四季 4

 シンの後姿は真っ直ぐにアイスバーグが座る製図台に向かう。見えない顔にはどんな表情があるのかは、アイスバーグの驚いた顔から想像するしかないが、女の性質上、それは難しい。
 ルッチはドアから3歩入ったところで一旦足を止め、それから一番近い壁を背にして立った。ごく自然に傍らに立ったカリファの気配は黙殺した。
 シンは机を挟んでアイスバーグの前に立っている。アイスバーグはその姿を見上げ、何かを読み取ろうとするようにじっと白い顔を見た。

「もしかして・・・何かお前を怒らせたか?シン

 細い姿は、コクリと一つ頷いた。立ち上がろうとしたアイスバーグは、見上げている女の顔の何かに圧倒され、椅子から浮かしかけた体をまた下ろした。

シン?」

 女はどんな表情を浮かべているのだろう。ルッチの視線が自然と見守ることになってしまった沈黙の中、シンは息を吐き、肩を小さく動かした。
 怒っている時でも己の感情に支配されるのは嫌いか。
 ルッチは壁に背をあずけた。アイスバーグの困惑した顔が面白い。シンという女はなかなかこの男に対する影響力を持った存在らしい。

「病院に行ったら、あいつの治療費はもう全部あなたが支払い済みだと言われた」

 シンの声は決して大きくなく、むしろ静かだった。その言葉を聞いたアイスバーグの表情の困惑が深まる。

「病院に行ったのか?ンマー、まさかあいつと鉢合わせしなかっただろうな。そんな不愉快な目にお前があわねェように、話はつけたつもりなんだが。今はあいつも自分に非があることは認めてるはずだしな」

 それを聞いたシンは、一瞬振り向き、素早い一瞥をルッチに向けて投げた。疑問と疑いの気配。ルッチはただそれを撥ね返した。

「ああ、いや、ルッチじゃねェ。あの夜に何があったか、ルッチからは聞いちゃいない。あれから話をきいていくと、あいつの話も顔色も相当冴えない感じでな、最後にこの1件は表沙汰にするつもりはないし治療費は俺が払うって言ったら、ペコペコ頭を下げてやがった。どう見てもおかしいのはあの男だよなぁ」

「・・・あいつを撃ったのはわたし。それが事実。なのにどうして、治療費を払うのがわたしじゃない?」

 やはり。そんな表情になり、アイスバーグは軽く治療手を上げた。

「そこんところ、お前が気にするとは思ったがなぁ、でも、顔を合わせたくねェだろう?あの筋肉バカ。そんな価値、ねェよな。治療はちゃんと終わったみてェだからな、金額を教えるからお前は俺に払ってくれればいい。それで仕舞いだ。カリファ・・」

 シンはカリファに向いたアイスバーグの視線を遮るために1歩動き、それを自分に向けさせた。アイスバーグは素直にシンを見上げ、頭を掻いた。

「ンマー、わかってる。金の問題じゃねェんだよな。当然、お前は自分でちゃんと始末をつけるつもりだった。そこにこっそり割り込んだのは俺で、確かにお節介もいいところかもしれねェ。お前、本当にあの義理堅い親父さんの娘だなァ。嬉しくなっちまう。だからな、シン、俺たちは親父さんには世話になりっぱなしだったし、もっともっと小さかった頃からお前をずっと見てきたんだ。今度のお節介も兄貴の軽はずみと思って許しちゃくれねェか。今度だけ、にするから」

 兄貴。アイスバーグの口から零れた思いがけない言葉を、ルッチは口の中で小さく転がした。家族・身寄りといった存在はいっさい浮かんでこなかったこの男には、密かに心の家族がいたというわけだ・・・少なくとも1人は。これは覚えていて損がないだろう。
 シンの背中に困惑が見えた。形勢逆転といった感じかもしれない。立ち上がったアイスバーグはそっとシンの背中を押して進み、ソファに座らせた。

「カリファ、紅茶を頼む。とびきり丁寧に淹れてくれ。シンは味がわかる人間だから、その甲斐もあるぞ。ルッチはこっちに座れ。もう少しつきあってくれ」

 ルッチは言われるままアイスバーグの隣に腰を下ろし、女の顔を正面から見た。まだ戸惑いが消えきっていないその顔には「幼い」という形容詞が似合うようにも見え、ほんの僅か、口角を上げた。外見と年齢と性別が、本当にちぐはぐな女だ。初めて見た感情らしい感情は怒りだったわけだが、あの瞬間には確かに、空気は研ぎ澄まされて一点に凝縮していた。もしもあっちがこの女の本質であるなら、まだまだ掘り出せるものがありそうだが。

「なァ、シン。来週、うちで合同商談会を兼ねた集まりがある。面倒くせェが、パーティって形になる予定だ。お前、今度こそちゃんと出て来い。100歩譲って、お前じゃなくてあの秘書でも誰でもいい。誰か1人、出して寄越せ。本当はお前に来てほしいが・・・何なら、ウォーターセブン1番の仕立て屋にドレスを1つ、仕立ててもらうか?」

 またいつもの無表情に戻っていたシンの顔の中、両眼に光が揺らめいて消えた。怒り。だが、今度見えたそれは背中に見せたものとはどこか違っていた。
 シンは小さく溜息をついた。

「仕事を取るためには社交辞令も必要だ・・・言いたいのはこれでしょう?確かに顔を合わせてお互いを確認しながら話をするメリットは大きいのかもしれないけど、そうじゃない場合もある。残念ながらわたしは女。女とは取引をしたがらない人間もまだまだ多い世界だ。手紙でやり取りしている取引相手の中には、わたしが男だと思っている人間も結構いるかもしれない。いちいち女ですとは断らないから。おかげでシンプルでクールなやり取りができる。電伝虫でもそう。わたしを『若い男』だと思って、大変だろうとか声をかけてくる人もいる。結果、商売は大繁盛とはいかなくても、そこそこ生活していけるくらいになってる。職人たちからも不満は聞こえない。なら、似合わないドレスを着て滑稽は姿を晒して自分をみじめに思う必要は、しばらくない。それに・・・そもそも、あなたにドレスを作ってもらう理由がない。あなたは・・・わたしの兄ではないから。お互い家族と呼べる者がいないどうし・・・共通点はそれだけ」

 口を閉じたシンの表情は今回ばかりは読みやすかった。『喋りすぎた』という後悔と自嘲の色がそこにはあった。
 アイスバーグも溜息をついた。

「ドレスが似合わないなんてこと、絶対にねェんだがなァ。・・・いや、怒るな。今日はもう言わねェ」

「今日は、じゃなくこれからずっとにしてもらえるとありがたい」

 言ってシンは立ち上がった。

「紅茶、飲んでいかねェか?お前のと同じくらい美味いぞ、カリファのは」

「・・・いつの話だ、それは」

 呟きを挨拶代わりに、シンは部屋を出た。
 アイスバーグは腕を組み、また溜息をついた。

「送ってやってくれ、ルッチ。ああは言ったが、あの筋肉バカ、果てしないバカな可能性も大きいからな。シンには指1本触れさせたくねェんだ。それに、もう銃なんか撃たせたくねェ」

 大事な妹として、か。
 ルッチは無言で部屋を出た。相変わらずシンはわき目も振らずに早足で進んでいく。社長命令を守るには、間をおいてただ間抜けについて行くしかない。
 ルッチはシンがブルに乗るまで見送るつもりだったが、今日は女は水路には向かわず、そのまま細い小路をぬって歩いた。その道の選び方は、確かに地元の人間のものだ。一見突き当たるようにみえる場所もその直前で曲がり、次の小路へ出て行く。迷いはない。これなら見送りの必要は皆無ではないか。そう思いかけたルッチが足を止めた時、不思議とシンの足音も止まった。
 何だ。
 小路を曲がった奥、見えないが複数の気配があった。と、ルッチの肩から舞い上がったハットリが空中を滑り姿を消した。
 シンの声は聞こえなかった。ただ。

「何でもいいから痛めつけろってなァ、相手がこんなガキじゃあ、気が抜けちまうってモンだ」
「ああ、でも、一応女らしいぞ、こいつ」
「女ァ?へへ、見事に化けやがる。ひん剥けば、正体丸出しってか?」

 どう聞いてもゴロツキとしか思えないわかりやすい声と台詞が3人分響いてくる。そしてその中に、やはりシンの声はない。

「ポッポー!」

 代わりに聞こえたハットリの声が、事態を正確に伝えた。
 5歩進んで角を曲がったルッチは、その視界に今まさにポケットから銃を抜いたシンの後姿を捉えていた。
 この女に銃を撃たせたくない、と言っていた新米市長はその願いが叶わなかったらどう思うのだろう。勝手にこの女の『兄貴』を名乗ったあの男は。まあ、今はそんな実験をするよりも素直に男に従っておいたほうがいいだろうが。
 男たちはシンの手の中の小さな銃を笑った。銃の大きさを笑ったというよりも、シンがその銃を撃てないと判断してのことだろう。
 愚かな。
 ルッチは女の背中を読んだ。
 この女はこんなに真剣に恐怖しているというのに。さらに、自分の身を守るためには、真剣に引き金を引くだろうに。あのちっぽけな銃を恐れた筋肉バカの方が、このゴロツキどもよりも少しはましだったということか。どちらにしても、中途半端だ。悪と呼ぶのも馬鹿らしい。

『こんな時にも助けを呼ばないのか?お前は』

 シンにも男たちにも、何が起こったか、正確にはわからなかっただろう。
 ルッチは銃を持つ女の手を右手で包み込み、左手1本の突きで男たちを横の壁に叩きつけた。

「・・・呼ぶ暇があったら自分で・・・」

 言った女の声は語尾が微かに震え、銃を握る手はひどく冷たかった。
 俺がついて来ていることはわかっていただろう・・・ルッチはその言葉を飲み込んだ。
 シンの体が小刻みに震え始めていた。それでも安堵の息をそっと吐いた女は、冷えたままの手をルッチの手から抜いた。

2010.5.9

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