返事を待っていたその時間は、多分ほんの1分程度。だけどここが自分の部屋の中だという安心感が気持ちの中で広がって、靴を履いた足の緊張を解いた。
真夜中の今の状態はかなり不思議。だんだんドアの外にいるはずの人の方が現実の色を失っていくような。
弛緩し始めた心身を元のテンションに戻したのは、聞こえてきたZの声の、その静かな口調に感じた冷静さだったかもしれない。
「ジェファーソン、という名前を持った人間を誰か知っているか」
ジェファーソン。
数字やアルファベットの機械的な羅列とは違う、ちゃんとした『名前』。
驚いた。
わたしが知っている『名前』は両親と祖父母のものくらいだし、全員もうこの世にはいない。この4人のことも名前で呼んだことはないんじゃないだろうか。 お母さん、お父さん、お祖母ちゃん、お祖父ちゃん・・・愛情を込めて呼ぶことができる呼称がちゃんと4人にはあったのだから。
自分の名前だって、自分では呼ばない。
結局、わたしは今まで誰の名前もちゃんと本人に対して使ったことがないということだ。
『名前』はとても大切なのだ、という。その人の歴史は本質まで一瞬でわかってしまうのだと。だから普段は使わない。最近は結婚しても『番号』だけで通す 夫婦もいるのだと聞いた。その2人の間に生まれてくる子どもってどうなるのだろう。ちょっと考えてしまう話題ではあった。
「それがあなたの雇主の名前?」
「正確には一族の姓だ。ロイド・ジェファーソンというのが今の状態の原因になっている男だが、こいつは20時間以上前から意識不明だ。今はおそらく透明 ファイバーグラスのケースの中で考えられるだけの延命処置を受けているはずだ」
意識不明。延命処置。
またドアの外に見知らぬ圧倒的な気配が漂いはじめた気がした。
リストラ。ボディガード。
聞きなれない、わたしの日常には縁がないと思っていた言葉たち。
整理するために頭を軽く振った。
「その人はどうして・・・。もしかしたら誰かが・・・?」
一瞬だったが低い声が短く笑ったような気がした。勘違いかもしれない。次に聞こえた声には感情の気配はやっぱりなかったから。
「そいつは単なる老衰だ。連中にとっては特に驚くべき事態でもなかっただろう。いずれこうなる、とわかっていたから、予め俺に声が掛かっていたということ だろうからな」
連中というのはその一族のことだろうか。まだひとつもピンとはこない。
「そのロイドという人が雇主?」
「違う。誰が俺を雇ったかは今のお前に与えられる情報ではない。いずれわかることになるのかどうかも成り行きしだいだろう。お前に話せるのは俺がここにい る目的がお前を今あるままの状態に保つことだということと、その期限がロイドが他界した後に起こるはずの遺産の処理が終了するまでだということだ」
「・・・ええと」
他界。遺産。
まるで他人事の言葉がまた増えていく。
「つまり、最短だとロイドが死んでその遺言の内容が確認されてお前には一切関係がないと分かるまで、ということになる。可能性はある。お前はジェファーソ ンという姓は聞いたこともないらしいし、一族との繋がりも遡るのが難しいほどの薄いものだと聞いている。今夜この街に着いた時、俺は2日間だけとりあえず お前の身辺を守るはずだった。その間に何もなければ本契約は不成立。戻って調査料だけ受け取る予定だったが」
「・・・予定だったけどフラフラ歩いていたわたしが車に轢かれそうになって・・・」
「契約成立。そういうことだ」
故意か偶然か。離れていく車を追っていたZの鋭い視線を思い出す。
「あのね、まだまるで現実じゃなくて・・・うん、物語の世界のことなんじゃないかって感じなんだけど・・・わたしに教えられるのは今までのことだけ?」
「何が聞きたい」
「うん・・・そのロイドという人はどんな人?」
「うんざりするほど長い肩書きを知りたいか」
「ああ、そうじゃなくて何と言うか人間的に・・・。あなたは会ったこと、ある?」
「意識不明の人間の性格や癖、考え方を知りたいとでも?」
「ああ、それ。それが気になるの」
また多分1分ほど続いた沈黙の意味はわからなかった。わたしの聞きたいことがZの予想とはきっと違っていたということなんだろうとは思ったけど。
「・・・それよりも現在推定されている遺産の総額とか遺言に関わりがあるかもしれないと予想されている人間の数、でも聞くのが一般的だと思うが」
「それはきっとわたしには意味がないはずのことなのでしょう?だから、今はほとんど縁がないはずの人間の前にまであなたのような人が現れる、その原因に なったその人のことを知りたい。金額より何より原因はその人自身だということでしょう?」
「・・・まあ、そういうことだが」
「じゃあ・・・どんな人?」
「一言で言うなら、変人、だ」
「・・・やっぱり」
「お前の想像通り、これまでまったく無縁の小娘1人を馬鹿らしいほど大げさな状況にしてしまうほどの、傍迷惑な変人ぶりだった。俺は結構前から顔を合わせ ていたが、あれほど面倒くさい人間を他には知らない」
Zは相変わらずドアの向こうの廊下にいる。そうさせているのは勿論、わたしだ。だから仕方がないことなのだけど、今、この言葉を口にしたZの表情だけは 自分の目で確かめたかったと思った。ほんの少しだったけど、彼の声には何かの感情が含まれている気がしたから。それはあっという間に消えてしまったから、 何だったのかはまったくわからなかったけど。
ねえ、Z、どうしてかな。
冷たく聞こえるあなたの声で、わたし、この続きをもっと話して欲しいと思ってる。まるでベッドの中でもっともっととお話を読んで欲しがる子どもみたい に。わたしは幼い頃、恥ずかしくてその『もっと』をねだることができない子どもだった。それを思い出すといつも後悔が強すぎて苦しくなる。
そして、今。わたし、また後悔することになるのかな。
でも、頑張って続きをねだるなら。
あなたの存在と言動を信じることを決めるなら。
わたしの中には葛藤があった。単純でとても強い葛藤が。
わたしの部屋はわたしだけの世界。ここにいればすべて忘れてしまえるお城。大事な、大事な。
わたしは黙っていた。Zも同じ。
静けさを破ったのはコツコツという軽い足音だった。
「くるっぽー?」
ああ、あなたもいたんだったね。
ほんの1センチの隙間から見えた小さな白い姿とまん丸の目。
こんな時、だったけど。
わたしは思わず小さく笑ってしまった。それほど鳩は可愛らしかった。