窓を開けると風が吹き込んだ。
ルッチは背後で首を傾げたカクの気配を読み、気まぐれに視線を向けた。
「いや、何でもないんじゃ。ただな、髪が結構伸びたんじゃなと思ってな」
「・・・邪魔でもない」
そう言いながら、ルッチは首の後ろで無造作に髪を束ねた。
続いている視線に、カクは帽子を脱いでオレンジ色の頭を掻いた。
「・・・前の街では滞在も長引いたのにきっちりと同じ長さにしとったのう」
お前の「遠まわし」は、いかにもお前らしくストレートに等しい。
唇を小さく歪めたルッチは、窓の外に視線を戻した。
「あれはそういう仕事の女だったからな」
カクはふぅっと息を吐いた。
「やっぱりあの人がずっと切っとったのか」
ルッチは答えなかった。
また、ひときわ強く風が吹いた。
揺れたカーテンがふわりとルッチの上半身を包み込んだ。
海のような女だった。
抱いた流れの中で女の深くに身体を進めたとき、ルッチが感じたのがそれだった。
豊満とはほど遠い細い身体と、それに比べてしっかりとした形の良い手を持った女だった。
客に呼ばれて髪を切り整え、時には複雑な形に結い上げる。それが女の仕事だった。
顔が広いくせに職業柄地味で控え目。呼ばれればどんな要人のところへも出かけていく。他人の話を聴くのが上手く、相手には女についての印象がほとんど残 らない。
情報収集の一環として付き合って損はない人間だった。
だから、呼んで髪を切らせた。
ほとんど何もない部屋の中央に置いたスツールに腰掛け、女の指の感触を機械的に辿った。
小さな金属音が聞こえるたびに身体を覆っている布の上に短い毛髪がパラパラと落ちた。
ひと房ひと房丁寧に髪を掬う指先の温度がほんの刹那を繰り返し、規則正しい吐息の音が聞こえた。
「無口だな、意外と」
初めての客への挨拶と仕事の要望を尋ねた他はただ作業に集中している女の代わりに、ルッチが先に口を開いた。予想外だった。
「静かな方が好みのお客様のところでは。この方が、わたしも落ち着いて切ることができます」
感情の気配を消したその声とは違い、女の指の温度が少し上がった。
「孤独が好きか」
「・・・・ええ。こんな仕事をしているのに、おかしいでしょう?」
女の指先が、震えた。
ほうっと隠れるような溜息を吐いた身体そのものの温度が上がっていた。
簡単だな。
小さな嘲笑がルッチの唇を通り過ぎた。
「髪の仕上げは、後でいい」
スツールから立って振り向くと、女は銀色の鋏を手にしたまま目を大きく見開いた。
「どうして・・・」
「文句を言いたくなったら遠慮するな。嫌がるものを無理にとは思わん」
ルッチは強張った細い肩に手を伸ばし、一気に腕の中に抱き込んだ。
「俺に触れられて肌が嫌悪で粟立っているか?」
衣類越しに感じるものはそれとは正反対の熱ばかりだが。
女は静かに首を振った。
「嫌悪なんてないです・・・・・でも、これではあまりに簡単すぎる・・・・」
「難しくして益があるか?」
「いえ、でも、まだ会ったばかりで・・・」
「なら、止めたくなったら文句を言え。強姦する気も、この地に子種を落とすヘマをやる気も俺にはない」
「でも・・・!」
さらに言葉を続けようとした唇を己の唇でふさぎ、ルッチは女の身体を抱き上げて寝室に運んだ。
「興味があるなら、十分だ」
手早く、抵抗する暇を与えず。
身体の隅々まで余すところなく愛撫を加え。
「ルッチ・・・さん・・・・」
途切れ途切れな吐息が高まりはじめた時、女は初めてルッチの名前を呼んだ。
ルッチは手の動きを遅らせ、より深く女を探った。
シンプルな形に結われていた女の髪はほどけて広がり、触れるたび、揺れるたびにサラサラと動く。
「お前は孤独が好きなわけじゃない。臆病なだけだ」
女は目を閉じた。その端から涙が落ちた。
「だって・・・怖くて・・・」
行為そのものか、或いは自分を曝け出すことが、なのか。
女の身体は決してこれが初めてではないことを告げている。かといって、習熟しているとも思えない。細く瑞々しい新鮮さ。女に恐怖を植え付けた相手は、こ の味わい以上に何を求めたのか。
ルッチは堕ちてきた女の心と身体を抱きなおし、深く奥まで身体を繋げた。そして、包み込まれる感触に思わず零れそうになった呻きを堪えた。
深かった。
外見とは反対の、吸い込まれそうなその感覚に驚きを感じずにはいられなかった。
踏み込みひとたびそこで溺れてしまったら決して戻ることのできない海の底。それを連想して一瞬動きを止めた。
溺れるか、怖がるか。
半端な男ならそのどちらかしかできないだろう。
「お前が怖がらせたのかもしれんな」
緩やかな動きを再開し、ルッチは呟いた。
驚いたように大きく開いた女の目がルッチを見上げ、艶やかな声とともに潤みを増した。
素直に昇りつめていく女の熱の中、ルッチは自分の奥底のそれよりも熱い揺らぎを感じていた。
自分のことを何も知らない素直な女。この素直さは愚直にも思えるが、ひとつ間違うと危険な匂いがする。
「
未登録」
初めて女の名を呼んだ。
女はルッチが与えた手を強く握った。
海のような女。
それからひと月毎に髪を切らせ、長く時間をかけて女を抱いた。
女は決して馴れ馴れしさを見せず、けれど、扉を開けて迎えたときには微笑を浮かべて頬を染め、髪を切りながら静かに話をするようになった。女の話は祭り や婚礼などこの小さな街の行事に関するものや、読んだ書物、聴いた音楽の話が多かった。
自分の客については僅かな噂さえくちにしない・・・・ルッチはいつの間にかそこも評価するようになっていた。この女の口から彼について漏れる恐れがない のはいいことだ。だが、逆に言えば、女の口の堅さを評価している自分がこれ以上この女に会う必要はあるか?
ただの時間の無駄だ。
そう認識しながら、ルッチは街を離れる前日まで毎月女を抱いた。抱きながら、自分の気まぐれさに苦笑した。
やがてスルリとほどけたカーテンから現れたルッチの姿を見て、カクはまた首を傾げた。
ルッチの横顔に見えた見慣れない表情。すぐに消えてしまったが、それはカクを少しだけ不安にした。
「笑顔が綺麗な人じゃったなぁ。嬉しそうに食料がいっぱい詰まった袋を持って階段を登って行ったが・・・・・食事も作ってもらってたのか?」
瞬時にルッチの中に記憶が蘇った。
「いや。そういう煩わしさはご免だ」
女が料理をすると言ったのは断った。
その代わり、倍の時間を掛けて焦らしながら女を抱いた。
あの時女が流した涙には、身体を満たされた喜びの他の意味も含まれていたのかもしれない。
「お前さんらしいが、少々勿体無い気もするのう」
言ったカクは、それでも浮かんでしまった笑みを我慢できず、自分が何に安心したのかを考えて頭を掻いた。
「料理上手な女は宝物、とも言うぞ」
「関係ないな」
「まあ、わしらには、な」
カクはそっと1歩、近づいた。
「あの人は最後に何と言ったんじゃ?」
ルッチはゆっくりと首を振った。
「何も。朝まで抱いて、そのまま街を離れた。お前と一緒にな」
カクは目を丸くした。
「街を出るとか別れとか、そういうのは一切なしか?」
ルッチは頷いた。
「絵に描いたような『ひどい男』じゃな」
「不都合もあるまい?」
「ない・・・じゃろう。仕事が終わったら用済みというのはわしらの常套手段じゃ。確かにそうなんじゃがのう」
「特に何の役にたったわけでもないがな」
ほとんど聞き取れない声で呟いたルッチは、振り向いてどこか不満気なカクを眺め、唇を歪めた。
「俺が女に溺れたらお前は怒るんだろうに。『らしくない』と言って」
ポンと投げ出すように渡された酒のグラスを受け取り、カクも笑った。
「たまにな、当たり前の人間じゃったらという感じに憧れてしまうのかもしれんのう。普通の仕事で新しい街に行って、偶然に1人の女と普通に出会って。心も 身体も欲しいだけ貰って、女には奪われて。別れが来たら盛大に喧嘩のひとつもして。そういうのはどんな感じがするもんじゃろうな」
「想像するだけ無駄だ」
ルッチは自分のグラスにも半分ほど酒を注ぎ、一息に飲み干した。
風にカーテンが揺れ、束ねていたルッチの髪がほどけた。
未登録。
反射的に浮かんだ女の名前。
その原因になった不必要な追憶。
ルッチはもう1度酒を注ぎ、今度は一口、ゆっくりと含んだ。深い味わいが静かに喉を焼いた。
深く、長く、静かに。
ルッチは窓枠によりかかり、目を閉じた。
今五感に蘇ったものを覚えている必要はない。そして、忘れる必要もない。それはただ、消えるまで彼の中にある。
カクは黙ってルッチの姿を眺めていた。
それから、グラスを上げた。