月 映

雲間に浮かぶつきのイラスト 湖はその小国の辺境にあった。
 男は「任務」という名で与えられこなしてきた多くの仕事の数だけ町々を、そして国々に密かな足跡を残してきたが、この小さな国を訪れたのは初めてだった。そして、今彼は「任務」を抱えていない。任務とは無関係の旅。この状況こそ初めてであり今後はあるかどうかわからないものだと気づいた男の唇に冷ややかな笑みが浮かんで消えた。
 風のない夜。鏡のように忠実に空を映す水面に薄い光が揺れた。先刻まで隠れていた月が姿を現す気になったらしい。
 そっと息を吐く気配に見下ろすと、傍らで膝を折って水面を眺めていた娘が頭をゆっくりと上下に動かして月とその写し身の間に静かな視線を走らせていた。その頭の動きと一緒に真っ直ぐな銀髪が揺れ、背中のラインを描き出す。
 男は自然と目を細めた自分に向け今一度冷笑し、水面に浮かぶ月を見た。彼の目は冷静かつ客観的に傍らの存在を認識しているはずなのだが、娘の背の僅かに柔らかさを帯びた優雅な線に替わって、どことなくぎこちなく硬くて未だ成長期にあった細い線が見えた気がしていた。身長もまだ今より低く、髪は肩の辺りまでしかなかった頃の。
 変わらないものもあった。水面を見つめる娘の視線の真剣さと深さ。濃い紫に煙る瞳はやはり時間を掛けて磨きあげられた宝石を連想させる。
 馬鹿げているのだろう、多分。
 男は当の本人にしかわからない程度に首を傾げ、娘の全身を視界に入れた。
 娘は顔を上げ、控え目な微笑を浮かべた。

「あの街で・・・一緒に月を見たこと、思い出してた」

 あの街。男にはそれがどこかわかった。今なお水の都と呼ばれ栄えているウォーターセブン。朝から肌を焼き焦がす陽光が溢れ、時に街に牙をむき徐々に街を飲み込もうとしている海に囲まれて共存している街。あの街で男は今も理由がわからない衝動に動かされてまだ少女だったこの娘を深く抱いて身体を開いた。同じような衝動のまま少女を抱いて花見の月が見える岬へと宙を走ったこともある。当時は自分の行動はたとえ些細であっても理由に裏打ちされていた気がしていたが、今思えばそれは錯覚にちがいなかった。理由のない衝動。それが少女との時間に満ちていて、それに気がついた時には「衝動」は「日常」に変わっていた。
 あの街の陽気さに自覚のないままあてられていたのか。
 そう言えば、住人たちも能天気な人間が多かった。
 男が溜息をつくと、その心の中を感じたように娘の微笑に羞恥がまざった。
 任務のない男との遠出というこの初めての状況に、娘もまた戸惑っている。男がそれに気がついたとき、娘はまた水面の月を見た。

「この月は・・・あの時の月と何だかとても違う・・・」

 囁きながら立ち上がった娘は一歩、男との間の距離を縮めた。



 リリアは静かに一歩だけ歩み寄りながらウォーターセブンで見た花見の月を思い出していた。あの日、今よりもずっと、もっと何もわかってはいなかった。年齢的にも子どもだったし、やはり今よりもずっと物事を恐れていた気がした。ルッチの傍らにいることを許されていることに幸福を感じながらその終わりがくることが怖かった。そのくらいルッチのことを想ってしまうのは今も同じだ。
 でも、怖がることは少しだけ減ったかもしれない。
 あの島に麦わら海賊団がやってきた時、リリアはルッチと離れ離れになり死にかけた。それから今も思い出したいとは思わない時期を過ごした。想いを失いかけながら自分が何を失っているのかわからなかった時間は葛藤ばかりが続き、その時に感じた怖さは思い出しても恐ろしい。でも、そこへハットリが、ルッチがやってきて失いかけていたすべてを再び与えられた。それから過ぎてきた時間の中で、リリアは確信できるようになっていた。もしもいつかまた離れなければならない事態になったら、きっとルッチはそのまま自分を放り出しては行かない。最悪を避けられないと判断したなら先にリリアの命をその手の中に閉じ込めてくれるだろう。なぜそう信じられるのかはわからなかったが、それはリリアの心を深く満たしてくれる。だからひとつ、恐怖が減った。
 近づくリリアの空気を感じながらルッチは無言のまま立っていた。リリアの腕が彼のものに軽く触れた時、その体温を感じながら空の月を仰いだ。

「月はさして変わりもしない。お前が少しばかり成長したということだ」

リリアは自分の目線の位置を確かめるように水平な視線をルッチに向け、微笑んだ。

「あの頃より背、伸びたよね、確かに。だから月が違って見える、というのはないかもしれないけれど」

 月を見上げるルッチの視線は動かない。

「違うだろうな」

「本をたくさん読んできたし、護身術もカリファが褒めてくれるくらいにはなってる・・・というのも関係なさそう」

「違うだろうな」

「じゃあ・・・どんな風にわたし、変わった・・・?」

 リリアは自分の身体を見下ろした。その視線が自分から外れたことを確認し、ルッチはリリアに黙って目を向けた。

「・・・女として、悪くない」

 リリアは不思議そうに首を傾げた。そうすると一層少女の頃の姿と重なって見えた。

「・・・あまり普通の女らしさとは縁がない気がするけど・・・身体に傷跡、増えてるし」

 ルッチは短い溜息を吐いた。丸ごとの無自覚・・・確かにこれは少女の頃からの特性であり、もしかしたらだからこそ、彼がそばに置いておくことを己に許したのかもしれない。

「俺用の女として、ということだ。だからここにいるんだろう」

 大きく目を見開いたリリアの顔を直視する気になれなず、ルッチは水面の月を見た。リリアも同じように視線を落としたのを感じた。馬鹿げたことを口走ったと思いながら軽く唇を噛んだ。
 馬鹿げている。本当に、何もかも。
 それでも、月明かりに浮かぶ深く頬を染めたリリアの横顔の美しさを認めていた。ただ素直に、感じるままに。

「今日のルッチも違うね」

 暫く続いた沈黙をようやく破ったリリアの声は幽かに震えていた。

「・・・成長した、とでも言うか?」

 リリアは一瞬ルッチを見つめ、すぐに俯いた。

「うまく、言えないけど・・・」

 リリアはその細い肩をルッチの背にあてた。それから躊躇いながら両腕でルッチの片腕を抱いた。

「変わった答えだが・・・それだけか?」

 リリアが見せている無言の甘えはその体温とともにゆっくりとルッチの中の深いどこかを満たしていく。そこはかつて虚無と正義の陰の部分に占領されたと信じていた場所かもしれない。
 ルッチは細い2本の腕から自分のものを抜き取り、代わりにやわらかで華奢な姿を引き寄せ背を向けさせたまま胸の前で抱いた。最初震えていたリリアの身体はやがてルッチの体温で温もったように彼に同化した。

「・・・ルッチ」

 リリアは自分を抱いているルッチの腕をそっと抱き返した。ルッチの唇がリリアの髪に触れた。

「悪くない」

 髪の香りも、体温も、浮かべているはずの表情も、腕の中にある全てが。
 2人はそのまま互いを抱き、水面で揺れる月を眺めた。それは確かにあの日の月とは違って見えた。
 変わったのは自分か。
 ルッチの唇に浮かんだ自嘲の笑みはやがて抑えきれない満足感を表す静かなものに変わった。その時に彼の中に生まれた衝動のまま、唇が短い言葉を吐いた。

「愛おしい」

 びくりと震えたリリアが向き直ることが出来ないように、ルッチはさらに力を込めて抱いた。聞き流せ、と言いかけてそれではかえって印象を強めてしまうと思い、やめた。
 まったく。自分の中にあんな言葉が埋もれているとは知らなかった。
 この愚かさ加減では月も変わって見えるわけだ。
 リリアはじっと静かに立ったままルッチの胸に頬を押し当てた。その反対側の頬を一筋の涙が落ちた。

「バカヤロウ」

 思わず口をついて出た口癖のそれはあまり状況にあったものとはいえなかったかもしれない。しかしそれを聞いたリリアの唇は曲線を描き、さらに甘えるようにルッチの胸にあてた頬を小さく動かした。
 ルッチはそれ以上何も言わないことを決め、片手をリリアの頭に置き、ゆっくりと撫ぜた。
 悪くない。何もかも。
 見下ろすと水面は再び静寂を取り戻していた。月の下、宝石に似た瞳が彼を見つめていた。
 心の奥から浮かんできた言葉の代わりに、ただ見返した。
 月明かりの中、互いに向け合う揺るぎない眼差し。
 それはやがて流れてきた雲が月を完全に隠してしまうまで消えなかった。

2009.6.29

JUJUさんからいただいたリクエストは「水面に映る月を二人で見る」というもので、
加えて書いてくださったシチュエーションが、もう、もう、ツボにくるものだったのです。
早く書きたい!を我慢なんて無理(笑)、で、突っ走らせていただきました。
ええと、補足的に。時期はいつも書いてるシリーズの数年後、くらいとお考えください。
JUJUさん、リクエストありがとうございました!
遅くなってごめんなさい!
ご笑味いただけると嬉しいです

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