その日、を
リリアはずっと意識してきた。
6月2日。ルッチに貰った誕生日。そして、ルッチ自身の誕生日。1日1日近づくにつれて落ち着かない気分が高まるのだが、かと言って何か具体的に考えつ くことなど何もない。
ルッチは誰にも誕生日を祝わせない。他人のものも祝わない。そのことを知っているから、カクやカリファたちも自分たちの誕生日にルッチに声をかけること はしない。だから
リリアもルッチに誕生日を貰うまでは自分を含めて誰のものも気にしたことはなかった。祝い方だって実はよく知らない。W7のブルーノの 店には誕生日を祝う目的で訪れる客も時折いたから、なんとなくはわかる。
乾杯、ケーキ、プレゼント。
けれど、やはりそれは全部傍観しているのがふさわしいものたちに思えた。
誕生日、は生まれた日。
ルッチがこの世に生を受けた日だと思うとそれだけで心が満たされる。
何か伝えたいことがある気がする。
でも、多分ルッチはそれを必要としてはいないし認めない。
ならば今日は自分一人で心の中でルッチの誕生日を祝っていよう・・・・・
リリアはそう考えていた。
静かに、一人で。それは十分すぎるほど幸福な過ごし方に思えた。
一瞬、その大きな物体の正体が頭に浮かばなかった。ルッチとカクの肩に引っ掛けた太い皮ベルトに支えられた曲線と直線が混ざっている何か。ふちは艶やか な黒、内側は滑らかな金色。とにかく大きなそれはどこか見覚えがあるのだが。
ええと。
リリアはただ広いだけのガランとした室内を眺め、先に運び込まれていたらしい別の物に気がついた。金色の小さな輪がついた黒塗りの脚。
ああ、もしかしたら。
「それは・・・・・ピアノ?」
ルッチは顔を向ける気配もなく勿論表情ひとつ変わらず。代わりにカクが満面の笑みを
リリアに向けた。
「そうじゃ。何じゃ、驚いとるのか?目がまん丸じゃ」
「うん。あのね、ピアノって、何というか、もう少し大袈裟というか大掛かりな運び方をするのかと思ってて」
カクは笑った。
「勿論、このまま倉庫からスタスタ歩いてきたわけではない。入り口の前まではそれこそ布やら何やらでくるみこんで台車にのせて、それこそあまり揺らさない ようにしずしずと持ってきたんじゃ。まあ、室内に入れるときにはこんな風に2人がかりで持ち上げてしまうのが一番楽じゃがな」
そういうものなのか。
リリアは大層堅固なイメージがある楽器のバラバラなパーツが組み立てられていく様子をじっと眺めた。ルッチとカクは手際よく作業を進 め、やがて見慣れた姿のピアノが部屋の中央に陣取った。
「じゃあ、後は任せたぞ、ルッチ。わしは他の連中の様子を見てくるからのう」
出て行くカクを背を向けたままルッチが上着のポケットから取り出したのは、銀色に光る音叉だった。
1音。それからオクターブ上がり、次に下がる。
ルッチの指が鍵盤を押し、集中を感じさせる無表情でじっと耳を傾けている。
リリアはその光景から目を離すことができず、床に座って膝を抱えたまま黙ってルッチの姿を見上げていた。
ひとつずつ試される音。それから和音。曲線を描くルッチの指の形。
壁に、床に、天井に届いては跳ね返る反響音。その中にいると過ぎているはずの時間を忘れる。深く押された鍵盤が生み出す音にすべてが凝縮し、見つめてい るルッチの姿が視界の中で滲んでくる。目に力が入りすぎたせいだろうか。
リリアは急いで数回瞬きをした。それからゆっくりと目を開けると、目の前に黒い革靴とそこから続く足があった。
ルッチ?
無言の問いかけを含んで自分を見上げた
リリアの瞳に、ルッチは冷ややかな視線を向けた。
何が面白くてそこにいるのか、お前は。
逆に問い返された気がした
リリアは思わず膝をさらに強く抱いて体を縮めた。
わたし、邪魔になっている?
ルッチの指がひときわ強く鍵盤を叩いた。強く高く響いた音が返事のように感じられて跳びあがった
リリアにまた床に座る隙を与えず、ルッチは空いている手で
リリアの顎を捕らえ、立たせた。
紫色の瞳。ただまっすぐに彼を見ている2つの目。そこに見え隠れする意思を今ピアノにしているように触れて曝け出させたいと一瞬思った。か弱い身体に秘 められた強さ。愚かなほど単純に彼をただ見ている目。それは軽蔑と冷笑の対象になるはずのものだ。誰かが彼にそんな目を向けたなら即刻排除するかその場か ら離れる。記憶の一片にも残さない。目の持ち主が・・・・
リリアでなければ。
「・・・小癪な」
呟いたルッチは指先で
リリアの唇をなぞり、次の瞬間深く奪った。そして
リリアが反射的に目を閉じたのを確認すると、片手で軽々と少女を抱え上げピアノの脇に下ろした。
「・・・ルッチ?」
ようやく
リリアが驚きと余韻から覚めたとき、ルッチは椅子に座ってピアノに向かっていた。それから、調律とは違った形に構えた両手を静かに鍵盤 の上にのせた。
重なる音が溢れ、音の連なりがメロディを奏でた。
ルッチがピアノを弾いている。
リリアはその大きな手から目を離すことができず、鍵盤の上を目で追った。リズミカルに、時に高くそして低く自在に音を生み出していく長 い指。
感嘆に息を止めていた
リリアは苦しくなり、大きく息を吸い込んだ。
「バカヤロウ」
冷ややかな声さえ甘く感じさせてしまう音の魔法。
リリアはその魔法が消えないように、そっと微笑した。
「ピアノを弾けるの、知らなかった」
「好き好んで弾いてるわけじゃない。次の任務に必要なだけだ」
それなのにこんなにも心の迫る音を奏でることができるのか。
リリアは嘆息を漏らした。ルッチは唇を皮肉っぽく歪めたが、何も言わなかった。
まだ本調子には動かない鈍った指に軽い苛立ちを感じながら、ルッチは目を閉じた。それでも、不思議なことに傍らの少女の存在を煩わしいとは思わなかっ た。今度の任務に
リリアの出番はない。数日後には置いて旅立つだけであることを知っているから・・・・だから大目に見ているということかもしれない。そ れとも。いや、それすらあり得ないことなはずなのだが。
自分の指が奏でる旋律とともに
リリアの気配がルッチの中に流れ込んだ。
また、じっと見ているのだろう。お前以外には許せないあの目で、あの見方で。
「今日、ここにいられてよかった」
リリアは囁いた。ルッチに届かなくてもよかった。心の底からこう思えるだけで満ち足りていた。
ルッチが生まれた日。
その日、ルッチの産声を聞き幼い身体を腕に抱いた女性はどんな人だったのか。
リリアはルッチの横顔に見蕩れた。静かに深く、美しかった。
「お前は・・・・」
ルッチの瞼が緩やかに上がった。そこを見慣れないものが通り過ぎたように見えた。
「ルッチ?」
「黙れ。黙って・・・そこにいろ」
慌ててこくりと首だけ頷いた
リリアは嬉しさに頬を染めた。
ここにいていいのだ、ともう一度自分の心の中で囁いた。
静かで震えるような調べが流れる第2楽章。
ルッチは
リリアを一瞥した後、再び目を閉じた。
「これは、売れないバンドなんぞに化けんでも、ルッチの独奏とマネージャーたちってことで十分上手くいってしまいそうじゃがのう」
閉じたドアの前でカクは小声で言い、笑った。
「だがな、あの野郎、何で弾くのを止めやがらねェ?俺たちがここに来てることぐらいとっくに気づいてるはずじゃねェか」
疑問と不満が混ぜこぜになっているジャブラの顔を覗き、カクは面白がるようにクルリと目を回した。
「じゃからな、今は弾いていたいんじゃろ、ルッチは。理由は、まあ、俺が思ってる通りだといよいよ面白いじゃがのう」
「・・・・何だ、その理由ってのは」
「お前にはわからんじゃろ。これがわかるならとっくにキャザリンとでも他の誰かとでも上手くいとるわい」
「関係ねェだろ、俺のことはよ!喧嘩売ってるつもりか?いい度胸じゃねェか、カク」
「まあ、まあ、じゃ、ジャブラ」
カクはどこか子供の面影を残した笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「今日は特別な日じゃと思ってやれ。顔にも口にも出さずに心の中だけでな。練習は1曲終わってからでも十分じゃ。それに・・・・ほら、綺麗な曲じゃ」
「ったくあの野郎、柄でもねェ」
静かな昼下がり、廊下にもどこか荘厳な音が満ちていた。
いい誕生日じゃ、2人とも。
カクは背中を壁にあずけ、微笑を浮かべながら目を閉じた。