また、朝が来て。
睡眠不足の目を擦って、そっと、そっと、窓を開ける。
今朝も、聞けるかな。
ここまで、届くかな。
窓枠に片膝を預けて大きく身を乗り出した。
それが、間違いだった。
水の都、ウォーターセブン。
突然はじまった孤独しかない生活にどう慣れていいのかわからなくて、自分が眠ったかどうかわからないまま、繰り返す朝を迎えていた。
ある朝、ふと窓を開けると、室内まで忍び入ってきそうな白い靄の中、低い声が聞こえた。
「行って来い」
それから、羽ばたきのような音が聞こえた。
短くて、そこにある感情など聞き取らせない揺らぎない声。
でも、惹かれた。
ただ、突然に。
誰かを送り出す者の声。感情を読めない声でもそこには相手の帰りを待つ、という想いがある。
それに強く惹かれた。
いや、焦がれた。
それから、毎日、朝起きると窓を開けた。
朝霞の向こう、姿の見えないその人の声を拾った。
低くて短い、同じ一言。
一声かけて送り出した後、この霞の中にその人はまだ立っているのだろうか。
見えそうで、見えない。
知りたいような、でも、このまま見えない方がいいような。
でも、何かが届きそうな気がして身体を伸ばし、手を伸ばした。
もっと。
もう少し。
落ちた時、声は出なかった。
ただ乳白色の冷たさの中を吸い込まれるように落ちた。
やがて水音だけがわたしを包み、通り過ぎて行った。
夢を見ていた。
この街に来る前、まだすべてがわたしを囲んでいてくれた緑の森。
幼い頃からずいぶん大きくなるまで、よく木々の間で隠れん坊をした。
見つけると嬉しくて、見つかっても嬉しくて、それなのにいつか届かなくなることがあるんじゃないかと胸の奥に小さな小さな不安があった。
届かなくなって森を離れ、青い水の都に来た。
木々の間を過ぎる風や触れ合う枝葉の音が恋しくて眠れなかった。
この街はあまりに眩しい。
職人たちの陽気な掛け声、日焼けした肌の老若男女。
脈動を止めることなく流れ続ける透明な水は、陽光の下、果てしなく青く見える。
空の色とそっくりな青い色。
この眩しさに慣れなくて、だから、外が怖かった。
冷たくて静かな朝霞は、匂いは違うけれど肌に触れる感じが森の中のあの空気と似ていた。
その中で聞いたあの声と。
いつか、一緒に。
いつの間にか、わたし、勝手に想像していた。
あの人と一緒なら見てみたい。
昼間の陽気な青も。
黄金色に暮れていく黄昏も。
最後に別れの光を投げかけていく日没も。
きっとこの街の水はそのすべての空を映し、手を触れさせてくれるだろう。
本当に勝手に、霞の向こうに手を伸ばしていた。
だけど。
届くわけもなかった。
まだ半分遠い意識の中で、濡れた衣類がずっしりと身体にまとわりついているのがわかった。
それよりも冷たい、頬に触れている平らな感触。
少しだけ瞼を持ち上げると、2色の色が見えた。
白と黒。
規則正しい、チェス盤のような。
どうなっているのかわからなくて、怠さに負けて目を閉じた。
「声を聞かれた、というんじゃな?」
「恐らくな」
2つの声。
どこか面白がっているような最初の声と
そして・・・・朝の白い空気の中で懸命に聞いていた、あの声。
「まあ、小さな危険分子にはなるのかのう、一応」
「葬るのは馬鹿馬鹿しいくらい簡単だがな」
何の話をしているのか、頭では理解できなかった。
でも、背筋にゾクリと細い冷たさが走った。
危険、恐怖、本能が告げるもの。
それなのに、耳に入ってくる声に甘美さを感じていた。
ああ、こんな風に言葉をつないで話すんだ。
きっと皮肉な笑いの気配を漂わせながら。
持ち上がろうとしない重い瞼が憎らしかった。
今ならあの人を見ることができるのに。
声の向こうにあるものを感じることができるのに。
最初の声が楽しそうに笑った。
「苦手な水に身体半分まで浸かって引っ張りあげた拾いモノじゃ。今すぐ消す気などないんじゃろ?」
返事は、なかった。
「もし、こんな風に事が動き出さなかったら、どうするつもりじゃった?まあ、放っておいて気まぐれに楽しむのも、らしいとはおもうがのう」
「・・・・フン」
もっともっと聞いていたいのに薄く遠くなっていく声。
今手を伸ばせば、届くかもしれないのに。
たとえ。
消す、というのが、わたしのことだとしても。
消えて無くなる順番が回ってきたのだとしても。
目を開けるとすぐ、流れ動いている新しい空気を感じた。
ここは、わたしの部屋だ。
窓が、開いていた。
わたし、夢を見ていた?
どこまでが、夢?
起き上がるとすぐに、違和感があった。
下着だけの姿でベッドにいる自分。
まだ湿り気を帯びている髪の重さ。
やっぱり、
本当だった?
身体に残る重さを跳ね除けて窓辺に走り、顔を突き出した。
とうに朝を過ぎたらしい明るい空気の中、水路をまたぐ小さな橋がはっきりと見えた。
橋が、見える。
その上には誰もいない。
白くて冷たい霞がないと何もかもがはっきりして、見慣れた絵なのに少し怖くなる。
穏やかな水の揺らぎ。
手を振り合うのにちょうどよさそうな、向き合った窓たち。
綺麗だ、と思う。
生き生きしたこの街に、本当は惹かれてる。
でも、好きになったらいつかまた無くしてしまいそうで、そのことがわたしを眩しがらせる。
「
レイニア」
そのとき、
声が・・・、
聞こえた。
あの声が聞こえた。
わたし、名前、呼ばれた?
どうして、知ってるの?
振り向こうと思うのに、身体をどう動かしたらいいのかわからなくなった。
「クルッポー」
もうひとつの小さな声と、羽ばたきが聞こえた。
ゆっくりと頭を動かすと、空が見えた。
高い、高い、空。
朝霞の中で一緒に見たいと願っていた、どこまでも青い空だった。