その新人は緊張していた。
CP9という組織について耳にしてきた様々な噂。過去の栄光、敗北、地獄の底からの復活。闇の真っ只中に生きる男達にこれから会うことになるのだと思う と、緊張と共に闘争心も湧き上がる。
殺しのライセンス。この一言への憧れで人間離れした様々な訓練をこなしてきた日々。栄光への道がここから開けるのだと思うと、笑いも込み上げた。
しかし。
当面の問題は、指定された時間までに長官室に辿りつくことだ。
衛兵たちは彼の虚栄心をたっぷり満足させてくれるほどの深さに頭を下げてくれた。が、誰も道案内に立とうとはしなかったし、そうなると彼も道順を尋ねる 気にはなれなかった。知っているのが当たり前なことなのだろうと思った。
階段を上り、廊下を曲がり、なぜかスロープを下り、また階段にぶつかり。
戸惑いは怒りへと変わり、それがいつしか不安に変わる。
これは一種のテストなのだろうか、と思い当たる。
この迷宮を五感と記憶、集中力を使って切り抜けて初めて、組織の一員として迎えられるのだろうか。
それも在り得る。とにかく何でも在りの組織なのだ、CP9というのは。
新人は唇を強く噛みしめた。
負けるものか・・・・この俺が。
新たな決意と共に、新人は足を1歩踏み出した。
1歩は次の1歩に繋がり、その1歩が複雑に刻まれた足跡を作り出す。
新人は怒りを通り越して疲労を感じはじめていた。これは彼にしてはなかなかないことだったから、実は内心再び不安を覚えていた。
たかだかひとつの部屋に行くための道で疲労を感じている、だと・・・・?
彼はまだ六式のすべてを体得しているわけではなかったが、基礎体力はとうに超人の域に達しているはずなのだ。
この野郎。
手が壁を1度叩き、足が通路を蹴った。そんなみっともない真似をしている自分に余計に腹が立ち、喉の奥で唸った。
「・・・・ハットリ?」
その時聞こえた透明な声は疲労ゆえの幻聴だろうか。
曲がり角の1歩手前で反射的に足を止めた新人は、頭を振りながら自分の耳を疑い、同時に右足を半歩開いて軽く身構えた。
次に聞こえたのは・・・・恐らく羽ばたきで、新人の頭に浮かんだのは蝙蝠のイメージだった。
が。
「・・・・ポッポ・・・・・ポ?」
ふわり、と新人の頭上を越えた白い姿は鳩のものだった。
「待って、ハットリ・・・・」
続いて目に飛び込んできたのは光り輝く銀色の髪で、その持ち主は彼にぶつかる直前でその場に踏みとどまった。
新人の顎に届くほどの身長の・・・・・少女?
自分を見上げた紫色の瞳の深さに吸い込まれるような錯覚を覚えながら、新人は頭を振った。これは、アリか?警戒心を露に彼の前に立っているその姿は、ど う考えてもCP9という組織に属するものには見えなかった。もっと別の全く違う1枚の絵の中におさまっている方が絶対に似合う。例えば・・・・彼が振り捨 ててきた安穏な世界のような。
「ええと・・・・あの・・・・」
無意識のうちに伸びた新人の手を見た少女は身体をひいた。
「クルクル、クルッポー!」
頭の上で旋回した鳩が、新人の額に嘴で一撃を加えた。
「痛っ!こら、おい!」
鳩が先にたち、少女も駆け出した。
走る片方の足の動きがほんの僅か、遅れる。少女の動きを観察しながら新人は後を追った。本当なら手を伸ばして捉えることは彼には容易なのだ。けれど、地 の利は少女にあった。自分がどこへ向かっているのかを心得た素早い動きで少女と鳩は次々に角を曲がり、分岐している道の中からひとつを選んで進んでいく。
それでも捕まえることは容易いはずなのに。
自分の中にある躊躇いの正体がわからないまま新人は追い続け、鳩と少女がある部屋に飛び込んで扉を閉めたのを確認した。
この部屋は・・・・
「・・・・嘘だろ?」
新人の目は扉の上部に張られたプレートに『長官室』という文字を読んだ。
指定された時刻はとうに過ぎている。その事実だけでも新人がノックを躊躇う立派な理由になる。まして、頭の中にはこの中に消えた少女と鳩の姿がまだ鮮明 に焼きついていて、それに対して感じる違和感がさらに彼を怖気づかせる。
自分の足と手が今あるその位置に留まっている理由について、新人は認めるものかと扉を睨んだ。
ここから自分の栄光ははじまるのだ。
ここから、そしてたった今から。
グッと力を入れた拳を扉の表面に軽く2度あて、新人は待った。
直後に聞こえた声と感じた殺気。
そうだ、これだ。こうでなくては闇世界の入り口とは思えない。
「失礼します」
扉を開けて1歩入りながら思わず深々と頭を下げた新人は、その頭を上げながら目に入ってきた光景に口を半分開いた。
「・・・・象?」
正直、この名の生き物を見たのは初めてである。が、初めてでも何でも『象』とはっきり認識できるほどの存在感をその巨体は漂わせていた。
「ああ、お前が配属された新人か?えらく遅いじゃねェか。はは〜ん、さては迷ったな」
象の傍らに立っていた細身の男は、怪我でもしているのだろうか・・・・顔の半分ほどをわざと隠しているように見えた。
この男がCP9長官のスパンダム・・・・なのだろうか。確かに個性的な空気を纏っているが、さほど強そうには見えないし、感じる殺気もこの男からではな い。
新人は2人と1人に別れて向かい合ったソファに座っている3人の男に目を向けた。
どこか東洋的な顔の傷が特徴の男。この男は長い髪を束ね、髭を指先で弄んでいる。
オレンジ色の髪と角ばった長い鼻が特徴の男。いかにも好奇心たっぷりの丸い目で面白そうにこちらを見ている。
そして、3人の中で一見一番まともに見える1人の男。癖のある黒い髪、鋭い瞳に浮かべた冷徹な光、漆黒のスーツ。ロブ・ルッチ・・・・きっとこれが彼の 名だ。感情をひとつも見せない顔と気配を殺した静かな姿は、まさしく新人が目指しているCP9そのものだ。
「ええと、俺は・・」
「名前は、いい。覚える価値があるとわかってからで十分だ」
ロブ・ルッチ・・・・声も想像していた通り、低くて滑らかだった。
「ま、わしらは一応教えておこうかの。わしがカク、こっちがジャブラ、で、最後がロブ・ルッチじゃ。あ、スパンダム長官の名前は勿論覚えてきたんじゃろ? ほんとはあと何人かいるんじゃがな、今日はそれぞれ任務に出てる。お前さんがここに残っていられたら、いずれ会えるじゃろ」
カクの笑顔はひどく明るかった。
「個室はまだねぇぞ。急に新人が来るって知らせが来たんでな、とりあえず地下で寝起きしろ。トレーニングルームの隣りだから、まあ、便利だ。窓がないから 暗いがな」
ジャブラは案外、面倒見が良さそうだ。
内心ホッと一息ついた新人は、象と目を合わせた。なぜか、睨まれた気がした。・・・そして実際、象は明らかに怒りを含んだ声で一声、吠えた。
「こら、ファンクフリード!いいから・・・・お前、もう戻れ」
どこへ?ひょっとしたら長官室の奥に象用の檻でもあるのか?・・・・・この新人の予想は見事に外れ、彼の目の前で象の身体がスルスルと縮んで変形しはじ めた。最終的に一振りの剣になったその姿をスパンダムは満足そうな笑みを浮かべながら腰に差した。
「ファンクフリードは象剣でな。珍しいだろ?」
しかし、新人の目は剣を見てはいなかった。
象が立っていたその場所に、一人残された姿があった。細い身体、銀色の長い髪、紫色の瞳、腕の中に抱いている白い鳩。さっき、彼が追いかけてきた少女 だった。
新人の視線に気がついた男達は、小さく顔を見合わせた・・・・正確には、スパンダム、カク、ジャブラの3人が。ルッチはまるで無関心な様子で新人から少 女からも視線を外したまま、ゆっくりと足を組んだ。
この少女は誰だ?というよりも何だ?
この姿で殺し屋集団の一員だとでもいうのか?
それとも・・・・
続かずに途切れた発想に苛立ちながら、新人は少女を見つめた。
少女は困ったような顔でスパンダムたちを一人ずつ見た。そこには、この部屋に入る前に少女が見せた警戒心と脅えはもうなかった。
誰も何も言わなかった。
沈黙が次第に醸し出す緊張感に、3人の男の顔に苦笑が浮かんだ。
少女は小さく息を吐いた。その瞬間、ルッチが無言のまま、立ち上がった。揺れた黒い髪が乱した空気を感じられるほど他の気配を消したまま扉を開けて出て 行ったルッチの姿に新人が感嘆の吐息を漏らした時、軽い足音とともに少女がその後を追った。
「・・・・え?」
新人は自分の目を疑った。彼の目が今見たもの・・・・それは少女の唇に浮かんだごく小さなやわらかい微笑で、どう考えてもロブ・ルッチに向けられるのに ふさわしいとは思えないものだった。
2人と1羽が出て行った後、扉は静かに閉まった。
「疑問だらけの顔じゃのう」
カクは悪戯っぽそうに瞳をクルリと回した。
「お前な、自分が命拾いしたこと、自覚しろよ。なんつうか・・・・空気が変わったろ?」
ポンっと肩に手を置いたジャブラの顔を見て、新人はゆっくりと頷いた。
殺気が消えていた。それが誰が発していたものかはわからなかったのだが・・・・・つまり。あまり考えたくないがあれはロブ・ルッチだったということなの だろうか。無関心そのものの顔をしていたというのに。
「あの子を怖がらせるのはやめておけ。あれは、まあ、言ってみれば運命的にCP9という組織の中に放り込まれたか弱い子どもだ。あれをちょっと脅かしでも しようものなら、その場で瞬殺されても文句は言えないってとこだ。実際な、あの子が駆け込んできた原因がお前だと思い当たったファンクフリードは、お前を 踏み潰したがってたんだぞ」
象までが少女の味方なのか?そう言えば鳩も何の躊躇いもなく彼を攻撃してきたが。
「でもどうして・・・・ロブ・ルッチが・・・・あんな」
新人の空いている方の肩に、今度はカクが手をのせた。
「それがわかるまで、せめてここにいられればいいのう。まあ、後はお前さんの粘りしだいじゃ。時間が経てばわかってくることもあるじゃろ。わしらには言え ん。大体、どう説明したところで、きっとお前さん、納得できんじゃろうしな。実際、説明も無理じゃ」
新人の頭の中の疑問符は大きくなるばかりだ。
「ああ、あと、あの子はほんと最強じゃが、もう1人、わしらの中には女性がいてのう。会えばわかるじゃろうが、これまた、別の種類に最強じゃぞ。楽しみに しとれよ」
もう1人の女?
新人の丸くなった目を覗いたカクはニッコリと笑った。そこにある何かが、新人をさらに戦慄させた。