夜の娼館、と聞くとある者は艶めいた闇色の空気を連想するかもしれない。また、ある者はどうやら煙草だけとはいえない複雑な香が混ざり、そこに酒と香水の香りも加わったそれ自体が人生の媚薬ともいれるあの香りを思うかもしれない。
客引きの巧みな話術、夜明かりの中で昼間とは違う生を営む女たち。
どんな想像も確かにある一面はとらえているが、この小さな島のこの建物に今満ちている空気はちょっと違っていた。
「さあ、張った、張った!次の場から振り手が代わるよ!待ってましたのお客さんはなかなかの通だ。何のことだかわからないお客さんも、いい縁があってうちに寄ってくれたお客様たちだ。逃しちゃ損だ。見ていくだけでも価値がある。今夜は3回だ。3回だけ、この振り手が場を立てさせてもらうよ」
呼び込みは決して振り手の名前を言わない。しかし、確かに店の中の空気が変わった。
「
エンジェル!
エンジェル!待ってたわ、あたしたちの天使!」
声を上げたのは店の女たち。酒場を兼ねたこの賭博部屋でホステスとして働いている女たちはもちろん、見れば急いで羽織ってきたらしい色鮮やかなガウン姿がいくつも階段から下りてくる。時は黄昏時を過ぎたばかりの夜としてはまだまだ入り口。少し早めに肌を温めたがった男たちの顔がいくつか、自分たちが置いていかれたひとつひとつのドアから覗いているのが妙に微笑ましい。
「うちの名物博打はサイコロだ。今から3場の間はカード類は休ませてもらうよ。今夜の景気づけにカード好きのお客さんもこっちに寄ってきな!これで振ってほしいって道具はないか?仕込みさえなけりゃぁ、振り手はどんな道具も歓迎だ。ルールは簡単。一番華やかな7ダイスだ。数え方にはキリがねェが、百より多い手の中で上から5つ!5つの中のどれかが出たら店の勝ち。残りが出たらお客さんへの戻りは10倍だ。この3場に限っては上限1万とさせてもらうが、うちの名物運試し、勝てば10万以上のご利益は間違いないぞ!おまけに負けてもこれ以上はないいいモンをその目で見られるって寸法だ。さあさあ、張ってきな!土産話を持っていきな!」
とびきり明るい呼び込みの声と口調が店の中の空気を染めていく。しかし、その声に引かれて歩み寄った客は、メインの大テーブルの周囲だけがそれとは別の静寂さにつつまれていることに気がつくだろう。島に上陸した時に噂のひとつも仕入れていればなるほどと頷くところだが、それがない者は自分も自然と口を閉じてしまっていることに首を傾げるかもしれない。
エンジェルと呼ばれた振り手。灰色のケープとフードにすっぽりと包まれた姿は、容姿・年齢・性別を告げない。外見からわかるのはその身長とおおよその体格で、それはきわめて華奢だ。
俯き加減のままテーブルの上に伏せられた白い陶器のコロ入れにその指先を触れている。やがて、1人、2人と張り手が増えていく前で、そのコロ入れを返してテーブルの中央に押し出し、何の細工もないことを確認させる。続いて、7つのサイコロもそのひとつひとつを確かめさせる。
しかし、その場で一番注目を浴びるのはこれからの勝負に使われるはずのそのシンプルな道具ではない。コロ入れとサイコロを動かしたその手。灰色の袖から見えている白い手は、予想される体格と釣り合いよく、ひどく華奢だ。きちんと切りそろえられた爪に薄く塗られた透明の輝き・・・それだけが飾りの白い手を、多くの目が追っていく。
ふぅ。
誰にも聞こえないはずの小さな吐息を受け止めたように、カウンターから男は立ち上がった。銀色のケープ、銀髪交じりの長髪、銀色が混じった顎鬚。顔に浮かべた人の良さそうな笑顔を裏切っているのは、額から右の瞼を通って頬まで伸びる一筋の傷跡だけ。
「では、振り手を紹介させていただこう。広い海を渡る中でもめったに会えないだろうと自慢できる振り手だ」
客の間を巧みにすり抜けた男は、振り手の横に立った。
「我らの天使の調子はどうかな?」
「レイ」
振り手が頷きながら小さく呼んだ男の名前。その声の透明さが予感させたものを、男がそっと脱がせてやったフードの下から現れたものは裏切らなかった。
「女・・・っつぅより、まだ子どもじゃねェか、その娘」
テーブルを通り抜けた囁き声の主は慌てて口を閉じた。
零れた長い銀髪は1本のお下げに編まれ、見えていた手に負けない白い肌に唇の自然な赤さが映っている。一番の彩りはその両眼。右の金、左の青。その悪戯は視覚的になかなか効果的だ。
レイは少女の顎の下のボタンを外し、脱がせたケープをカウンターに投げた。細い体に纏ったチュニックには袖がなく、肩から剥き出しの細い両腕に何のイカサマも仕組まれていないことを見せる。
「女子どもが苦手な方は、まあ、1回、見るだけにするといい。この店は、腕さえあれば振り手に差別はしないのでな。まあ、この島全体がそうとも言える。筋と道理さえ守れば割と新参者の私でも、こうして居場所が手に入っている」
レイの穏やかな声を聞きながら、少女はコロ入れを手に取った。左右に数回振って感触を確かめる仕草に、驚きの溜息をつく者、数名。小さな島の小さな店の小さなお遊び・・・半分嘲笑まじりに傍観していた百戦錬磨の人間たちの表情を変える効果を、少女の手は持っていたようだ。そしてそれに続く、サイコロひとつひとつを確認しながら落とし入れていく指先は。
「・・・慣れてるな」
「・・・っていうより、こいつは本当の勝負ってことだ」
「客もまっとう、振り手もまっとう。いいんじゃねェか?運試しによ」
まるでサクラのような声を聞きながら、少女はサイコロを入れ終わり、コロ入れを振りはじめた。何の予告もないその動きに、張り手たちは一瞬でテーブルの上から手を引いた。
「では、最初の場はこれで締め切りだ」
レイの声を背景に小さく響く空切音。左、右、そして左。その音を聞き逃すまいと、店内の空気が静まり返った。全ての視線が追う中で、少女の全身の集中が高まり、唇が少しだけ曲線を外す。
ふっと小さく息を吐きながら、少女は最高の速さに達していたコロ入れをピシリとテーブルに伏せた。
「おい・・・そんな簡単に・・・」
「お、開くぞ」
ショーらしく見せる時間を取るわけでもなく、白い手はスッとコロ入れを上げた。
現れた光景は一見とてもシンプルだ。柱が2つ。1本はサイコロ4個、そして他方にまっすぐ3個。7つあるサイコロのうち、つまり、数としては天辺の目だけがポイントであり、計算は簡単だ。が。
一瞬の間をおいて店内に歓声が溢れた。
計算はいらない。条件は簡単、上から5つ以内の手であれば、なのだから。
この一瞬の間があまり得意でない少女は、一転して沸き返った空気に、やっと、ゆっくり微笑した。
「今夜も相当疲れたな、
エンジェル」
レイはカウンターの裏に回った。その奥、カーテンで仕切られた小部屋は物入れも兼ねているのだが、そこに置かれたソファに少女は深く座っていた。
「もっと全身預けて一眠りするといいだろうに。お前のおかげで盛り上がった店の面倒をもう少し見ねェと、今夜は抜けられそうにない。しばし、待て。無理かもしれないが、少しでも眠れ。雑用を一回りこなしたら、送っていく」
「1人で大丈夫だよ。ありがとう、レイ。まだ普通の家でもちょっと遅れた晩御飯ってとこもある時間だもん。ちょっとだけ休んだら、こっそり帰るから」
場を3つほどたてると少女の全身に疲労がたまる。恐らく体力というよりも精神力を消耗し尽くすのだろう。笑顔とけなげな言葉で隠そうとするそれが、かなりのものであることはレイにはすぐに見て取れる。しかし、この少女は店では転寝ひとつしない。誰にしつけられてものか、年齢に関係なく、店という場所ではしっかり玄人なのだ。レイは少女のこの顔しか、知らない。そのことに簡単に同情するレイではないが、興味はそそられる。こういう少女が将来、いったいどんな女に育つのか見たいものだと思い、自分の気の早さに苦笑する。
「空腹ではないか?冷えた飲み物がいいかな?それとも・・・」
少女は笑顔で首を横に振った。
もしかしたら自分は一人になりたいはずのこの少女の邪魔をしているだけかもしれない。レイは苦笑を深めた。
「あんたほどの人がなぁ・・・なかなか珍しいところを見せてもらったい。レイリー・・・いや、ここはレイさんだったよい」
背後から聞こえてきたどことなく暢気な声に振り向いた時、レイの顔には歓迎の笑みが浮かんでいた。そして、その笑みはすぐに驚きの色が混ざったものに変化した。
「おっとっとい・・・この様子じゃまだやっとるんだな、サイコロ振り。・・・
エンジェル?」
のんびりした口調のまま、男は自分の腕の中に飛び込んできた少女を受け止め、そっと顔を覗いた。その時、男の顔によぎった真面目な色は、またすぐにやわらかな笑みの中に消えた。
「マルコ。お帰りなさい、マルコ」
年齢不相応に大人と対等に口をきく少女はどこへ行った?
神がかり的にも見える技で今日も大役を3回決めたコロ振りの気迫は?
「ああ、ただいまよい。ほら、お前はまたこんなにきっちり髪を結わえこまなくても、もういいんだろい?仕事が終わったなら、楽にしな」
「店ではほどいたこと・・・」
「大丈夫だい、後は帰るだけだろ?ちゃんと送ってってやるよい」
目の前のこの光景をどうとらえるべきか。人生経験の豊富さはそこそこのものだろうと自負しているレイだったが、自分の今の状態が『呆気にとられた』というものであると気がつくまでに、しばしかかった。
年齢的には親子といってもさほど不自然ではない組み合わせだろう。しかし、どう見てもそうではない。空気の色が違う。このマルコという男にはそういう恋愛傾向があったのかと考えてもいいが、そうではない。長いお下げ髪をほどいてやっているマルコの手を見ているとよくわかる。口では落ち着いたことを言っているが、まったく慣れていない。おまけに壊れ物を扱っているみたいに、気を使いながら丁寧だ。
では、何だ。
とにかくわかるのは、少女が・・・
エンジェルがマルコに見せている顔は、聞かせている話し方は、この3ヶ月では誰にも見せていないものだろうということだ。年に似合った素直さ。そして解いた髪の優美。マルコが手ぐしで整えてやっている長い髪は、ほどくともともとの銀色に内側に隠れていた金色が加わって薄明かりを反射している。
「海の上の垢を落としにきたのではないのか?酒と・・・いや、旨い酒で」
レイは自分がマルコの年ほどの頃を思い出していた。久しぶりの陸に上がるとまず揺れがないことに慣れるまで数分かかる。でもその時間が過ぎてしまえば、まるで別世界のように眩しく見え、心躍ったものだ。旨い酒と情の深いいい女たち。その時間の魔法ゆえに馬鹿なこともたくさんやった。後悔する気は今でもないが。
「ああ、すぐにみんな来るからいろいろと世話してやってくれよい。・・・あんたみたいな人に頼んじまっていいんだか、何だか不思議な気がするがなぁ。俺は先ず、オヤジに蔵出ししたばっかりの島の酒を一樽もらいに来たんだよい」
「1番隊隊長自ら、か」
「いつも楽しみにしてるからなァ、島の酒。船を下りるにはまだ時間がかかるし。美人ナースたちが囲んでワイワイやっとるわい」
言いながらマルコは、いつの間にか静かになっている自分の腕の中を見下ろした。
「・・・眠ったよい」
「・・・ほぅ?」
「寝顔はちっとも変わらんなァ」
「・・・ふむ」
実は眠ったところを見るのは初めてだ、とはレイにはなぜか言えなかった。あまりに当たり前のように言ったマルコの口調に堰き止められてしまったのかもしれない。
「寝かせるか?」
「いや、抱えて送っていくよい。店じゃすぐに目を覚ましてしまうだろう。船に連れてってもいいんだが、大歓迎して起こしちまうに決まってる野郎が何人かいるしなァ。すまんな、レイさん、ドアだけ開けてくれ」
マルコは
エンジェルの体を静かに抱き上げた。その時、何かがふわりと床に落ちた。
「うん・・・?」
レイが指先で摘んだのは、1枚の白い羽だった。それを見たマルコは、
エンジェルの顔を見下ろした。
「そうか、髪の中に編みこんどるんだ、相変わらず」
その日一番やわらかなマルコの笑みは、その唇にしばらく留まった。
「縁起物というヤツかな?」
レイの問いにマルコは少々照れた様子になった。
「いや・・・ただの羽だよい、俺のなァ。もうずっと前の話だ」
「不死鳥の羽だというのか?実体のある?」
レイは首を傾げた。
「確かに不思議ではあるんだよい。散ったのも落ちたのも、羽は俺が能力を解くと消えるのが普通だからなァ。けど、あの時、
エンジェルの手の中に、この羽は残った。後にも先にも初めてだ」
「それをずっと持っていたのか、
エンジェルは」
「いや・・・何だかお守りだって言うんだよい」
「なるほど、縁起は良さそうだ」
そして『あの時』にあった何かが、少女とこのマルコの繋がりか。レイは小さく頷いた。またひとつ、先に楽しみができた。陸での引退生活も、そう悪いもんじゃない。
「行くなら、たっぷり休ませてやってくれ。戻ったら1杯奢ろう」
レイはドアを開けた。
「悪いなァ。あ、あと、オヤジの樽も忘れずに用意しといてくれよい。
よく冷えたのを持ってってやりたいから」
マルコは羽を自分の胸ポケットにしまい、細い体を抱きなおすと足取り軽く外へ出て行った。
保護者と被保護者。今はそう思っておくのが一番無難かもしれない。それにしても、生まれながらの隊長の器だ。レイはひとつ頷き、顎鬚に軽く触れた。