嫌な予感はあった。
傘を差しているというのに下着までずぶ濡れになって帰宅した
ゆりかは、10分ほどシャワーを浴びてようやく人心地がついた。
「いそいで仕度してるから・・・ご飯」
母の背中に感じる緊張感。
やっぱり。
ゆりかは独り頷いた。この母もやはり予感している・・・
ゆりかと同じことを。
「トマト、洗えばいい?・・・・・すごいね、雨の音」
普通の雨なら2階ではそれなりの音がするが1階ではほとんどわからない。けれど、今日の雨は違っていた。強い風が雨粒を巻き込んで窓ガラスに直接ぶつけ てくる。これは変化球なんてものじゃない。直球、ストレートの連投だ。
台所の窓の向こう、隣家の輪郭がかろうじて滲んで見えた。
あの家ではこんな心細さなんて誰も感じていないだろう。思いながら
ゆりかは母親に笑いかけた。
少し早めの夕食を済ませた頃から予想通り、雷鳴が聞こえ出し、次第に近づいてくるのがわかった。
ゆりかは母親の横顔を一瞥した。
カーテンを引き忘れていた窓をじっと見つめている顔には真剣な表情が浮かんでいた。
何か、言わなくちゃ。
落雷による火事を経験したことがある母親が感じているはずの恐怖がどれほどか、
ゆりかには正確には想像できてはいないのだと思う。ただ、何か・・・・どうにかしたいと焦る気持ちは喉元で空回りするばかりで。
テーブルの上、そっと手を伸ばしかけたその時、大きな音と共に家が揺れ、次の瞬間に照明がすべて消えた。不意に訪れた闇の中、電話があるはずの場所から 何か音が聞こえたかと思ったらその後は一気に静けさに包まれた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
反射的に囁いた
ゆりかは母親の気配を探った。
「・・・そうね。じっと待っていれば・・・・きっとそのうち電気が戻るわね」
明るさを装った細い声はそのまま2人の間の闇に吸い込まれる。
非常用のロウソクは棚の引き出し、懐中電灯は玄関にあるはずだ。とにかく何かしなくては、という気持ちまま立ち上がり、そろそろと摺り足で玄関への廊下 に続くドアを開けた
ゆりかは、タイミングピッタリに叩かれた扉の音に飛び上がった。廊下の先から聞こえるその音に心臓は速くなり、それでも多分その正体を わかった気がして思わず足が速くなった。
「ええと・・・・・どちら様・・・・」
「・・・開けろ、早く」
隆也の声とともに訪れた安堵に膝の力が抜けた
ゆりかはバランスを崩しながら扉に身体をぶつけ、手探りで鍵をあけた。すぐに外から開いた扉の隙間から隆也の手の懐中電灯の明かりが差 し込んだ。
「ひっでぇ雨」
パン、と傘を一振りした隆也の髪から雫が落ちた。
「・・・おばさんが様子を見てくるように隆也に言ってくれたの?」
「うちは男、余ってるからな」
ゆりかの父親が他界した後、そして母親と義理の父親が離婚した後。隆也の母親は何かがあると隆也を
ゆりかの家に走らせるようになった。母親同士は親しい友人であり、娘がいない隆也の母親にとって
ゆりかは時々欲しくてたまらなくなる人形のような存在であるらしく、まるで親戚のような感覚を持っている。善良で天真爛漫な性格から簡 単なことを難しく考えたりすることは一切なく、遠慮無しに
ゆりかの家のテリトリーに入ってくる。
隆也は懐中電灯の光を
ゆりかに向けた。
「・・・・今、灯りを取りに出てきたんだろ。雷が苦手なら何で遠くで鳴り出した頃にちゃんと準備しておかねぇんだよ」
もっともだ。
こくりと頷いた
ゆりかを隆也は目を細めて見下ろした。
「・・・おばさん、そっち?」
「うん。先に行って。わたしは懐中電灯を・・・・」
ゆりかが言い終わる前に隆也が靴箱の上の懐中電灯を照らし出した。
「・・・ありがと」
いつの間に置き場所を覚えていたのだろう。
見上げた
ゆりかは隆也の視線に従い先に立って居間に戻った。
「隆也君が一緒にいてくれると、何だかすごく安心できちゃうわね。ありがとう・・・本当に」
「・・・いえ」
揺れるロウソクの明かりの中、母親の唇がやわらかな曲線を描いた。
気持ちが緩んでしまった
ゆりかは自分が涙ぐんでいることに気がつき、慌てて灯りの中から顔を後ろに引いた。
「お茶・・・淹れるね」
電池で点火するガス台は、停電でもちゃんと火がつく。
ガラスのポットに水を入れながら、
ゆりかは台所の窓を見た。ガラスの向こうは闇の一色。表面を流れる雨粒が生き物のように動いている。その動きを面白いと思い、そんな風 に感じることができるくらい心に余裕が戻ったことに気がついた。
「落ち着け、少し」
顔を覗かせた隆也は相変わらず年上を年上と思っていないような口調で。
「落ち着いたよ、今は。・・・おかげさまで」
ゆりかが素直に言うと隆也は不思議そうに首を傾げた。
「大分遠くなったね、雷」
「そうだな」
夜になったばかりだからいいだろうと、
ゆりかはコーヒーを淹れた。そう言えば隆也はコーヒーを飲めるようになっただろうか。中学生までは何も訊かずに勝手にミルクをたっぷり 加えたカップを渡していたが。それでもはじめの頃は鼻の頭に微かに皺を寄せながら平気なフリをして飲んでいた。そんな姿を思い出して
ゆりかは微笑した。
「もう、お前と同じだけでいいからな、ミルク」
まるで会話の続きのように隆也が言う。
「えっと、残念というか、最近ブラックなんだよね、わたし」
反応を見たくて視線を上げた
ゆりかは隆也に不敵な笑みを向けられた。
「じゃあ、俺も同じでいい」
本当に?
確かめるように視線を強めた
ゆりかに隆也は笑みを向けたまま。
じゃあ、雷が去ったお祝いということで、と小さく乾杯の仕草をしてから3人がコーヒーを一口飲んだのはそれから3分後。2人の小さな勝負がついたのはそ れから10秒後のことだった。