紅 闇

イラスト/紅い薔薇 その「過去」は不意に背後から少女を襲った。

「・・・・ルーラじゃないか?・・・・おまえ、ルーラだな?おい!そうだろ?」

 ルーラ。
 その響きを聞いたとき、最初に感じたのは背筋を走った鋭い冷気だった。
 聞き覚えがあるその響きは、ひとつの名前。
 無くしていた記憶に代わる埋め草として与えられていたそれは、少女の心を凍りつかせる。
 振り向いてはいけない、振り向きたくない。
 少女は走った。恐らく、どこか嬉しげに弾んだ声を掛けた男は呆気に取られて見送っているだろう。
 少女の心の奥底にある封印してある記憶の鍵を無遠慮に、そしてあまりに簡単に外してしまった声。
 身体と一緒に心の一部分を切り売りして生きていた日々。あの頃のことはもう2度と、一欠けらも思い出したくなかった。何かの拍子に記憶の断片が浮かび上 がりそうになるたび、じっと耐え黙ってまた奥底に沈めてきた。なのに。
 走りながら肌の表面が粟立つのを感じた。
 日の光を浴びていることをなぜか苦痛に感じた。
 夜ならよかったのに。夜の闇に紛れていればまだ過去に捕まらずに逃げおおせることもできたかもしれない。
 それ以上陽光の中に姿を晒していることに耐え切れず、少女は先週からの仮の住まいを目指した。逃げ込み、潜み、心と身体を縮めて丸くなる・・・・それし か考えることができなかった。
 冷たい汗の感触がある手で重い扉を一気に押し開けた。
 中に1歩踏み込んだ瞬間に正面から感じた獰猛な気配。
 人間らしさの片鱗さえうかがわせない2つの瞳が、殺気を含んだ静寂の中、少女を一瞥した。




 久しぶりに二桁の人間の命を一瞬で奪った男は、任務の完了にさしたる感慨もなく建物の影をするすると渡って部屋に戻った。
 指先に残る破れる皮膚と裂ける肉の感触。倉庫の隅の暗がりに滴り落ちた生ぬるい温度を孕んだ血の雫の色と匂い。
 五感に残るものたちをひとつずつ思い返す男の胸の中、自分が与えた死への満足と更なる枯渇が殺戮への荒々しい欲望となって渦を巻く。この飢えと満足感が 今の彼の存在理由となっているのだが、そのことに対するささやかな嫌悪も同時に、確かに、男の中のどこかに存在し、それが間違うと弱さに通じる自分のぬる さにも思え、男は思わず身震いをした。
 奪うのは容易く快感を伴う。
 だが、この血の要求に飲み込まれることを決して己に許しはしない。
 男は昂ぶり荒れ狂う胸のうちを抑え、目を閉じた。
 そのとき、気配を感じた。
 外から近づいてくる回転の速い足音。
 一直線にこちらを目指してくるそれは・・・・・最悪の予感が男の中に生まれる。
 今、恐らく一番顔を合わせたくない相手。
 なぜ、お前はよりにもよってこんな時に。
 感情が燻り不吉な炎を孕んだ。
 予想よりも乱暴に開けられた扉の向こう、浮かび上がった細くか弱いその姿を本能のままに睨みつけた。




 声を聞かせることも、まして触れることもしてはいけないことだ。娘は思った。自分の心に、肌に浮かび上がる記憶の気配が男を汚してしまうだろう、と。

 荒々しいままの視線を向けたまま男は動かなかった。指の1本でも動かしてしまったら、恐らく次の瞬間に目の前にある命は果てる。自分がなぜそれを自分に 許さないのか思考する余裕はなく、ただ猛り狂う狂気を抱えていた。

 目を離せ。
 近づくな。
 触れるな。
 気配のひとつさえ忘れろ。

 少女は床に視線を落とし、男は顎を半分上げて宙を睨んだ。
 わずかな音がたつのも恐れて少女は気配を殺した足取りで部屋の隅を目指し、そこにできている影の中に座って膝を抱えた。
 男は視線を動かさず、そのまま2度、息を吐いた。
 最初は短く、次に深く。
 それから、目を閉じた。

 沈黙は室内に緩やかに広がった。
 少女は己を許すことができずに膝に顔を埋めた。
 男は目を閉じたまま彫像と化したように動かなかった。

 恥ずかしい、の言葉では到底足りなかった。いつまでも洗い流すことができない滓のようなものに全身がまみれている気がした。
  リリアは涙を流すことも自分には許さなかった。
 何人の男が自分の上に身体を重ねるのを許したか。
 それを許せると、いや、触れ合うことに胸が痛いほどの幸福を感じることができる相手はたった1人と決まっていたのに。
 何事もなかったように目の前に現れてくれた「今」を失うのが怖くて、ただそのまま自分が幸福の中に戻ることを許してしまった。
 何も訊かれないのをいいことに、心が痛い過去に黙って蓋をした。
 汚い。
 汚い。
 汚い。
 恥じるだけではどうにもならない。
  リリアは唇を噛んだ。
 後悔してもどうにもならない。自分の身体と心に刻まれたものは、恐らく消すことなどできない。それを消せたように錯覚していたのは、あの頃の記憶を嘘だ と自分に言い聞かせていただけだ。

「う・・・・」

 堪え切れない分の呻き声が漏れ、熱い涙が零れ落ちた。
 やめろ、と自分に命令した。
 この涙はまた己を哀れと思って甘やかしているだけのものではないのか。その涙を拭うことさえ自分に許したくなかった。手で拭うよりはとスカートに頬を擦 りつけた。小さく数度擦って顔を上げたとき、黙って凝視しているルッチの目を見た。

「・・・・・相当惨めな感じだが。いっそ、今ここで俺の手にかかるか?」

 ルッチの瞳に揺れる光に、その言葉が本気だと感じた。
 今、ここで。ルッチの手がすべてを終わらせてくれる。
 恐怖は甘美でさえあった。
  リリアはそのままルッチの瞳を見上げ、その奥に見入った。そして、ふと我に返りぞっとして首を横に振った。

「汚いから・・・・汚れてしまう・・・・ルッチの手」

「・・・・俺のこの手が、汚れる?」

 ルッチの目にあった剣呑な光がまた大きく揺れた。その身体から拡散した気配が、空気を切り裂いた。

「わたしのせいで汚れるのは・・・・そんなの・・・絶対に嫌だ・・・」

  リリアの中に、確かに死に対する恐怖はあった。同時に甘美な誘惑も感じていた。しかし、それ以上にルッチを強く想った。
 小さく身体を震わせながら自分を見上げ続ける紫色の瞳を、ルッチは黙って見下ろしていた。
 自分の中の別の自分が リリアの中にある死への恐怖に本能的に舌なめずりしているのを感じた。
 なのに、お前はほんの1歩も逃げようとはしないのか。
 死が怖いくせに。
 惨めに何かに雁字搦めになりながら、おかしな心配をしている場合か。
  リリアの目の中にある生真面目な光を眺めているうちに、殺戮への欲望が次第に馬鹿らしく感じられてきた。逃げも隠れもしない小さな命。 いつからか彼の傍らにあるそれは、どうやら少しばかり他の人間の命とは毛色が違うものらしい。
 ルッチの唇に最大級の自嘲の笑みが浮かぶと、 リリアは驚いて身体を硬くした。

「お前に触れると汚れる、と言いたいのか?」

 こくり、と頷いた リリアの目から雫が落ちた。
 ルッチの喉の奥から低い笑いが湧いた。

「たとえお前がそう望んでも、到底無理な話だな」

 ふわりと立ち上がったルッチは リリアの顔に浮かんだ拒絶の気配に唇を歪めた。

「思い上がるな」

 手を伸ばして頬に触れると、 リリアは座ったまま身体を大きく退いた。ルッチは微笑を浮かべたまま、1歩ずつ壁際に少女を追い詰めた。

「ルッチ・・・・本当にすごく汚いから・・・・」

「無理だな。お前には俺を汚すことなどできない」

 ルッチは両腕で細い身体を掬い上げ、全力でもがいた動きを腕の力で簡単に封じた。

「ルッチ・・・・!」

 逞しい肩に頬を押し付けられ、 リリアは一瞬呼吸を忘れた。

「・・・・愚かだな、お前は。俺以上にお前の身体を知っている人間がどこにいる?」

 銀色の髪の中に囁かれた言葉が、一気に少女の心を崩した。

「でも・・・・本当に・・・・」

 言いかけた言葉は嗚咽の中に散った。

「みっともないこと、この上ないな」

 ルッチは リリアを抱いたまま移動し片手でコックをひねると、勢い良く流れだしたシャワーの下に リリアを下ろした。冷たい水の感触に震えた身体から衣類を破り剥がし、自分も重くなりはじめた衣類を脱ぎ捨てた。

「面倒だ」

 液状の石鹸を リリアの頭の上から無造作に振りかけ、ルッチは銀色の髪を掻き回した。それから手を下げ少女の頬から首を伝い、肩から足の指先まで幾度 も手を往復させた。

「ルッチ」

「まだまだ、汚れは落ちそうにないんだな?」

 ルッチは手を速めた。
 水が完全に湯に変わった時、すでに少女の身体はぬくもっていた。そこからさらに熱を帯び始めた肌と身体の芯の感覚に、 リリアは思わずルッチの顔を見上げた。
 黙って視線を返したルッチの口元を微かな気配が通り過ぎた。

 ここにいてもいいの?

  リリアの顔に浮かんだ問いにルッチは答えなかった。
 ルッチの指は少女の身体に残る傷跡を、1本ずつゆっくりと辿った。

「愚かだな・・・・ リリア

 今手の中にある命は、ごく小さなくせに妙に存在感がある。
 ルッチの指はやがて静かに傷跡をやわらかく撫ぜた。
 唇を合わせた時、湯が隙間から2人の口に流れ込んだ。ゴクリ、と喉を鳴らした リリアに笑みを呼ばれそうになり、ルッチは代わりに深く唇を重ねた。腕の中に抱き込むと細い身体の震えは次第に止まった。
 流れ落ちる湯の中で互いの表情が見えないことは、もしかしたら幸運なのかもしれない。
 2人はそのままじっと湯よりも熱い互いの肌を感じながら立っていた。

「お前には無理だ」

 「何が」は言葉にされることはなかった。
 「何が」という問いかけもなかった。
  リリアは流れる湯の中に隠れて最後まで涙を流し終えた。
 その軽くなった心に気がついたように、ルッチの指が少女の胸の上で大きな円を描いた。

2008.7.8

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