「ねえ・・・・どうして?あんたに損はないはずでしょ?」
「・・・死にかけの女を抱く気はない」
「ひどいわね。でも、意外。そんな、まるで何にも興味なんてないって顔をしてるくせに、情報は早いのね」
「歌っている時、お喋りな連中の声が嫌でも耳に入ってくる」
「でも・・・・・あたしに手を出さないのは、それだけなのかしら、理由?聞いてるわよ、あんたの事も。妹がいるんだってね。で、足が悪いんだって?そのせ いかどうか知らないけど、あんたはその妹にひどく冷たいって聞いたんだけど」
興味なさ気に答えようとはしない男に、女はふざけた振りをしてしなだれかかった。
「ねえ、歌ってる時、何を考えてるの?」
「何も」
「じゃあ・・・誰の事を考えている?」
「誰も」
「誰もいないの?あんたの中に」
「ああ、いないな」
女は指先に挟んでいた煙草を地面に落とし、爪先で踏みにじった。
「身体に悪いものってなんでこんなに美味しいのかしら。ふふ・・・・・あなたもよ。とっても美味しそう。多分、ほんとは怖い人間だし、嘘つきだけどね」
男は自分の胸に触れた濃い色に塗られた爪を見た。
「俺を気に入ったなら、また仕事を寄こせばいい。俺はこの店に歌うほかの用事はない」
女は目を細め、楽しそうに微笑んだ。
「何か、どこかおんなじ匂いがするのよ、あんた。ロブ・ルッチ・・・・顔を見ながらだととても綺麗な名前に思えるわ。ねえ・・・・あんたの妹って、どんな 子?」
「お前には関係ない」
「そうよね。でも、すごく興味があるわ」
ルッチは酒場の主の顔を改めて一瞥した後、背を向けた。
女はまた目を細め、月明かりに照らされた後姿を見送った。
墓地に来たのは、多分、もしかしたら歌っているルッチの姿を見る事ができるかもしれないと期待してしまったのだ。
リリアはそんな自分が恥ずかしくなり、それでももう一度墓地の中を見回した。弱くはない風が吹く中、墓石たちは微動だにせずその場に立 ち並ぶ。一番初めに来た時には少々不気味に思えたこの場所も、墓に刻まれた墓碑銘や故人を懐かしむ美しい言葉を読んでから恐れはなくなった。
ひとつ、ひとつ。
石は過ぎていった時間と思い出を抱いている。
リリアは少しだけ見慣れた区画に目を向け、そこに新しい墓石と、その前に立って熱心に祈っている女の姿を見た。
とて近しい人が亡くなったのだろうか。
何となく目を離せずに見つめていた
リリアは、振り向いた女の視線に捕まり、思わず息を止めた。
「大丈夫よ、心配しないで。ここ、あたしのお墓だから」
今、そこにいるその人自身の墓?
リリアは返す言葉と表情に迷いながら、ただ、立っていた。そうしていると、女の方がにこやかな笑みを浮かべながら歩み寄った。その笑顔 に感じたものに、
リリアは首を傾げた。幸福と不幸。互いに相反するはずのものが女の中に同居しているように思えた。
「死ぬ時には、誰にも迷惑はかけたくないものね。さすがに死んでから自分で身体を引き摺ってエイヤっとここに飛び込むことはできないから、誰かに埋めては もらわなくちゃいけないけど。でも、それだけでいいの。みんなが土をザクザクかけてくれて、あとは心に沁みる歌声があればいい。そうすればきっと、すごく いいお葬式になるわ。あたしにも、みんなにもね」
「・・・・歌?」
「そう。あたしのお墓に向かって歌って欲しい人がいるのよ。歌うたいって一つの場所に長くは定住しないことが多いから少し心配だけど・・・・・まあ、運が 良くか悪くか、多分間に合っちゃうでしょうね、あたしの場合は」
それは、つまり。
リリアは女の痩せた身体と顔色を隠すように厚く塗られた化粧を見た。
その時、強い風が吹きぬけた。
寒くはないのだろうか。
思わず心配になった
リリアの顔を覗きこみ、女は明るく笑った。生き生きとした笑顔だった。
「いい子ねぇ、あんた。あのね、勝手に好きなことをベラベラ喋ってる女なんて無理に相手しなくていいのよ。その話が面白いならまだ聞いてやる価値もあるか もしれないけど、聞けば聞くほど楽しそうじゃない場合は、特にね」
そう言いながらも、女の身体は風に煽られて揺れたように見えた。
思わず一歩踏み出した
リリアは女の身体を受け止め、それを支えきれずに片膝をついた。
ふと気がつくと、女はじっと
リリアの足元を見つめていた。
「ごめんなさい・・・・ちょっとこっちの足はまだ頼りなくて」
女の視線が和らいだ。
「足が・・・悪いのね。ありがとう、心配してくれて。ねえ、あなた、ものすごくいい子よね」
リリアが驚いて首を横に振ると、女は微笑した。
「ふふ・・・・・いいのよ、あたしにはわかるから。あなた、ちゃんと自分の中に大切に思う人とか、持ってるでしょ。で、そんなあなたを育てた人は、きっと あなたをものすごく可愛がってるのよね」
ルッチ。
横顔を思い浮かべた
リリアは、否定しなくてはいけないと思いながら、なぜか頬を熱くした。
女は
リリアの様子を楽しそうに眺めた。
「いい子を育てるのに必要なのは愛情だけ。訳ありなんだろうけど、やっぱり大した大嘘つきだわ」
女が呟いた言葉の意味は、
リリアにはわからなかった。
女は笑いながら
リリアの頭に手を伸ばしかけ、反射的に1歩引いた
リリアの表情に動きを止めた。
リリアはまだ他人との接触を恐れる自分の体質を説明するわけにもいかず、すまないと思いながら女を見た。
「天使みたいに見えるのに、幸せなだけじゃないのね、あなたも。ねえ、明日、また会える?あたし、夕方までって暇なのよ。あなたは学校があって忙しいだろ うけど、またこの時間にここに来て?」
なぜ、自分に。
リリアは疑問を感じながら、女の笑顔に惹かれて頷いていた。
生命力溢れ、どこか刺激的な。
気がつけば、まだ名前も聞いていなかった。
女は数歩歩いたところで振り向き、小さく手を振った。
「墓地でねぇ、とっても可愛い銀色の小鳥とデートしてるのよ、毎日」
「相変わらず勝手に仕事とは関係のない話をぶつけてくるんだな、お前は」
「ここからがいいところよ。その小鳥はね、綺麗な紫色の目をしてるの」
女はルッチの目を覗き、沈黙を意味あるものとして受け取って微笑んだ。
「ものすごくいい子なの。幸せな家庭で愛情に囲まれて育った・・・・・と言いたいところなんだけど、それはちょっと違うみたい。綺麗な子で、でもその綺麗 さは自分以外の人間の手でも磨き上げられたものに見えるわ。あの年でそういう綺麗さを持ってるのが、おそろしく魅力的。あの子を大事にしている人間は気を つけたほうがいい。利用したり慰んだり、あと、独り占めしたいと思う人間が絶対に出てくるから」
「なぜ、それを俺に言う」
「まあ・・・・的外れのお節介かもしれないけどね」
女は指に挟んでいた煙草を、火をつけないまま捨てた。
「がっかりよ・・・・最近、煙草、美味しくないの」
何も反応を返さないルッチを見上げ、女は笑った。
「生意気ね。年下のくせに」
表情を変えないルッチに、女は今度は声を出して笑った。
そうするしか、なかった。
それから女は伸びてきて自分の手首を捉えたルッチの手を不思議そうに眺めた。
「・・・何?」
「手短にすませるぞ。文句は言うな」
「え・・・・・?」
ルッチは女のもう片方の手も掴み、2本の手首を左手におさめ、持ち上げた。
壁に身体を押し付けられ、女は目を丸くした。
「ちょっと・・・・さすがに自分の店の裏でこんな・・・・そこまで若くはないわ」
ルッチは構わずに右手でスカートを捲くり上げ、剥き出しになった太ももを撫ぜた。
「ちょ・・・・ルッチ・・・!」
興奮の高さに準備が整った女の身体に、ルッチは躊躇いなく己を深く埋めた。
「ルッチ・・・!」
多くの技巧を注ぎ込むまでもなく、やがて女はあっさりと昇天した。
ルッチは身体を離し、少量の性を吐き捨てた。
「・・・上手すぎるわ。憎たらしいくらい」
女は肩で激しく呼吸を繰り返した。それから、ポケットから煙草を取り出し、1本咥えて火をつけた。薄闇の中に赤い光が浮き上がって揺れた。
「・・・・これは怒り?それともお礼?同情だとは絶対に言わないでよ」
「意味のある理由などない。お前に欲情しただけだ」
「嘘ばっかり。まあ、いいわ。その言葉の優しさも心に沁みる」
「勘違いしすぎだ」
女はルッチにそっともたれかかり、首に両腕を回した。
「キス、はくれなかったわね。誰にとっておいてるの?」
「意味がわからんな」
女は笑い、ルッチからはなれて背を向けた。その瞳に光るものが溢れたのを見ていたのは、月だけだった。
「弟がいるの。あたしと違って出来のいい子でね、遠い町で立派な仕事について、多分眩しいくらい胸を張って生きてるわ」
女の笑顔には、また、何か別のものが含まれていた。
ベンチに並んで座りながら、
リリアは続く言葉を待った。
「生まれたときから可愛い子でね・・・・・・死んだ母さんの代わりにいつもあたしにくっついて歩いてた。なのに、気がついたらさっさと一人で背が高くて立 派な1人前の男になってた。気がついたら、あたしの方が守られてた。次々といい学校に推薦してもらったから、行こうと思えばどんな立派な学校にも行けたの に、家から通える学校を選んでずっとそばにいてくれた」
女の目は空に向いた。
「ねえ・・・・出会えば惚れるしかない運命の相手がたまたま自分の弟として生まれてきたら・・・・、そしたら一体どうするのが一番幸せなのかしらね」
リリアは女の横顔を見た。美しく寂しげな微笑がそこにあった。
「ずっと一緒にいてくれるって言ったの。あたしがいれば他の人間はいらないって言ってくれた。あのね・・・・きっとあの子もどちらかが先にその一線を踏み 越える時を待ってたんだと思うのよ。自惚れじゃなく・・・・あたしにはわかってた。ちょっと強引に奪われる夢なんかも見たわ。馬鹿よね。考えてみれば、初 めてっていうのは男の方こそ女よりもっと大変なのかもしれないのにね、気持ち」
初めてのとき。
リリアはルッチの声と体温を思い出した。全身が熱くなった。
女は
リリアに微笑みかけた。
「初めてがいい思い出になってるなら、それってとても運がいいわ。あたしはね、結局勇気が出なかった。弟はそんなあたしの気持ちを少しだけ間違って大切に してくれた。じれったくなったあたしは、弟を遠くに追い出した。追い出すために恋人を作った。最初は金髪、次は赤毛。それから色んな男と寝たけど、弟と同 じ黒い髪の男だけは絶対にお断りだった」
黒い髪。
その響きを挟んで
リリアと女は互いの目を見た。
「あたし・・・・多分あなたに謝らなくちゃいけないことが・・・・・」
言いかけた女は不意に激しく咽た。
「・・・ごめ・・・・なんか・・・・喉が・・・・・」
異質な音をたてはじめた呼吸の中で、女は激しく震え、一瞬背中をそらしたかと思うと、喉に手を当て
リリアの膝に倒れこんだ。
「あの・・・・・!」
女の肩に手を触れた
リリアは、一度大きくもがいた女の頭を支えようとし、自分の手と膝の上に広がる紅の液体を見た。
「血を・・・」
あまりに多いな血の量に、
リリアは呆然としたまま座っていた。何かしなくては、と思った。血液と一緒に女の命が溢れてしまう前に。しかし、目の前に訪れつつある 死の気配が、
リリアの心を震わせた。
その時、目の前に現れた手が女の身体を
リリアから引き剥がした。
ルッチ。
声にならない声で呼んだ
リリアの顔に視線を落とし、ルッチは女を抱き上げた。
「・・・ル・・・」
ゴロゴロという音が漏れる女の口から、彼の名前の一部だけが流れ出た。
「・・・・こいつの腕の中に死を残すな」
冷たい刃のようなルッチの視線は、ゆっくりと普段の色に戻った。
女はもう言葉を発することはできず、全身の力を借りて微笑んだ。
やっぱりね。
そんな意味を込めた微笑をルッチは受け取る気配を見せず、ただ、女を抱いて立っていた。
「ルッチ・・・・・その人は」
ようやく口を開いた
リリアに向いたルッチの目は、静かだった。
「いつこうなってもおかしくない身体だったはずだ、この1ヶ月。俺が時々歌っている酒場の経営者・・・・噂は聞いていた」
リリアの目から涙が落ちた。
「この墓地にその人のお墓があるの。・・・死んだら・・・・お墓に向かって歌を歌って欲しい人がいるって言ってた。それは・・・」
ルッチのことだったのだ。
確信した
リリアが言葉を続ける前に、ルッチは
リリアから目を離し、腕の中の女を見下ろした。
「逝ったか」
顔に微笑を残したまま力を失った身体を、ルッチはベンチの上に横たえた。
立ち上がった
リリアは、吹きすぎた風に身体を震わせた。
並んで立つ2人の間にしばらくの間言葉はなかった。
リリアは泣き声が漏れないようにきつく唇を噛んでいた。
結局、名前を名乗りあうことはしなかった。その機会はまだあるだろうと別れるたびに
リリアは思っていた。しかし、それは完全に間違っていた。
女から聞いていた彼女の人生の話の中に、いくつも気になることはあった。でも、問うことも確かめることもしなかった。そうするには女の表情がいつもあま りに明るかったから。
なのにこの死は、あまりに突然すぎる。
歌うたい。
黒い髪。
リリアはそっとルッチを見上げ、その瞬間に堪えきれなくなって声を出して泣いた。
寒くてたまらず両腕で自分の身体を抱こうとした時、ルッチが
リリアの背中に触れるほど近くに立ち、吹き付ける風を遮った。
「滑稽なほど血まみれだな」
ルッチは脱いだ上着を
リリアの肩に落とした。
礼を言おうと振り向いた
リリアは、ルッチの唇が薄く開くのを見た。
低く囁くようにはじまった哀歌。
歌う理由を問えば、恐らくルッチはただ仕事の前払いだとでも答えるのだろうが。
リリアは、目を閉じた。
少女の腕の中で終わりかけた重たい生は、ルッチの腕の中で昇華した。
それにしても、死はこんなにも常に生と背中合わせなのか。
リリアは震えながら身体を覆ってくれている上着を握りしめた。
ルッチが無造作に片腕を
リリアの身体に回すと、体温が瞬時に伝わった。与えられた温かさが再び少女の涙を誘った。