四季 5

 さっきまで自分の手の中にあった手は・・・女のものというにはなんとなく違和感がある。
 ルッチは右手に残る感触を心の中で辿っていた。大きさ、はまあいい。その大きさというか小ささと合わない気がしたのは、その硬さ、だろうか。ルッチの記憶の中に残っている女の手といえばカリファのものくらいだが、六式全てを得とくしている女ではあっても日頃の諜報活動のために、そして恐らく本人自身は無意識な本能から、カリファはその両手のケアを欠かさない。滑らかに、しなやかに。やわらかさを保っている。しかし、今ルッチの手が僅かに記憶している感触は、その硬さは男のものといった方が自然かもしれない。もっとも、男の手を握ったことなど数えるほどしかありはしないが。
  シンは全身をこわばらせたまま、立っていた。その力みが身体の震えを抑えようとしているためだということはすぐにわかる。そういう無理をすればするほど身体は逆らうということを、どうやらまだ知らないようだ。
 ルッチは黙って見下ろしていた視線をゆっくりと外した。

『銃を仕舞え。もう必要ない』

 壁の前で一塊になって呻いている男たちには、もうさっきまでの勢いは微塵も残っていない。

「わかってる・・・」

 呟いた シンは伏せていた顔を上げ、男たちを視界に入れた。その時、細い身体は1度だけ大きく震えた。
 こんな連中でもこのわかりにくい女の中の恐怖を揺り動かすことができるのか。こんなちっぽけな悪が。ルッチには馬鹿らしく感じられるその事実も、任務のためには無視するわけにもいかない。やはりもうひと言くらいは慰めめいた言葉をかけておくべきだろう。ルッチが言葉を選んでいると、 シンは頭を大きく一振りし、ルッチの顔を見上げた。大きな瞳に浮かんでいるのは、挑戦めいた光。あるいは、今は何も言うなという嘆願なのかもしれない。

「帰る。少しだけ・・・この先まで・・・一緒に歩いてもらっていいか?」

 一瞬真っ直ぐに自分に向いた視線とすぐに俯いた頭の角度・・・そのどちらに対して頷いたのかわからないまま、ルッチは静かに首を縦に振った。

「・・・ありがとう」

 聞こえたと思ったのは錯覚かもしれない。
 決して声が聞こえたわけではなく、見えないはずの唇の動きを感じただけだったのだから。



 これまで後ろから見守るだけだった女が、今は隣を歩いている。少しはしょぼくれたかと思うとそうでもない。まるでもう決して何者にも負けまいと念じ続けているように、細い全身から気を吐いている。馬鹿らしいほど痛々しい。それでもこれまでと違ってルッチの前に立って歩こうとはしないその姿が、目に見えないところに受けたダメージを想像させる。肩の上のハットリがもぞもぞと両足を動かしているのは、合図さえ与えればすぐに女のところに飛ぼうと考えているからだ。つまり、やはりこの女は、傷ついている。
 だから?
 だとしたら何だ。これをひとつの機会ととらえる必要はあるか?微小な甘さで味をつけたかりそめの慰めの言葉をその傷口に塗ってやる振りをしながら、そのちっぽけな心の滑り込む。それは案外容易なことかもしれない。でも、それだけの価値はあるか。そもそも・・・そうする気なら機会はこれが初めてでもない。少々強引にことを進めようと思っていれば、とっくに結果は出せていたはずだ。
  シンは頭を真っ直ぐに上げ、視線を真っ直ぐ前に向けて歩いていた。
 多分、それしかできないのだろう。
 そしてルッチはただその隣にいた。今、無理に言葉をひねり出す必要はないと思った。女はそれを必要とはしていないし、しかも、もしかしたら与えられた言葉を跳ね返せるだけの力を産み出すだけの気力は残っていないかもしれない。張り詰めた姿勢の愚かさが、そう想像させた。
 時折重なる靴音だけが響いた。
 訪れたばかりなのにもう季節をのっとっている初夏の朝、空は開放的に青く高い。
 水路を行き交うブル同士が掛け合う陽気な声。
 子どもたちのはしゃぎ声とそれを叱る母親たちの笑い声。
 海列車の汽笛。
 大噴水を源に流れ行く水のせせらぎ。
 音の中を進むうち、 まっすぐに引き結ばれていたシンの唇がほんの僅か、曲線を描いたように見えた。そしてそれはすぐに別の感情を垣間見せてから消えた。

「・・・こんなに変わってきたのに・・・この街は」

『有能な市長がいるからな』

 女には言葉の裏に秘めた皮肉は見えないだろう。ルッチは唇をゆがめた。

「アイスバーグの凄さは・・・」

 言いかけた シンは、自分が話をしている相手がルッチであることを思い出したように視線を向け、口を閉じた。ルッチもその先を求めなかった。自然と言葉が零れたのは、ガードが緩んだ証拠だ。なら、今それ以上は必要でもない。

『この街が嫌いか』

 ルッチが問うと、 シンは瞳を少しだけ見開いた。そして、意味の見えない微笑を浮かべた。

「そうだったら楽なのに」

 そう言いながら水路の先に向いた瞳をルッチは追った。朝から陽気さに満ちた夏のウォーターセブン。来たばかりの去年は、その煩わしさに慣れるのが先ず仕事だった。集まれば明るさ一色に染まるこの街の人間たちも、1人1人にあるそれぞれの暮らしと事情はどれほど違った色を見せるか。
 例えば、傍らを歩くこの女は・・・他の色が混じりようがないほどの頑固な白、に見える。
 面白い夏になるといいのぅ、と言ったカクの声がふと記憶に蘇る。
 昨年よりは楽しめるかもしれない。
 つまり・・・今よりも少しはアイスバーグという人間を知ることができるかもしれない・・・ シンという女を入り口にして。
 その時、 シンは足を止めた。

「ここまででいい。・・・ありがとう、ロブ・ルッチ」

 ぶっきらぼうな声よりもよほど雄弁は瞳は、光を取り戻していた。やはり、そんじょそこらの男たちよりも目に力がある。その奥にあるものは、どこかアイスバーグに繋がる部分を秘めているだろうか。

シン・・・さん!」

 遠くから聞こえた男の声が、2人の間の空気を消した。
 ルッチの目は、見覚えがある男の姿を認めた。スーツを着た、見る者のほとんど全てに好印象を与えるはずの男。 シンの事務所で会った秘書だ。
  シンは背筋を一層ピンと伸ばした。それから、大きく1歩を声の方に踏み出した。

『ポッポー?』

 離れていく後姿を追うように、ハットリが嘴の中で小さく鳴いた。

「急ぐな。お前の出番はまだ少し、先のようだ」

 ルッチは朝から強い日差しに目を細め、踵を返した。
 街に本格的な夏が訪れたことを、不承不承、認めていた。

2010.5.30

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