数日降り続いていた雪がようやくやんだ。また降りださないうちに大人たちが使う湯を沸かしておいた方がいい。そう判断した少女は酒樽を切って作られた深い バケツを持って早朝の空気の中に踏み出した。長い銀髪が腰の後ろで揺れ、まだ薄暗い中で道の様子を確かめようとする紫色の瞳が細くなった。
白銀の世界の凍てつく空気。吐いた白い息が肌に触れるとそこが冷たく張り詰める。山の中の自然は厳しい。井戸までの道を足で踏み固めながら少女は幾度も 足を深く雪に埋めた。擦り切れかけたブーツの中に雪が入り、素足の熱を奪っていく。
ようやくたどり着いた井戸の蓋は凍りついていた。素手で雪を丁寧に払い握りこぶしで数回衝撃を与えてみる。なぜシャベルやスコップを持ってくることを思 いつかなかったのか。がっかりした少女が大きく板を叩いたとき、背後から人の気配が近づいてきた。
「朝っぱらから騒々しいぞ。何してやがる・・・・・ん?・・・お前・・・・」
声の主が料理番であることを知った少女はそのまま蓋に手を掛けていたが、男の声の響きに違和感を感じてゆっくりと振り向いた。
元は海賊船のコックだったという料理番の顔には驚きがあった。その視線を逆に辿った少女は自分の足元に視線を落とした。
白い雪を染める紅の雫の跡。鮮血の色。
慌てて確かめても傷も痛みもない足に首を傾げながら少女は肌の感触を辿り、自分が身体の深部から出血しているのだと気がついた。
つまり、これは・・・。
意識すれば内股に不快感があり、これに気がつかなかったのは寒い中で蓋を開けることに夢中になっていたからだろう。
見ると男の顔にも納得の色が浮かんでいた。男の唇が次第に歪んだ。
「女になったってわけか・・・ようやくな」
少女が踏み固めた小道をさえぎって立つ料理番の顔に浮かんだ表情を見た少女は身震いしたい衝動をぐっとこらえた。この感じは何だろう。ついさっきまでの 少女はこの山に住む男たちにとって雑用を言いつける対象でしかなかったはずだ。時折面白がってからかう者もいたが、ボロ着を着た少女がいつも無口に黙って いるのでどちらかと言えば怒鳴られることの方が多かった。
「バケツを置いて行きな、水は俺が汲んでってやる。お前は戻ってとっとと着替えるんだな。いい日になりそうだ。ちゃんと身体を洗っておけ」
少女の瞳に疑問の色が浮かんだ。
これは『親切』なのか?
少女は小走りに男の横をすり抜けざまにバケツを男の足元に置いた。同時に男の手が伸びて少女の髪に触れた。とっさに首を縮めるようにして手を避けた少女 は、ふと少し離れた林に目を向けた。
今、何か動かなかっただろうか。枝から雪が落ちただけなのか。
「何してる。早く行かねぇと・・・」
無意識で男の手をかわした少女は雪原の中に足を進めた。
さっきとは違う気配を感じていた。
白い雪の中で動いたもの・・・あれは・・・
「おい、
リリア!」
名前を呼ぶ声を耳に入れず少女は自分が確かに小さく立ち上った雪煙を見たと思った方向に歩いた。誰も足を踏み入れたことのない雪原は表面こそ滑らかで平 らだが足を踏み込むと一気に沈む。途中から雪を漕ぐようにして進み続け、ようやくその場所に辿りついた。
かすかに羽を動かしている一羽の白い鳥。
丸い瞳が開いて少女の姿を映すと、その鳥は慌てたように羽ばたいてふわりと少女の頭の上に浮かんだ。しかし、それが鳥の限界であることを少女は感じた。 宙に浮いた身体を維持するだけで必死なのだ。
「なんだ、鳩じゃねぇか!こいつはいい!煮込んでお頭の晩飯を豪華にしてもらおうってとこだ。ほら、どけ!邪魔だ、
リリア」
その時、林の中で黒い影が一瞬動いたことを。
少女も料理番もそれには気づかずに行動に出た。
男は腰に下げていた銃を抜いて鳩に狙いを合わせた。
少女は鳥に向かって両腕を差し出しながら力いっぱいジャンプした。
雪原に一発の銃声が響いた。
男は舌打ちして銃を構えなおした。
「何の真似だ」
男の怒鳴り声に少女は反応を見せなかった。雪の中でボロ屑のように・・・実際これ以上はないというほどの古着を身に着けているのだが・・・少女は身体を 丸めて横たわっていた。その腕の中には震えている小さなぬくもりがあった。
「・・・やめて」
まだ幼さが残る透明な声が呟き、それから短く呻いた。少女の肩口から血が流れはじめた。
「ば・・・馬鹿か、お前は。邪魔するからかすっちまったんじゃねぇか。・・・まあ、いい。今日はいろいろ忙しくなる。そいつと一緒にさっさと行け。いい か、訊かれたらちゃんとお前が悪かったんだって言うんだぞ!」
言われなくても少女には男のことを誰かに言いつけるつもりはない。そんなことをしても聞く耳を持つ人間がいないということをよく知っている。それは男も わかっているはずなのに。やはり何だか今日はおかしい。
リリアは鳩を抱いたまま静かに立ち上がった。丸い目を覗き込むと鳩は小さく喉を鳴らした。まるで
リリアの気持ちが伝わったようにおとなしく腕の中におさまっている。
「ものすごく寒かったからね。ここよりあったかいところへ行こう・・・少しだけどね」
『ポッポー』
返事のように鳩が鳴いた。
リリアが大きな山小屋の脇につけたしのように建っている小屋に戻ると、中では初老の女が静かに動いていた。元の色の名残なく全体が灰色 になった髪を結いながら歩いていた女は、少女の姿を見とめて首を傾げながら頷きかけたが、少女の足を見た瞬間にその形相が変わった。
「お前、まさかもう・・・」
このネルという女は
リリアの記憶する限り感情の起伏をほとんどあらわにしたことがない。だから女のこの様子に少女は驚き感情を動かされた。それは多分恐怖 と言う気持ちだったかもしれない。自分の身体に起きたことに対する戸惑いとそのことに対してメルが見せた表情への小さな恐怖。小屋の中に入ってはじめて少 女の身体は細かく震えはじめた。
「とにかく着替えなさい・・・そこに抱えてるのは何だい?それにお前、怪我をしてるのかい?」
普段の調子に戻ったように見えるネルはすばやく狭い小屋のもの入れから薬袋や着替えを取り出した。
リリアはやわらかな羽をそっと撫ぜてやってから薪ストーブから少し離れたテーブルに鳩をのせた。
「そこならあったかい」
鳩は再び返事をし丸みのある頭を巡らして部屋の中を見回した。少女の唇に微笑がのぼった。本当に言葉をわかっているような鳩だ。動作もどこか人間に似て いる。
ネルの手が傷口を容赦なく消毒し清潔な布できつく巻いた。さらにこれから月毎に訪れるはずの数日について手短に処置を教えながら手早く着替えをさせる。 確かにいつも手早い硬く筋張った手だったが、今日はその動きが乱暴といっていいくらいで
リリアは着替えが終わったあともじっと女の顔を見ていた。初潮が訪れたことの驚きよりも女の様子が不思議だった。
「何だい。お腹が痛むのかい?とにかくこれは別に病気じゃないんだ。さあ、ちゃんとやるだけのことをやっちまいな。男どもが顔を洗う湯は沸かしたのか い?」
いつもと同じきつめの語尾。でも、どこか違う。
リリアが髪を梳かす様子をじっと見つめている視線。
ふぅっと小さく息を吐き、ネルはためらうように一度口を開いてすぐに閉じた。
「
リリア・・・」
女の声が言いかけたとき、小屋の扉が音をたてて開いた。
「さあ、風呂の道具を持ってきてやったぞ。朝から部屋ん中でってよ、今日だけとはいええらくいいご身分じゃねぇか。いいな、婆ぁ。そいつをうんと磨いてお けよ」
男たちは一人ずつ順番に小屋に入り、大きな盥と白い湯気が立ち上るバケツをいくつも運び込んだ。その一人一人が何か意味ありげに落としていく視線が嫌 で、
リリアはそっとテーブルの陰に回った。
これはどういうことなのか。
男たちの下卑た視線とネルの冷たくこわばった表情の両方が怖かった。
ふとやわらかな感触に視線を落とすといつのまにか鳩が
リリアの方に身を寄せていた。
大丈夫。食べさせたりしない。身体があたたまったら逃がしてあげるから。
心の中で囁いた
リリアはその別れの時を思うと心細さが増すのを感じた。まだ出会ったばかりなのに。見下ろす視線を受けて鳩はじっと
リリアの顔を見上げた。
「ほら、用が済んだら出ていきな。お前たちがいると湯浴みができない。せっかくの湯が冷めちまうじゃないか」
いつもの調子で男たちをあしらって外に出したネルは振り向くと複雑な表情で
リリアを見た。
「・・・とにかく湯を浴びるんだ。連中がまた覗きに来ないうちにな」
その言葉は男たちが来る前に言いかけていたものとはちがうはずだ。
リリアは続きを待って黙っていたが、女の視線に従うように着替えたばかりの服を脱いだ。本当はもっと何か聞きたいことがあった。けれど これまでの二人の間にはそれを問うことを望んではいけない空気があった。
浅く湯を張った盥にそっと入った
リリアが膝を抱えて座るとネルは細い身体と銀色の髪に丁寧に湯を掛けた。室内の低音がどんどんと湯の熱さを奪っていく。白い湯気の中で
リリアの白い身体は小刻みに震え続けた。その震えを削り取るように女の手が力を込めて少女の肌をこする。寒さと肌の痛みを唇を噛んでこ らえながら
リリアは窓の外を見つめていた。灰色の雲がたちこめて吹雪の最初の風が吹き寄せていた。これはきっと今日一日続く。
リリアはちらりと鳩を見た。明日になって空が晴れたら林の中で鳩を放そうと思った。初潮、白鳩、朝の湯浴み。初めてのことばかりだっ た。
リリアの髪を洗う女の手が止まった。
震える手が
リリアの肩を握りしめた。
「ダメだ・・・・」
呟いたネルは
リリアの頭の上からタオルをかぶせ、ごしごしと髪を拭いた。
「いいかい、
リリア、よくお聞き」
急に切迫した口調になった女の方に振り向こうとした
リリアは頭をしっかりと押さえられ、そのまますこし濁った湯を見つめ続けた。
「これから吹雪になる。そしたらもう動きが取れない。いいかい、すぐにしっかり着込んで林の中に走るんだ。そこには男が一人いるはずだ。お前がこれまでに 会ったことがない男だから、すぐわかる」
再び振り向こうとした
リリアの頭はさらに強く押さえつけられた。
「その男に言うんだ。お前とわたしをここから開放して命を守ると言う条件でわたしが持っている海図を渡す、と。そうすればきっと男はお前に何か指示を出 す。後はそいつのいうことに従うんだ。その男のそばから離れるな。とにかく、もう、ここには戻るな」
「ネル・・・」
「ほら、行くんだ!」
ネルの硬い手が
リリアを盥から引っ張り出してタオルで叩くようにして身体を拭き、手当たり次第に衣類を着せ掛けた。その小さな狂乱の中で
リリアはただ倒れないように立っていることしかできなかった。気がつくとネルのものであるはずの手編みの靴下を二重に履かされ、さらに
リリアのものよりも状態が良いネルのブーツを履かされていた。服も
リリアのものの上からネルの一番あたたかなものをかぶせられた。
「でも、ネル、これは・・・」
ネルは振り返ろうとする少女の動きを止め続けた。やがて開放されてやっと
リリアが後ろを向いたとき、ネルは窓辺に立って
リリアに背を向けた。
「誤解するな。これはお前のためじゃない、わたしのためだ。ちゃんと男に伝えてもらわないと何もかもダメになっちまうんだからね。さあ、行きな。走るんだ よ。とにかくさっさとここから出るんだ」
普段よりあたたく包まれているはずの
リリアの身体は震えていた。濡れた髪から雫が落ちた。
リリアはテーブルの上の鳩を見た。すると
リリアの姿が見えないはずのネルが声を荒げた。
「もうそんな鳥の心配をしてる場合じゃないんだ!走れ、
リリア!早く行け!」
声の響きに
リリアの身体は反射的に動いた。小走りに扉に近づいて押し開けると粉雪が混じった冷たい空気が流れ込んだ。
「早く!
リリア!」
女の叫び声が
リリアの背中を押した。
転がるように外に出た
リリアは一気に林に向かって進もうとした。
しかしその時。
リリアの視界の隅に映ったのは
リリアの姿を見て足を速めた男たちの姿だった。
男たちは簡単に少女の身体を捕まえて雪の中に押し倒した。
リリアの口から悲鳴が漏れた。こんな声は記憶にある限り出したことはない。
リリアは恐怖と雪の冷たさ、そしてどこからか自分で自分自身を見つめているような不思議な気持ちを覚えていた。
「その子をお放し!」
ネルの声が聞こえた。男たちの身体に視界を塞がれていた
リリアはその声に向かって叫んだ。何を言ったのかは自分でもわからなかった。これまでにこんな風に女を呼んだことはない。けれど今すが ることができるのはネルだけだった。
「何言ってやがる、婆ぁ!これはお前が俺に教えやがったことじゃねぇか。お前がどこだかで見つけたっていう赤ん坊を抱えてぶったおれそうになってた時、お 前が言ったんだぞ。俺が助けてやる代わりにお前は俺に力を寄越す。この赤ん坊が育ってよ、月に一度の女の証とやらの血を流すようになったらってな。その最 初の血を流してるこいつを犯って交われば伝説の力が交わった奴の身体に復活するんだろ?眉唾もんだって最初は俺も思ったさ。でも試すだけなら別にどうって ことねぇ。ダメでもお前とこいつはずっといろいろ便利に使える。特に身体が育ったとなりゃぁ・・・これからずっと退屈しねぇで済むってことだ」
リリアの真上にある頭の顔が笑みを浮かべながら言った言葉を、
リリアは男たちの手の中で聞いた。すぐには意味がわからなかった。伝説とは何だ?確かにネルは
リリアを赤ん坊のときに拾ったと言っていた。けれど。わからないことが多すぎる。
一人の男が
リリアの身体から借りていたネルの服を簡単に破りとった。
別の手が
リリアの口を覆った。
「やめろって言ってんのがわからないのかい!」
再び聞こえたネルの声に複数の男たちの声が重なった。どうなったのだろう。
リリアは耳を澄ませた。しかし女の声は聞こえなくなった。
男の手が
リリアの服の襟ぐりに手を掛けて胸元まで引き裂いた。
リリアは身をよじり懸命に頭を動かして口を塞いでいた手から逃れるともう一度叫んだ。誰に向けて発したのか自分でもわからない声はひと 言、助けを求めた。それを聞いた男たちの中から笑い声が起こった。
「無駄と知ってるはずだぞ、
リリア。この山には俺たちしかいねぇ。それともお前、熊でも呼んだのか?熊はお前の柔らかい部分を食ってはくれるだろうか、お前を助け てはくれないぞ」
冷たい空気の中にさらけ出された白い肌の上を複数の手が這い回った。その感触のおぞましさに
リリアは唇を噛んだ。それでも浮かんだ涙はこらえた。
「待てよ、そうがっつくな。お前たちの頭を差し置いて手を出すつもりか?ほら、さっさとボロ小屋へこいつを運べ。まずたっぷりと見せてやる・・・その力っ て奴を俺のものにすることができるかどうかをな」
大きな手で身体を引き起こされると、雪の中で凍りはじめていた濡れた髪が耳元でしゃらしゃらと音をたてた。手を振り解こうと抵抗していた
リリアは小屋の前に倒れているネルの姿を見た。
「ネル!」
少女の声が響いた時、開いたままの戸口から白い鳩が空に舞い上がった。
「何だ?ありゃ」
「あれだ!今晩の頭の夕食に使いたい鳩だ。誰でもいいから撃ち落せ!」
すぐに数発、銃声が響いた。けれど白い姿は離れて行き、すぅっと林の中に吸い込まれるように見えなくなった。
「ったく、どいつもこいつも・・・このど下手!」
「まあ、いい。とにかく伝説とやらが先だ。お楽しみつきのな。てめぇら、さっさとそいつを運べ」
リリアが手足を振り回して抵抗してもその細い腕を掴んでいた男が軽々と少女の身体を肩に担ぎ上げた。
「細くて小せぇ尻だな〜〜。大丈夫なのかよ、こんなんで」
大きな手に触れられて
リリアは唇を噛んだ。叩いてももがいても動じる気配のない太い腕。落ちた涙は無力感と絶望の色をしていた。
「あ・・・・・?」
間の抜けた男の声を聞いたと思ったのと
リリアの身体が雪の上に落ちたのはほぼ同時だった。
「え・・・?」
リリアを抱えていた男は周りの男たちと一緒に
リリアの身体とともに落ちた自分の腕が雪の中に鮮血を垂れはじめた光景を呆然と眺めた。そして次にその大きな身体は突き飛ばされたにし てはあまりに速い勢いで10メートルほど先に飛んで落ちた。
「何だ?おい、ジャッキー!」
声ばかりで身体はそのままの動揺した男たちは足元の少女を見下ろした。疑惑、驚き、恐怖。男たちの目の中に揺れる感情が通り過ぎた。
「まさか・・・お前か?」
けれど問いかけられた少女は男たちを見ていなかった。少女の瞳は飛んでいった男の身体の行方を見つめていた。いつのまにか強くなってきた吹雪の白く舞う 雪の中、ぐったりと崩れた身体のそばにゆっくりと立ち上がる姿がひとつ、あった。
白い風の中に滲む黒いシルエット。
・・・熊にしては細く見えるそれは別の獣のものなのか?
リリアは息を凝らしてその姿を見つめた。
「う・・・」
高くなってきた風の音の中に吸収されてしまいそうな女の声を、
リリアは聞いた。ネル。生きている。
その声が聞こえるはずはない場所にいる黒い姿が静かにネルの方に向かって動きはじめた。
「何だ、あれは・・・・あいつは・・・・いいか、おめぇら、銃を抜いとけよ。俺が言ったらすぐに撃てるようにな」
銃を抜いた男たちは黙って近づいてくる影を見ていた。
リリアはネルの名を呼んだ。影に獣の気配を感じていた。
「・・・わたしを解放してくれ。そしてあの子を開放して命を助けてくれ。・・・その条件で・・・これを・・・」
影がネルの上にかがみこむと同時に女の声が低く囁いた。男たちには聞き取れなかったかもしれないが、前にネルが言った同じような言葉を聞いていた
リリアの耳はそのほとんどを理解した。
では、この姿はネルが言っていた男のものなのか。
リリアは吹雪の中を凝視した。すると確かにそこにいるのがすらりとした人の姿であるように見えた。
女から身を起こした影は
リリアと男たちの方に向き直った。
影との間の空気が冷えた。
滑らかに近づく姿はもしかしたら雪の上に足跡を残していないのではないか。
リリアは思わずそんなことを想像した。そのうち、影のシルエットがはっきりと見えはじめた。ぴったりと身体に合った黒いスーツは冬の山 にはおよそ似合わない。
リリアはその服装自体が見るのが初めてで、頭の上に見える細長い帽子を見つめた。影が羽織っている黒いコートの裾が風に音を立ててい る。その音を聞いたとき、影を見ている全員の目の中でその姿は一人の人間としての存在感を持った。人間。一人の男。舞い狂う雪片を透かしながら無言で見つ める男の瞳には温度の気配がなかった。そして男の右手から間隔をあけて雪面に落ちているのは・・・あれは血だろうか。
この人がネルが言っていた男なのか。
改めて思った
リリアはそのとき初めて自分の身体に乗っかっているまだ体温の名残がある腕に気がついた。鼻に感じたのは血の匂いだろうか。腕から流れ て固まりはじめている血潮、そして・・・少女の体内から密かに流れ出している血。
リリアが腕を振り落とすと、その動きに気がついた男たちの手が伸びた。
「やめておけ。俺はお前たちに用はない。その娘を連れて行く」
男の口から流れた声は風の音を貫いて全員の耳に届いた。
「馬鹿言うな。こいつは俺たちのものだ。お前がネルと何を話したかは知らねぇが、このまま殺すのも面倒だ。さっさと行きな・・・お前が来たところへな」
答える頭の手が彼を囲む男たちに合図を送っている。それに気がついた
リリアは考えるよりも先に警告の声を上げていた。
「だめ!撃たれる・・・・!」
その時、頭が右手を大きく上げた。
立て続けに発砲された銃の音に少女は瞳を大きく見開いた。
「待て・・・あの野郎はどこだ?・・・うおっ!」
一瞬、男の姿が見えなくなった。慌てて頭が周囲をぐるりと見回した時、その身体が宙に舞った。
「何・・・!」
子分たちに頭の行方を眼で追う時間はなかった。大きな身体が次々と順番に宙に放り出されくるくると回転しながら雪原に落ちる光景は信じがたいものだっ た。
リリアは自分の前、すぐそばに黒い姿が立っているのに気がついた。途端に頭の上から何かが落ちてきて少女の全身を覆う。それは男が着て いたコートだった。
「そこにいろ」
コートの下の暗闇で
リリアはその声を聞いた。すぐに男の気配が離れ、それに男たちの絶叫が続いた。見てはいけないのだろうか。少女は迷い、そっと顔の前の 布を持ち上げた。雪の中に立つ男を取り巻く白と赤の風。吹雪と血煙の中で黒い姿はしなやかに舞っていた。
もしも『悪魔』がいたらあの男のような姿なのかもしれない。男の冷然とした瞳と声を思い出した
リリアは再びコートの下に潜った。そうすると風の音だけが少女を取り巻いていた。身体の下から染みとおってくるような冷たさと距離感を 奪うような風の音。そのどちらもが少女を眠りへと誘う。
リリアは気配を探るのをやめた。受け止めきれない事実から自分を守るため、白と赤の夢の中に落ちていった。