凛とした空気の中で咲く花が、夜の闇をやわらかく吸い取っている。春はまだ少し先のように思えるこの島で1本だけ花を咲かせている大きな木。
背後から自分を包み込んでいる腕の布越しに感じる肌の熱。少女はそっとそれにあわせるように心の中の温度を上げていた。
与えることに不慣れな男と受け取ることに不器用な少女。
男は少女の頭の天辺に偶然のように唇を触れた。
二人が見上げる梢から時折薄紅色の花びらが落ちていく。
「・・・あれが本当にルッチなの?」
ぴったり重なる二人の姿を距離を置いて見つけたカリファは、驚きとともに囁いた。
「そうか、カリファは二人が一緒にいるところを見たことがあまりないんじゃな。たぶん、あれは
リリアが寒がっとることにルッチが気がついたんじゃろう。じゃなきゃ、あんな風に触れ合う場面を人に見せるわけがない。なにせルッチ じゃからのう・・・
リリアもいつまでも照れ屋じゃし。ここからは見えんが、きっと
リリアの顔は真っ赤じゃな。ははっ、ちょっとばかり得したのう、カリファ」
カクは笑いながらそっと傍らに立つカリファに視線を向けた。
カリファはそんなカクの様子には気がつかないままルッチと
リリアの姿を見つめている。その瞳には驚きに続いて微笑の気配と同時に哀切の色が漂いはじめたようにカクには思えた。
夜の花見というこの状況に記憶を揺さぶられてでもいるのだろうか。
もしかしたら
リリアと同じように逞しいある船大工の腕に抱きしめられたことを思い出しているのかもしれない。
カリファが決してカクにもルッチにも言わないであろうその記憶と想い。
そのカリファの苦しみを受け止めて癒してきたはずの男は今ここにはいない。
「わしの代わりにブルーノ・・・が今ここにいればよかったかもしれんのう・・・」
呟いたカクは帽子のつばに手を掛け、表情を隠した。
瞳を見開いたカリファが見上げた時、見えたのはカクの笑みを浮かべた唇だけだった。
「どうしてそんなことを?・・・・どうしたの?カク」
カクはカリファの顔を見なかった。見なくてもわかる。カクの言葉に対する疑問を浮かべた顔にはまるで弟を心配する姉のような表情があるはずだ。ブルーノ が大きな兄でカリファが姉で。そんな『末っ子』の時間は思ったよりも長すぎたのかもしれない。でも、いつも特別なルッチの存在と、そんなブルーノとカリ ファとの仮想家族的な時間の両方が幼い頃のカクには特に大切だったのだ。
「どうもしやせんよ、カリファ。わしはいつだって丈夫で元気じゃ。それよりもほれ、花が怖いくらいに綺麗じゃ。きっとルッチはこの花をどうしても
リリアに見せたくなったんじゃな」
吹きぬける風にのって花々が揺れる。
カクとカリファはともに木の梢を見上げ、時折瞬間的に視界に入る相手の横顔を切り取って心におさめた。
「震えは止まったな」
頷いた
リリアは幸福そうに小さなため息をついた。それは本当に小さなものだったから、ほとんどの人間は気がつかないはずだったのだが。
それを受け止めたルッチは、細い身体を抱いている腕に
リリアが声を漏らすほどの力を込めたい衝動を覚えた。それから、また、振り向かせてそこにある表情を確かめ呼吸を止めるほど長く唇を塞 いでやりたいと。
そう感じながら心の別の部分はさざ波ひとつない水面のように静まり返り、己の中の衝動を馬鹿げていると嘲笑う。
どっちにしても
リリアの身体を離して冷風に晒す気はなかった。
「・・・なぜ、カリファを連れてきた?」
耳に唇を寄せて囁くと
リリアの身体が僅かに震えた。
この島に来た時ルッチはほんの数日の短期間で終わる可能性もある任務を帯びていた。1週間ほどかけた調査の結果それが少々長引きそうだという結論が出た とき、ルッチは
リリアを呼ぶことを決めた。偽装をより完全にするためにも、ハットリの世話をさせるためにも必要なのだ・・・と心の中で理由を数え上げ る自分に納得がいかないものを感じ、無表情な顔の裏でひどく不機嫌になっていた。
リリアを呼ぶことを決めたのはこの桜の木の下だった。二分ほど咲いていた花を見たとき、自然に気持ちが決まっていた。
花が
リリアを呼んだのだ。
そう感じることがあまりに馬鹿げていて、部屋に戻ってから珍しく酒のボトルを1本あけた。
「・・・カリファが何だかとても痩せたような気がして・・・」
震えを帯びた
リリアの声にルッチは心の中で頷いていた。
確かに、カリファは痩せた。カクとともにエニエス・ロビーに戻った時にすでに一回り細くなった印象があった。恵まれたスタイルのよさは変わらないのだ が。最初は髪を切ったせいかとも思った。
それから再びたくさんの任務を与えられる日々がはじまり、カリファとは一緒に任務に着くこともあればそれぞれに動くことも多かった。その日々の中でカリ ファは少しずつ痩せた。容色が衰えるわけではない。痩せた分時折翳りのある表情を見せるようになり、それはそれで女としての魅力につながるように思えた。
だが。
それ以上のことを感じることも考えることもあるはずがないルッチとは違い、
リリアは時々小さく首を傾げてカリファを見ていることがあった。
そして、カクも。さらに、ブルーノも。
そんな時に任務でこの島に来たルッチは、先刻ここに着いた
リリアの隣にカリファとカクの姿をみるまでそんなことは思い出したこともなかった。
「きっとルッチが言う花はとても綺麗だろうと思ったから・・・・カリファにも見せたかったの」
リリアがスパンダムの部屋に呼ばれたとき、ちょうどルッチは電々虫の向こうで
リリアを呼ぶことをスパンダムに告げていた。ほれ、と差し出された電々虫に向かって
リリアが躊躇いがちにルッチの名を呼ぶと、ルッチは一瞬沈黙した後、一言だけ言った。『この花が満開にならないうちに来い』と。そし て、通話は切れた。花?と首を傾げるスパンダムの前で
リリアはやわらかく微笑んだ。ルッチが見ているはずの花の美しさが感じられた気がしたのだ。
「それは俗に言うお節介というやつか。そしてそこにカクがさらに保護者になって同行したわけだ」
その通りだ。
こくりと頷いた
リリアにルッチは唇に皮肉な笑みを浮かべた。
「暇だな、カクも・・・・そしてカリファも。お前が絡むと連中は時々ひどく人間臭くなる」
そして自分は愚かとしかいいようのない存在になる。
ルッチは強く
リリアを抱いて耳の後ろに口づけた。
「・・・アイスバーグも忘れていないと思うか?カリファのことを」
びくん、と震えた
リリアをルッチはさらに抱きしめた。
「俺にはわからんな・・・・そういう感情と欲望は」
時間とともに痩せていく女とその女の生死をいつまでも気にかけている男。
理解する必要もないしする気にもならない。
リリアの銀色の頭の上に落ちた花びらを唇で咥えたルッチは、それを吐き出すと満開の花を見上げた。
「この花を夜に見ると魅入られて心や魂を吸い取られてしまう、とこの島の人間は言っている。たかが言い伝えの類だが、実際、今ここには俺たちしかいない。 見てみろ、
リリア。この眺めは心が弱っている人間には確かに強すぎるものかもしれないな」
リリアは顔を上げ、うっとりと花を眺めた。
ルッチは後ろから少女の顎を捉えてさらに上向け、紫色に瞳を覗いた。
花に魅入られていた瞳にルッチの姿が映る。
やがて彼しか見ることが出来なくなった少女は瞳に揺らめきはじめた強い光を隠そうとするように続けて瞬きをした。
花より何よりあなたを見ていたい、と。無言で訴えてしまう素直なその光に、少女は慌てルッチは満足する・・・してしまう。
2度と会うことはない男の記憶に心身を傷む女。
幼い頃からの慕情をつのらせるしかできない男。
出会った時からいつのまにか彼の傍らにあり続ける少女。
あり得ないと思いながらも今深い満足を覚えている己。
花の下に4人が集うこの場面はどこかひどく滑稽だ。
まるで普通に当たり前の人間であるように。
ただ美しいものに惹かれているだけだという顔をして。
「今夜は・・・」
囁きかけたルッチの唇に落ちてきた花びらが触れた。指先でそれを摘んだルッチは苦笑した。
これ以上愚かになるなということか。
一度口を出てしまえば言葉は聞いたものも口にしたものも縛り付けてしまうだろうから。
ルッチは
リリアの顔の上に屈みながら、一瞬、カクとカリファの視線を意識した。
それでも勝ったのは胸の中に生じた熱い揺らぎだった。
唇を重ねると
リリアのそれは表面が冷えていた。熱を移そうと深く重ねると少女の手が彼の腕にしがみついた。
時には自分が求めているものが何なのかをはっきり知るのもいい。
ルッチと
リリアはほとんど同時に目を閉じた。カクとカリファの視線は二人の意識から遠くなっていく。
見たいなら見ていればいい・・・・そして、何か感じるものがあればただ感じていればいい。
ルッチは
リリアの髪を撫ぜ、頬を両手で包んだ。
舞い落ちる花びらの中、欲する心のまま静かに貪った。