湯気がたっている淹れたての紅茶が好きだ。
表紙を捲るとすぐに扉を開けてくれる本の中の世界が好きだ。
指の気まぐれな動きを音にして返してくれるピアノも好き。本当は毎月の調律が必要な本物のクラシックなものが欲しいけれど、予算もスペースもないので小 ぶりな電子ピアノに代わりをしてもらっている。
ゆったりと足を伸ばせるバスタブも好き。何度も読んで古くなった本は入浴の時用にして、のんびりお湯に入りながらまた何度も読み返す。
映像も好き。あまり広くない部屋を頑張って買い取ったのは、ちょっと改造をするため。天井に大きなパネルを埋め込んで、大好きな映画を楽しめるようにし た。ノンフィクションよりもフィクションが圧倒的に好み。現実は黙っていてもいつのまにか頭の中にガサガサと入り込むから。
部屋に帰るとホッとする。身体も心も思い切り伸ばして、ガリガリの痩せっぽちに過ぎないわたしも部屋の中でならどんな世界にでも行ける。紅茶を飲みなが らの大冒険。ベッドの入って目を閉じれば宇宙も飛べる。
だから、部屋はわたしの宝物。自分のそばに置いて気持ちがいいものだけに囲まれて。
だから、部屋はわたしだけのもの。わたしの中から溢れてしまったものが、きっと剥き出しで見えてしまうから。
ノロノロノロ。
わたしの現在の移動スピードに音をつけるならこんなところ。
地下鉄の中でずっと沈黙を守ったわたしたちは地上に出てもまだそれを保っていた。
不思議な人。
Zは数歩先を静かにしなやかに歩いているのだけど、不思議とわたしのスピードにあわせてくれているようだ。本当は何度も足を止めようと思った。踏ん張っ て、先に進みたくないという意思表示をするために。でもそうしないでこうして何となく歩き続けてしまうのは、やはり前を行く後姿がまとっている空気に吸い 寄せられているのかもしれない。どう抵抗すればいいのか、わからない雰囲気。こういうのって何て呼べばいいんだろう。あまりにきっぱりと他人で情報が何も ない。頭の上を鳩が飛んでいる図はおよそボディガードらしくない。そこら辺に好奇心を刺激されてることってあるだろうか。もしそうならそれもまたあまり嬉 しくない。
「Z」
思い切って声をかけると、Zは靴音とともに足を止めた。ゆっくりと振り向いたけど、何も訊かない。肩に舞い降りた鳩が変代わりに首を傾げた。
「あのね・・・どうしてボディガードなのか、やっぱりとても気になる。あなたを雇っている人は・・・どうして?」
「無理もない疑問なことは認める。だが、会話は部屋に戻ってからでもできる。・・・戻ることにかなり抵抗があるようだが、男でもいるのか?俺が見たときは どう見ても無人に思えたが」
男。
思わずブンブンと首を横に振った。あり得ない、そんなこと。
わたしの顔を眺めながら、Zは片方の眉をわずかに持ち上げた。強く否定しすぎたんだろう、やっぱり。わたしは少し説明しなければならない気分になり、で もうまい言葉が浮かばなくて冷や汗をかいた。
「あの・・・。わたしの部屋にはこれまで誰もわたし以外の人は誰も入ったことがないの。・・・ああ、大家さんというか結局ローンで部屋を買わせてくれた以 前の持ち主は別。賃貸契約を結ぶ時に立ち会ってくれたけど、それが他人が部屋に入った最後。つまり・・・部屋は自分ひとりで・・・ええと、のんびりと過ご すための場所で、わたしにはその時間がとても大切で、だから・・・ええと・・・」
尻すぼみに小さくなるわたしの声。多分あからさまに困った様子だと思う。それでもZの無表情は変わらない。
「それだけ大事なその部屋へ、さっさと戻るぞ」
踵を返したZはさっきよりも遥かにテンポよく靴音を響かせ始めた。いや、さっきまでは歩いている時には何も音をたてていなかった。この音は意思表示だろ うか。慌てて追いついた。
「だから、あの、Z・・・!」
「とっとと歩け」
倍速近くで進んだわたしたちは、あっという間に目的の場所に着いてしまった。
Zはまるでそこが自分の住まいのように迷いのないタッチで入り口のパスワードを入力し、開いたガラスの扉の間をすり抜けた。エレベーターのドアが開くと 素早く中を確認してからぐずるわたしを目線で促す。重力に逆らって上昇する短い時間では何も考えられず、あっという間に部屋の前だった。
躊躇うわたしの肩から簡単にバッグを取り上げ、中から取り出したカードキーでZはドアを開けた。
やめて。
目を瞑りたくなった。
「中に入ったらチェーンをかけて少しだけドアを開けろ。1センチもあれば会話はできるだろう」
え?
Zはわたしの肩を掴むようにして中に押し込むと、自分は外に出たままドアを閉めた。
驚いた。てっきりあの無表情のまま先に部屋に入ると思っていた。
急いでチェーンをかけると、そっとドアを開けた。言われたとおり、1センチ。
「中で待ち伏せている人間がいたら、とっくに撃たれてる。今回は運が良かったな」
隙間からZの姿は見えなかった。ただ、声だけが聞こえた。反射的に後ろを確認した。
「本当にそんなに危険なの?」
少し、声が震えてしまった。
「まだわからん。空振りならそれに越したことはない」
通路の壁を小さく擦った音から、Zがドアの横に座ったんだとわかった。たぶん、壁に背中を預けている。
無理に部屋に入ろうとはしないんだ。
安心したら、自分も座りたくなった。
「まだ明かりはつけるな」
「わかった」
廊下に座って壁に寄りかかり、靴を脱いで足を投げ出した。
「Z」
「何だ」
「あなたの雇い主は誰?」
「本題に入る前に靴は履いておけ。いつ状況が変わらないとも限らん」
感情を含まない、なのに従わなければならないと思わされる声だ。
素直に靴を履くと、言葉の続きを待った。
不思議な夜だ。今更に実感した。
背中の後ろの壁がぬくもりだしたのがわかった。
外も同じだろうか。Zの背中の後ろの壁を想像した。