ほう、と少女は小さく息を吐いた。
陽のあたる木製のベンチの表面は、暑かった夏とは確実に違うやわらかなあたたかさを帯びている。一見まだ青々としているように見える草の中にも、季節が 変わり始めた確かな証拠のアースカラーが混ざっている。恐らくとても貴重なあたたかさに包まれた午後、黄昏時を前に少女はもうひとつ、息を吐いた。
やっと、終わった。今胸の中にあるのはそれだけだった。本当は隣の姿を見上げてその表情に同意の気配を探したいところだが、ぐっと堪えた。そうしている 間にも隣に座るその人から体温と珍しくも脱力している気配ばかりが伝わってくる。やはり、自分と同じでクタクタに疲れているのだろうか。
子どもという名前の異質な存在たちに囲まれて過ごした半日。
開放されて30分ほどの時が過ぎたが、男が動き出す気配はなかった。
その男、ロブ・ルッチ。世界政府から認可されたでただひとつの殺し屋集団の中にあって名実ともにトップに立つ男。その姿は今はただ、静かにベンチに全身 を預けて弛緩していた。
「おまえさんしかおらんのじゃ」
その独特の口調には強く押さなければならない場面でもどこかユーモラスな響きを含んでしまうため相手を油断させてしまうという利点がもしかしたらあるか もしれない。そのことを知ってか知らずか、カクは湯気がたつコーヒーが満たされたカップを宙に持ち上げたままのルッチの目の前に立って懸命に訴えていた。
「おまえさんたちがこの町を通りかかったのは、これは、もう、単なる偶然なわけはない。わしとカリファにとっては幸運の一語に尽きるんじゃ。1日でいいん じゃ。今日1日だけわしらにくれたらあとはどこへと消えてくれて構わん。カリファは一足先に奴を追ってる。CP9に配属された直後のあの任務・・・わしら の手を逃れたのはあいつ1人じゃ。見逃すわけにはいかん」
ルッチは眉間の皺を深め、口をつけないままカップを置いた。
「俺がそいつを追ってカリファに合流すれば問題あるまい?お前たちは面が割れているんだろう。尚更俺が適任だ」
カクの大きな目に暗い光が浮かんで消えた。
「わしらの任務だったんじゃ、ルッチ。最後にケリをつけるのも自分らの手でやらねば気がすまん。じゃから、頼む。ここでの任務を繋ぐためじゃ。半日、ここ でのわしらの代わりをやってくれ。お前さん1人には頼まん。のう、
リリア。ルッチと一緒にカリファの代わりをやってくれ。始まりの鐘を鳴らすまであと40分しかないんじゃ。今からじゃ代わりを頼む暇は ない。わしは少しでも早くカリファを追わねばならんしな」
リリアは驚き、カクのために注いでいたコーヒーをこぼした。
「でも、カク・・・」
「フン」
リリアが言いかけたとき、ルッチの顔にこの朝最大の不機嫌具合が刻まれた。
「殺し屋のリーダーと山賊の中で育ったこいつに『保育園』とやらのルールがわかるとでも思うのか?他の教師に正体を怪しまれるのがおちだろう」
カクは目をクルリと回して微笑した。
「園長が休暇をとってる今日は、『先生』はわしとカリファ2人だけじゃ。この町は小さいし、子どもよりも老人の割合が大きいからのう。大丈夫じゃ、わしが ここに来るまでと来てから毎日勉強のためつけてきたノートがある。半日の要領は全部書いてあるぞ。大体、わしにできてお前さんにできないことなど、あるは ずないじゃろ?」
信頼、確信、そして勝利の予感。カクの微笑は大きな笑顔に変わった。
リリアは急にこみ上げてきた緊張感を慌てて飲み込んだ。
そう、カクとルッチはCP9の他のメンバーには見せない顔を互いにだけ見せる時がある。そんなときは大抵、カクがルッチに言った『我侭』は結局通ってし まうし、
リリアはそんな時の2人の間の空気が好きだ。
だが。ということは、つまり、今回は
リリアも巻き添えをくうということで。
「・・・保育園の先生ってどんなことをするの?」
カクは笑いながらポケットから引っ張り出したノートをルッチに放った。
「ごあいさつに歌に楽しく踊って美味い弁当。まあ、そう悪くもないぞ。お、そうじゃ、後で様子を知りたいからこのノートに記録を取っといてくれ、
リリア。観察日記風でよいからな」
相手を心の底まで一気に凍らせてしまいそうなルッチの視線を笑顔でかわし、カクは建物を出て行った。
挨拶、歌、そして踊り。
思わず身震いした
リリアはルッチと目を合わせた。そこには普段見かけたことのない拒絶と嫌悪の色があった。
××月××日の日誌。
午前9時。鐘を鳴らすと公園?園庭?で遊んでいた子どもたちがいっせいに集まってきた。12組の幼い視線が遠慮なく突き刺さってくるのは緊張するという よりも怖い。運良くハットリがルッチの肩に舞い降りると、視線は一気にそこに集中した。数人の生真面目な顔をした子どもの他は誰も部屋に入ろうとしなかっ たので、ルッチが一睨みした後で先に立った。その視線の効果か子どもたちはおしゃべりをやめてわたしたちの後にくっついてきた。
座席表は壁に張ってあったけれど、子どもの名前がわからない。どうしよう?考えているとルッチが並んでいる机の前に立って口を開いた。
「自分の席があるなら黙って座れ」
効果抜群。ちゃんとみんな自分の席があった。ないのはルッチとわたしだけ。『先生』ってどこに座るのかな?それとも立つの?ルッチはとても嫌そうな顔で 黒板?の前に立った。「みなさん、おはようございます」・・・・ノートにはこれが朝の挨拶だと書いてあるけれど。でも。ちょっと想像できなかった・・・ ルッチがこれを言う姿。そうしたら。
『みなさん、おはようございます、クルッポー』
いきなりハットリが挨拶をしてちゃんと丁寧に頭を下げた。ああ、そうか、ルッチにはこれがあったんだ。見れば子どもたちの目はまん丸。次の瞬間には大騒 ぎ。今日はカク先生の代わりはハットリ先生。ルッチの顔から不機嫌の色は消えていつもの無表情に戻っていた。
午前10時。歌の時間。ルッチは一度楽譜をパラパラと眺めてからオルガンを弾いた。そしてハットリが歌った。何もできないのはわたしだけ。でも、気がつ くと子どもたちは静かに口を閉じたままハットリの歌を聴いていた。うん。ハットリが歌を歌うときの声はルッチの本当の声に近くなる。艶のある歌声は幼い心 にどんな風に響いているのか。ひとりひとりの顔を順番に見ていくと中にひとつ、ひときわ強い視線でルッチを見つめている女の子を見つけた。と思うとちらり とわたしの方を眺めたり。小さな顔に浮かんでいるのは好奇心なんだろうか。何かちょっと違うものもある気がするのだけど。
『今度はお前たちが歌う番だッポー』
ハットリが言いルッチが鍵盤に指をのせた時、さっきの女の子が席を立ってオルガンの横まで歩いてきた。じっとルッチを見上げた顔は何かを言いたそうだっ たけど、ルッチが前を見たまま黙っているとその子も黙って見上げ続けた。すぐに様子を見ていた他の子どもたちが一斉に集まってオルガンを囲んだ。みんな ハットリ先生と一緒に歌いたいけれどルッチの反応が気になるんだろう。どの子とも目を合わせないでいるルッチの視線が不意に届いた。びっくりした。まだ何 の役にもたっていないのを強く意識した。
ごめんなさい、ルッチ。
響き始めた子どもたちの歌声はとても楽しそうだった。
午前12時。昼食の時間。自分のお弁当箱を机の上に並べた子どもたちの表情は輝いて見える。蓋を開けた途端に広がった色鮮やかな世界。圧倒された。
わたしとルッチは今朝カリファが作ったというお弁当をカクから貰っていた。本当はわたしの分はカクに持っていってほしかった。カクはきっととても楽しみ にしていたと思うから。
「あ〜!おんなじだ。2人、おそろいのおべんとうだ!うわぁ〜」
気がつくと前に座っている男の子がわたしの弁当を覗いていた。この子の言い方にわたしはもしかしたら顔を赤くしてしまったのだけど、わたしよりも早く声 に反応した子がいた。朝からずっと・・・一瞬も目を離してはいないのではないかと思うほどルッチを見ているあの女の子。椅子を倒すほどの勢いで立ち上がっ てルッチとわたしの方を交互に見てる。どっちの弁当を確認するか迷ってるみたいに。
ああ、そうか。やっぱり、そうなんだよね。
うん。
「おいしそうでしょう。このお弁当はカリファ先生が用事で出かける前に作っておいてくれたのよ」
中身は野菜もたっぷりのロースとビーフサンドイッチ。スパイスを聞かせた肉の香りが食欲をそそる。懐かしい。これはブルーノの定番メニューだ。
なぁんだ。
女の子の口が確かにそんな言葉を形作った。
「先生、おかず、取替えっこしましょ?」
女の子がお弁当箱を持ってルッチの方へ歩いていく。
大丈夫かな。ドキドキした。でも、ルッチが・・・いや、ハットリがなんて答えたのかは聞こえなかった。
「取替えっこ!俺も!」
「先生、これも食べて」
ルッチのところにもわたしのところにも、我先にと勢いよく子どもたちが集まってきたから。
午後1時。昼寝の時間。隣の部屋には小さなベッドが13、並べられていた。子どもたちは12人。使われないで残るひとつのことがちょっと気になった。
歯磨きをさせてからトイレに行かせるというだけのことが、こんなに大事になるとは思ってなかった。毎日こうなのだろうか。それぞれの弁当を食べ終わった 子どもたちには満ち足りたパワーが溢れていて、本当は眠りたくないのだと全員の顔に書かれている気がする。
そうでもないか。まだごく幼い3人は、いつの間にか目を擦りだしている。
男の子たちはルッチ担当だからどんどん準備ができていく。手間取っているのは女の子たち。1人1人に意外なこだわりがあって驚いた。編んでいる髪をほど いて丁寧にブラッシングしてからではないといやだという子。鞄から引っ張り出した人形にも歯磨きをさせなければならないという子。誰にも寝顔を見せたくな いから窓際のベッドじゃなければだめだという子。そんな中であの子は・・・多分ルッチをとても気に入ってしまったあの女の子は一言も喋らずにさっさと支度 を終わっていた。真っ先に走っていくのかと思っていたら、洗面所の出入り口からそっと向かいに位置する昼寝の部屋を覗いている。その気持ちがわかる気がし て、何だかとても可愛いくなった。まだ本当に幼い子どもたちとの境界線。歌やお弁当の時には勇気を出して近づけても、昼寝はちょっと違うんだろう。
「もしかしたら鳩の先生、眠る前に歌を歌ってくれるかもしれないね」
言うとやっぱり最初にあの子が反応して振り向いた。
「・・・ほんと?」
「誰かがお願いすれば」
普段のルッチなら無理だろう。それはわかっている。でも、ノートに書かれている日課の中に『昼寝時の子守唄』という1行があった。それをきっとルッチは 覚えているから。
わたしの顔をじっと見つめながらその子はしばらく考えていた。それからくるりと背を向け、その背をちょっと伸ばす感じで歩き始めた。
お願い、叶うといいね。
心の中でそっとエールを送った。
午後2時。踊り→修正→体操の時間。
子どもたちを難なくきちんと整列させるルッチの様子には、不思議なことに慣れた空気があった。まるでこれまでに何度もこういう場面にいたことがあるよう な。教えた体の動きはシンプルなものから子どもには難易度が高すぎるものまでいくつもあった。どんな場面でも冷静なルッチはもしかしたら教師に向いている のかもしれない。
子どもたちがヘトヘトになってもまだ時間は余っていた。なのでちょっと一休みさせていたのだけど、そのうち、いつの間にかルッチの腕に1人、また1人と 子どもがぶらさがった。5人、6人・・・増えてもルッチは表情ひとつ変えず、ただ軽く曲げた腕につかまっている子どもを持ち上げている。やがて左右に6人 ずつがぶら下がっておさまった。小さく溜息をついたように見えたルッチはゆっくり歩き始めた。
歓声が上がった。
ゆっくり、ゆっくり。そして次第に速く。
ルッチは勿論表情一つ変えなかったけれど、それはとても楽しそうな光景だった。
ルッチにとっては忍耐の時間なんだよね。見てるわたしはこんなに嬉しくて申し訳ないな、とちょっと思う。でも、眩しいくらいに楽しそうな笑顔が並んでい たから。中にひとつ、時々笑うのをやめてじっとルッチを見上げていた顔もあったけれど。
午後3時。帰宅の時間。
『先生、さようなら。みなさん、さようなら』
自分も言ったこの挨拶はちょっと滑稽な気がした。どうしてかな。
子どもたちを迎えに来る保護者というのは母親ばかりだろうと勝手に想像していた。実際は様々だった。年の離れた兄姉、祖父、祖母、親たちが働いている作 業場のその日の代表、同じ長屋の住人で夜は酒場に出勤という女性、そしてもちろん父親たち。中には疲労の色が見える顔もあったけれど、それでも子どもたち に向ける時、そこには笑顔があったと思う。
肩に鳩をのせた男と不器用に突っ立っている小娘の2人。もちろん不審な視線を向けた人が多かった。でも、すぐに子どもたちが『今日だけ来た喋る鳩の先 生』だとか『明日はまたカク先生が帰ってくるんだって』などとお喋りしてくれたおかげで、疑問の声をぶつけられることはなかった。もっとも、それにはルッ チの無表情が漂わせていた空気も原因だったかもしれないけれど。
女の子の母親は最後に迎えに来た。それまで子どもはルッチとわたしの間に立って仕方なくわたしと手を繋いでいた。本当はルッチと繋ぎたいのだろう。その 溢れた気持ちがたくさん伝わってきたのだけど、どうしてあげたらいいのか、わたしはただ悩んでいた。
「仲良し、なんでしょう、先生たち」
突然話しかけられてびっくりした。見下ろすと子どもの強い視線があった。
「・・・そう見える?あり得ない気がするけどな」
「だって、ルッチ先生、あなたの顔、見ないもの。ほんとは違う顔、見せたいんでしょ?」
子どもの理屈というか直感ばかりの言葉は、ちゃんと意味が通っては聞こえなかったけど。
わたしは思わず子どもの手を強く握ってしまった。
「フン」
ルッチは・・・これはルッチが子どもに聞かせた唯一つの本当の声になった。その声に勇気をもらって、自分の手の中にある小さな手を黙って持っていって ルッチの手に重ねた。考えてみると子どもにとっては自分の胸の前を横切ってしまうとても不自然な形になってしまったけど。でも、やがてその小さな手はそっ とルッチの手につかまった。
ルッチは握り返しはしなかった。
そして、振り払ったりもしなかった。
「なんじゃ、
リリアは眠ってしまっておるのか?まあ、想像つくわい。さぞかしクタクタになったんじゃろうな」
黄昏の気配が一層近づいた頃、隣のベンチの背中を軽々と越えたカクが座って帽子を軽く持ち上げた。
チラリとその姿を一瞥しながら何も言わないルッチに、カクは顔いっぱいの笑みを向けた。
「珍しく疲れたようじゃな、お前さんも」
「予想よりも早い帰りだが、ケリはついたのか?」
「おお、ついたぞ。ヤツはカリファを見て目を丸くしておったがのぅ。あの頃と大して見た目が変わっていないわしと違ってカリファの女ぶりは大層上がってお るから無理もない。間抜けな台詞を口にしよったから、早々に黙らせた。今頃は海軍支部に連行されて泣き言のひとつもわめいとるじゃろう」
カクは腕をいっぱいに伸ばし、欠伸をした。
「そうじゃ、ルッチ。子どもたちの中にお前さんに特別になつく・・・というより好意を見せた女の子はおらんかったか?数歳上の子どもらよりも精神的に一歩 先に進んどる子なんじゃが」
ルッチは答えなかった。視線一つ動かさない様子にカクは頭を掻いた。
「今は12人の子どもたちじゃが先月までは13人だったんじゃ。最年長の子が、ああ、男の子じゃが、病気になってしまってのぅ、町の病院では治療しきれず に突然引っ越したんじゃ。その子は黒い髪、黒い目のお前さんになかなかよく似た子で、物静かでいながら子どもらのまとめ役じゃった。で、一番仲がよいとい うか、時々大人としては見てると照れて困ってしまうほど仲の良い小さな女の子がいたんじゃが、男の子が引っ越してからずっと何だか覇気がないというか表情 も何もかも沈んでしまってのぅ。今朝お前さんたちが来たときには渡りに船じゃ、と実は考えたりもしたんじゃが」
ルッチはやはり答えなかった。その沈黙は受取りようによっては相反する2種類の答えになっている気がして、カクは苦笑した。
その時、吹きすぎた風が
リリアの銀髪を大きく揺らし、それにつられるように細い身体が横に傾いた。ルッチはそのまま動かずに銀色の頭が自分の脇にもたれるに任 せ、やはり視線一つ動かさなかった。
クスリ。
カクは口元で小さく笑った。それから、
リリアの膝から地面に落ちたノートを拾い上げた。
「まあ、いいわい。もしかしたらこのノートに
リリアがわしが知りたい答えを書いてくれたかもしれん。ほんの小さなことでも全力になってしまう子どもたちとの様子、読むのが楽しみ じゃ」
その時、カクでなければわからないであろうほど僅かにルッチの口が開こうとする気配があった。
なんじゃ?
期待して首を傾げたカクの笑顔にルッチは片方の眉を上げ、結局は黙ったままでいた。
「お前さんらしいのぅ。さてと、のんびり湯でも沸かしておくから、互いの体温だけじゃ寒くなったら入って来い。勿論、
リリアが、じゃぞ?」
今度はルッチの代わりにハットリが大きく頷いた。
カクは身軽に大股で歩き出した。
さて、ノートには何が書いてあるかのぅ。
些細なことに弾む己の気持ちが可笑しくて、カクは笑った。
その時、背後から小さな音が聞こえたように思った。馬鹿馬鹿しい、と鼻を鳴らすルッチ。その顔を想像すると、もうひとつ、笑えた。