルッチはわざと少女を見なかった。
見る必要はない。
リリアが勝手に夢を見て、その夢の中に勝手に彼を登場させているだけだ。
それまでよりも高らかに一節歌い上げたルッチの口元に、哀歌には似合わない表情が通り過ぎた。それは恐らく他の人間であれば『喜び』とか『嬉しさ』と呼 ばれる感情を含み、束の間の木漏れ日によく似ていた。