それから1週間。女のことを思い出すでもなく、ルッチは船大工としての仕事をこなしていた。木挽きという仕事は、案外深い。ただ人よりも早く強く器用に鋸を動かせれば一人前というわけでもない。目の前にある丸太の性質を読み取って最適なやり方で木材を切り出さなければならない。『それがどんな木でもどこかにひとつはいいところを見つけられる目を持っている職人』だと、木挽きのことをアイスバーグは言う。それを聞くたびに、らしい言い方だと心の中で冷笑する。それでも、そんな言い方をする人間が上司なのだから、決して気を抜くことはできない。ルッチたちのような諜報組織に属する人間の中には、時々本業を忘れて偽装した身分の方に鞍替えする者もいる。まったく理解できないししたいとも思わないが、それはまだ自分の任務の数と質が足りないからなのだろうか。ルッチは切り出したばかりの板に指先を走らせ、滑らかな切り口を確かめた。
「一休み、にはいい頃合じゃろう?」
「そうだな」
口調とは裏腹にまだ10代であるこのオレンジ色の髪の青年は、1番ドックのれっきとした職長であり、つまりルッチの同僚である・・・とここまでが2人の表の顔だ。実際はルッチは現在のCP9の中で一番カクとのつきあいが長い。少年時代の施設で出会い、それから最終仕上げの施設で再会、ルッチの方が先に仕上げを終えて闇の組織の一員となったが、すぐにカクも追ってきた。そんなカクが相手だからこそ、ルッチも低くではあるが自分の本当の声を出したのだ。
2人は中庭に出て、同時に空を見上げた。
「真っ青じゃのぅ。いかにも夏じゃ。水の都の夏。面白い夏になるといいのぅ」
いかにも無邪気な笑顔を浮かべてこんなことを言う時のカクの中には、闇と光が複雑に混ざっていることが多い。これは多分、つきあいの長いルッチにだけわかること。そして、カクもそれを知っているから、さらに無邪気に笑って見せる。
「面白い、か・・・」
ルッチが呟いた時、ハットリがその肩に舞い降りた。それから片方の羽を振ってガレーラカンパニーの敷地の外を示す。
「うん?あれは誰じゃ?ハットリの反応から見るに、知り合いか?・・・ええと、女じゃな?」
『一応な』
早足で歩いてくるシンのほっそりした姿は、確かに一見人を迷わせるほど中性的だ。小柄な少年にも見える。
カクは笑った。
「一応、はひどいな。なるほど、あれがカリファが言っとったガチガチ女じゃな」
そうか、カリファか。
ルッチはまだカリファとシンに関する情報交換をしていないことに気がついた。ついこの間まで女との連絡はカリファを介して行われていたはずだ。それを確かに知ってはいたのだが。情報交換は基本その1でもあるが。
なぜ、だろう。
ルッチが僅かに首を傾げたその時、シンが2人の目の前を素通りした。高い柵も金網も、境界を仕切るものはなにもないその場所で、女は見事なまでにクールに2人の存在を無視した。
「この街でちっとは知られた顔になってきたかと思っとたが、まだまだ自惚れじゃったかのぅ」
いいながらクルリと丸い目を回して見せたのは、カクが面白がっている証拠だ。
『あれで、俺より年上だぞ』
ルッチはカクの驚きに大きくなった目に満足し、背を向けた。
「ルッチ」
社長室の前にカリファが立っていた。
『女が来るぞ。外で見かけた。どうやら先回りはできたようだが・・・』
そこまで言った時、階段の方向から騒がしい音と空気が流れてきた。
「社長はお約束がない方には、そうそうすぐにはお会いになれません。おまけに、きちんと名乗りもしない方には・・・たとえ女性であってもです」
もって回った言い方は、最近己を売り込み中の秘書見習いの青年だ。本人はカリファに対抗して有能さを発揮しているつもりのようだが、ルッチから見ればまるで笑える。アイスバーグも仕事を見つけてやるのにさぞかし苦労していることだろう。一見肉体労働メインに見える大工たちより自分の方が上だという悲しい誤解を抱えた若造・・・年齢はルッチとそう変わらないかもしれないが。
廊下の角を曲がって先に姿を現したのはシン だった。その後ろから懸命に引きとめようとする若造が絡みついてくる。女の表情に若造に対する怒りや苛立ちが少しも見えないことに、ルッチは口角を上げた。本当に無表情な女だ。そして、今のところ、ハットリの1点リードと言えるかもしれない。少なくとも女は2回、ハットリに微かに感情を感じさせる表情を見せたのだから。
軽い靴音と共に歩いてきたシンの後ろ、若造はルッチとカリファに意識した視線を向け足を止めて1歩引いた。
ふぅ。
シンの唇から細く息が漏れた。そしてそれは発声のための準備だったのかもしれない。ルッチ、カリファ、そして社長室のドア。順番に視線を向けたシンはカリファに大きな瞳を向けた。
「アイスバーグに会うには、本当にそんなに手間隙かけなきゃいけないの?今は」
カリファは鮮やかな笑みを向けた。
「お忙しい方ですから、急にいらっしゃってもお留守、ということが多くなってしまうんです」
シンは首を小さく横に振った。
「留守なら、いくらなんでもその人もそう言うでしょう。仕事の邪魔になるというのなら今すぐ出て行くけど、そうじゃないなら、会いたいの」
ニコリともしないシンに、カリファは更に大げさな笑みを見せた。
「あなたなら、大丈夫かと。少々お待ち下さい」
ほぅ。
ノックしてからドアを開けて中に姿を消したカリファを見送った女の顔には、何かがあった。感情の片鱗らしいそれの正体は何か。ふぅっとまたひとつシンが息を吐いたとき、ルッチはそれが怒りだろうと見当をつけた。これはアイスバーグに対する怒りか?この女は街一番の名士に怒りをぶつけようとしているのか。
面白い。
なかなかその内面を探らせようとはしないアイスバーグにとって、この女はちっぽけではあっても爆弾効果はあるのだろうか。
「お会いになります。どうぞ」
やがてカリファが笑顔で戻ってきた。シンはそのカリファが避ける間もなくまっすぐに室内に入って行った。
開け放たれたドアを都合よく解釈し、ルッチは足音もなくその後ろに続いた。
カリファは微笑を浮かべたまま、若造の眼前でドアを閉めた。