波の音が、聞こえた。
少女の耳にその音は最初はとても遠く、とてもリアルなものとは思えなかった。だから、死へ誘う道を示す音なのだと思った。
身体がゆらゆらと揺れた。
己の胸の中に鼓動は感じなかった。やはり、命尽きたのだと思った。
ならば、このまま目を閉じて想っていればいい。
最後の最後まで心の中で囁いていたいひとつの名前を。
ただ、想っていたい。
初め、少女はそれを錯覚だと思った。
死を迎えた今、この肉体が涙を流すことなどあり得るだろうか。
そして、その涙の航跡が肌のごく表面にひそやかな温度を含んで感じられる、など。
自分はこれまでの生に感謝を感じながら消えればいい。その生を2度目に与え守ってくれた大きな手を思いながら。
なのに、なぜ。
その場所が自分の頬であるとも顔であるともわからないくらい遠いのに、そこには確かに温度を感じてしまう。ゆっくりと落ちる水の粒の動きまで、次第に伝わってくる。
ル…
思わず呼ぼうとした名前は、音にはならない。
けれど。
次に感じたのは、自分の上を過ぎる風と降り注ぐ熱だった。わずかなそれが徐々に強くなり、それとともに波の音が大きくなっていく。
まるで。
まるで…現実のもののように。
吹きすぎる海風、降り注ぐ陽光、頬を落ちる涙、すぐそばで動く波。
まるで…
次の瞬間、少女の身体が小さく跳ねた。
全身を貫いた激痛。生きながら炎で焼かれるとしたら、こんな感じかもしれない。
生きている?
確かめようにも、身体は指先のひとつまで動かず、瞼さえ開けることは出来なかった。
…生き延びられるとも思えねェがなぁ、まあ、お前さんの運試しってことで許してもらおうじゃないの
記憶をかすめた声は誰のものだったか。
少なくとも、命あるうちにもう1度聞きたいと切望した、あの声ではない。
どうして。
何に対して疑問を感じているのかわからなかったが、少女は問いかけた。
相手のないその問いに、答えは返らない。
でも。
もしも、ただの人間に過ぎない自分の命がまだここにあるのなら。
少女の中で不意に膨れ上がった気持ちは全身を焼く痛みより熱く、その大きさに思わず声にならない声を上げた。
生きているかもしれない
それは希望というにはあまりに強く、そして儚い願いだったかもしれない。けれど、自分の命が、あの遥かに強い命が残っていることへの証明になるのなら、今のこの痛みにも感謝しないではいられない。
生きてさえ、いれば。
過去の砲弾にも耐えた傷跡を背中に持つあの姿が、少女より先に消えてしまうはずがない。
自分はそれをひたすらに信じたい…それだけなのだということは、わかっていた。
それでも、その想いは淡い光を帯び、少女の中にしっかりと灯った。
ルッチ
心の中にもかかわらずその呼び声は震えを帯び、確信を願って波の先を行く。
起き上がろうとした少女は、ピクリとも動かない身体に努力を諦め、深く息を吸った。
自分が置かれている状況がまるでわからない不安。
言うことをきかない身体への焦り。
それでも少女の唇には、微笑が浮かんだまま消えなかった。
男はまだ1度もその名前を口にしていない。
常に意識が半分とんでしまっている男をかばい気遣い、仲間たちもその名前を言わない。
バスターコールというあの攻撃で、死の島と化したあの光景がまだ生々しくそれぞれの脳裏に焼きついている。
そんな状態での生存を祈っていいのかすら、オレンジ色の髪の男にもわからない。
CP9。そう呼ばれたチームの仲間は、とりあえず全員生きている。
どうやら情けないことにわけもわからないまま…いや、予測はたっぷりつくのだが…追っ手に追われる身になったことに馬鹿馬鹿しい怒りを感じながら、ガレキの山となった司法の島を去ろうとしていた。
普段なら口の軽い連中は、命が残ったことに対する安堵を隠さない。ただ、その彼らさえ、その名前は言わない。
その名前を最初に口にするのは、その男であるべきだ。
7人の中で一番大きなダメージを負い、未だ瀕死の状態とも言えるその男、彼らのリーダー。
最初に少女の名を呼んでいいのは、彼のはずなのだ。
「ポッポー」
どこからともなく舞い戻った白鳩が、炎上する炎を光と受けてキラキラと輝く小さな石をそっと男の手に落した時、男の空ろな視線に束の間の光が戻ったように見えた。だがその石はすぐに男の拳に包まれて見えなくなり、目を閉じた男の身体は微動だにしなかった。
「ポッポー?」
羽ばたきながら滞空する鳩を、オレンジの髪の男はゆっくりと見上げた。傷ついた自分の身体が思う100分の1も言うことを聞かないのが腹立たしい。
お前さんはいいのぅ。心のままを口にできるんじゃから
いや、そうではないのかもしれない。伝えたいことを伝えられずに首を傾げながら飛ぶ鳩に、男は心の中で詫びた。
お前の主人を救うためにも、もうここから逃れるしかないんじゃ。何もわからないままというのが、悔しいがのぅ。
男は重い頭を持ち上げ、意識のほとんどを失ったまま座り込んでいるように見えるリーダーの気配をうかがった。
静かだった。
呼吸音も体温も感じられない傷だらけの肉体。
やがて鳩は羽ばたきをやめ、そっと主の肩に下りた。
「ポー」
頬ずりをするように小さな身体を摺り寄せた鳩に、主が目に見えるか見えないかほどの動きで頷いた。
…リリアの骸は置いていく
聞こえた声は錯覚か。
それでも、それをきっかけに立てる者は立ち上がった。
それとも、砲弾で吹き飛んでしまったかのぅ…
仲間に背負われながら、オレンジの髪の男は、己の無力さに笑った。