窓辺の席に座ったのは間違いだったかもしれない。
ゆりかは心地よい日差しに半身を包まれながら、ほうっと溜息をついた。
ぬくもりが気持ちから緊張感を奪い、講義に集中することができない。もともと、
ゆりかは誰かが書いた作品そのものにはとても興味を持つが、筆者の個人的な事情には興味を持てない人間だ。だから、一つの作品を正確に 解釈するには作者の生い立ちや歩んできた人生そのものを知ることが大切だ、というこの講義の内容はあまり得意ではない。好きな作品は好き、苦手な作品とは 関わらない・・・・そういうスタンスが自分には一番合っていると思う。例えば、もしも作者が子育てに苦労しながら職を点々とした苦しさから逃れたい気持ち を抱えながら主人公が現実から異世界へトリップする物語を書いたとする。そしてそれが処女作として偶然世に出ることになったとして、それを手にとって読ん だ者は恐らく作者の事情ではなく自分のその時の状態をあてはめたりそこから膨らませて想像しながら作品を楽しむだろう。作品が一人で歩き出すというのはそ ういうことだと
ゆりかは思う。だから、みんなでひとつの解釈を論じ合うことにはあまり興味が湧かない。
・・・・いや、講義からわざわざ意識をそらしている今の自分の状態は、お天気や勉強の好みのせいだけではない。
ゆりかは心の中で首を傾げた。何かが気に掛かっている。心の中にポツンとした点のようなものがあって、それがチクチクと微量なパルスを 意識に送ってくる。これは・・・何だ?
この講義はまだ1講目だ。ということは朝起きてから2時間ほどしか経っていない筈で、そんな短い間に何かあっただろうか。
朝、起きて。
食パンをシナモントーストにして、ミルクを飲んだ。
普通に歯を磨いて洗顔をして自室に上がり、窓から外の天気を確かめたら見事に晴れていて・・・・
あ。
ゆりかはノートの隣りを見た。ガラス越しの陽光の中で
ゆりかの携帯電話がやわらかく輝いていた。
そうだ。アレだ。青い空から視線を下ろして見つけた、あの光景。
隆也が自転車を押しながらゆっくり歩いていた。なぜ歩いているのだろう、と思った次の瞬間、左手で持っている携帯電話を耳にあてていることに気がつい た。隆也の口が動いていた・・・・大きく、小さく。そして話しているうちに表情がいくつも変わった。
真面目な顔をしていたのにすぐに怒っている顔になった。それから何かをぐっと堪えるような顔になり、最後は小さく苦笑した。
ゆりかの部屋の窓から見える分だけで隆也の表情はそれだけ変化し、電話を閉じた隆也は自転車に跨るとスーッと離れて行った。
驚いた。
感情表現が苦手な隆也が、一体誰とあんな風に電話をしていたのだろう。
というか、隆也が携帯電話を持っていることを、
ゆりかは知らなかった。だから勿論、電話番号もメールのアドレスも知らない。そのことになぜか苛々した。
いつから持っていたのだろう。そう・・・・・あれからずっと、気にしないつもりで気に掛かっていた。
なぜこんなに気になるのか、気にすることに意味があるのか。
ゆりかは小さく首を横に振った。
理屈じゃない。
とにかく気になるものはしかたがない。
とは言え、気にしたからといって状況が変わるはずもないことはよくわかっていた。
まったく・・・・・隆也のくせに。
思った後に自分の意味のない強がりにため息をついた。
多分、これは、もしも隆也のような弟が自分にいたら感じるはずのもので、もしかしたら隆也の母親が感じるはずのものなのだろう。もっとも、現実では隆也 の母親は隆也に関しては『タカはしっかりしてるから大丈夫』的な感覚を持っているから、携帯電話で会話している時の表情ひとつひとつなんて注目しないのか もしれないけれど。
ゆりかはブンブンと首を振りかけ、かろうじて堪えた。
平気だ、と自分に語りかけ、それから言葉を、気にする必要ない、に変えた。
気にしてなどいられない。この講義は5回ごとにレポートを出さなければならないのだ。とにかく、内容の骨組みだけでも把握しておかないと、後がきつい。
ゆりかは気を取り直してペンを握る指に力を入れた。
気に、しない。
心の中でもう一度だけ呟き、じっと遠い黒板に目を凝らした。
帰り道。
夕暮れの淡い光の中、
ゆりかは歩きながら思い出し、携帯電話を取り出した。
今日は珍しく一度も通話もメールもなかったな、とふと思う。高校生になり、2年生になった春に母が携帯電話を買いに行こう、と突然言い出した。2度目の 父との離婚の話が時間的にも体力的にも長引いて母も娘も心身ともに消耗しきったのが1年生の丸ごと1年間。すべてが終わり、脱力感に包まれたまま2年生に なった。そんな時、携帯電話を買ってくれると言った母に、
ゆりかは驚きと喜び、そして不安を感じずにはいられなかった。
先ず感じたのが、自分よりも心の傷が深く複雑なはずの母の気持ちだったが、見ればその顔には久しぶりに見る心からのやわらかな笑顔があった。だから、こ れは気持ちがやっと落ち着いたということで、何か楽しめる時間をまた少しずつ持っていこう、という意思の表れなのだと納得し、心にじんわりと喜びが湧き上 がった。
次に感じたのは自分達の家庭の経済状況に対する漠然とした不安で、これについては離婚の話の中ですくなくとも大学を卒業するまでの学費については心配す る必要はない、と聞かされていた。でも、それはあくまで学費のことで、携帯電話まで入ってはいないはずだと思った。おまけに母は、携帯電話の料金は高校生 の間は心配するな、とも言ってくれた。母が言うのだから心配なんてする必要はないのかもしれない。心配したらかえって傷つけるのかもしれない。でも、
ゆりかは喜びながらも、やはり不安を感じてしまうのだ。
そんな
ゆりかに母はニッコリと笑って、「パソコンの代わりにね」と言った。それを聞いて、ああ、と納得した。その時、すでに購入してから3年 くらいになっていたPCは、今は大丈夫でもこれからどんどん時代に置いていかれる事は明らかだった。古くなっても、故障しても、これからはすぐに買い換え る余裕はないのだろう。学校の友人たちの中にも、PCよりも携帯電話を重宝して様々な情報を収集している人間が何人もいる。母はこれからの進学やその先を 見越して、
ゆりかが回りについていけるようにということを考えてくれたのだろう。
「それにね、ほら、お互いに携帯持ってたら、何か安心できる気がしない?わざわざ学校や会社の公衆電話に行かなくていいし、今、外の公衆電話ってなかなか 見つからないものね。呼び出してもらうのも呼び出されるのも、結構緊張するし」
そう言って笑った母の笑顔は本当に心の底からのもので。母が僅かな興奮を隠した口調で一気に話した台詞の長さも嬉しくて。あの日、
ゆりかはこの真っ白な携帯電話を買ってもらったのだ。白は汚れが目立つかもしれない、と一瞬躊躇した。でも、長く大切にするために、買 える範囲のデザインの中で一番好きなものを選ばせてもらおうと思った。汚れてもずっとずっと大事に使おうと決めていた。
ああ。なんだ。
思い当たったら思わず笑ってしまった。
ゆりかにとって、携帯電話を買うということは、持てるということはこのくらい大きな・・・・というか思い入れとか気合たっぷりな出来事 だったのだ。だから、隆也が携帯電話を使っているのを見た時、尚更驚いてしまったのかもしれない。
ゆりかには一大イベントだったが、そう言えば、クラスメートたちにとっては確かに喜ぶべき嬉しいことだったみたいだけど、『高校生に なったんだから』というどこか当然のような受け止め方が普通だったと思う。中学生の時から持っている人だっていた。
隆也は、高校生になったんだから。
そう、やっぱり『当たり前』なのかもしれないな。
で、普通に友達と話したり、メールしたり・・・・
「・・・・なに、壊れたの?携帯」
ゆりかは驚いて、本当に飛び上がってしまった。
振り向くと、隆也が立っていた。表情は変えないまま、目だけを丸くしていた。
「あ・・・ええと・・・お、お帰り〜」
隆也の表情が落ち着いた、と思ったら呆れた、という顔になった。
「お帰り、じゃねぇよ。俺が追いついたのも全く気がついてなかったんだろ。壊れたんじゃねぇんなら、メールか?」
「あ、ああ。いや、そうじゃなくて、何というか・・・・これ、とっても気に入ってるから、まだまだこれからだ、みたいな・・・」
「・・・何だ、それ」
我ながらお粗末な説明だと思う
ゆりかの言葉に、隆也はさらに呆れ顔になった。
あんまりピッタリなタイミングで現れたあんたのせいだよ。
そう思っても言うわけにいかない
ゆりかだった。
「えと・・・今日は練習終わるの、早かったんだね」
そう。隆也はこの頃、また部活が夜まであるようになったみたいだった。だから、顔をあわせるとしたら朝だけで、その朝もタイミングが重なることは本当に たまにしかなかった。
ゆりかの部屋からは隆也の部屋の窓が見える。夕食の後で部屋に戻ったらちょうど灯りが着くのが見えたり、お風呂から上がって戻ったらい つの間にか灯りが着いていたり。そう言えば、いつからか、隆也の部屋の灯りを確認してからカーテンを閉めるのが当たり前になってた。
「たまにはな。そう言えば、お前、その携帯、ほんとに大事に使ってんな。ずっと同じだろ?俺が携帯屋行った時には、もう、売ってなかったぞ」
「あ、隆也も携帯、持ってるんだよね。今年から?」
「ああ。入試の次の日にな」
「・・・・普通は合格してからお祝いに、とかだと思うんだけど。すごく隆也らしい」
隆也はポケットから携帯電話を出した。それから、
ゆりかに差し出したもう片方の手は手の平が上になっていた。
「・・・何?」
「何、じゃなくて、お前の携帯。ちょっと貸せ」
「あ、ああ」
ゆりかがのせると、隆也はふたつの携帯の画面を開いた。
「ええと・・・・っと」
左右の手で同時に操作をする隆也を、
ゆりかは感嘆を隠して黙って眺めていた。
ゆりかは、メールなど文を打つのはそこそこ世間の大学生並みのスピードを持っていると思うのだが、電話の機能に関する諸々には弱い。 はっきり言って苦手だ。とりあえず通話が出来てメールが出来れば不自由はないから、他の設定はいじらない。せいぜい着信のメロディを気に入ったものに変え るくらいだ。
「ほら」
差し出された自分の携帯を
ゆりかは恐る恐る受け取った。
「何、したの?」
「機械音痴は直ってねぇのか。ナンバーとアドレス、交換しただけだよ」
「え・・・・」
えええっ!
口から出たぼんやりした声とは裏腹に、心の中はひっくり返っていた。
「でも、隆也、そんなにたくさんボタンを押した?何回か押しただけみたいだったけど」
「赤外線通信。・・・・てことはやっぱり、お前、相手のメアドをいちいち文字一個ずつ打ち込んでんのか」
「ううん。大抵は相手がわたしのを先に登録してメールを送ってくれるから。・・・・これも胸張れないね」
「張れねぇな」
ゆりかの口は必死でさりげない会話を続けている。
いいぞ、頑張れ。
ゆりかの頭と心の中は、あまりに当たり前な顔で隆也がくれた電話番号とメールアドレスのことでいっぱいになっていた。思い切り分かって しまっていた。朝から妙に気になっていて、それについて考えたりいろいろ理由をこじつけたりしたけれど、結局、
ゆりかは自分が隆也と朝見かけたみたいに携帯電話で会話をしたりメールをしたりすることができないのが寂しかったのだ。
なんだ。
たったそれだけだったんだ。
だから、今、自分でも気がついていなかった願いが突然叶ってしまって、どんな顔をしたらいいのかわからなくなってる。
「携帯買った時、見せに来てくれたらよかったのに」
緩んだ唇がこんな言葉を零してしまった。自分の耳で音を聞くと、改めてこれも本音だと思った。
すると。
自転車のハンドルに手を掛けた隆也は見えるのが横顔だけになったから、もしかしたら見間違いだったのかもしれないけれど。でも・・・・一瞬、隆也の顔が ちょっとだけ赤くなったように
ゆりかには見えた。
「・・・・ガキじゃねぇんだから、物買ってもらったからって見せて歩くかよ」
「でも、シュンなら走ってくると思うな〜。
ゆりか姉ちゃ〜んって」
「あいつはガキだし、そういうキャラだから、いいんだよ」
そう言って隆也は自転車を押して歩きはじめた。
パタパタと慌てて後をついてくる
ゆりかの足音を聞きながら、隆也は短く息を吐いた。
本当は。本当は、あの時。
昼休みに会社を抜け出してきてくれた父親と待ち合わせ、そこそこ大きな店に行って携帯電話を買った。手続きは予想していたよりも簡単で、1時間後くらい にはその電話の機種のロゴが鮮やかに印刷された箱が入った紙袋を提げて1人で歩いていた。本当は学校に行っているべき平日。行けば待っているのは卒業式の 練習と自習ばかりだとわかっているから、1日だけサボった。今思えば、入試が終わったことに浮かれていたのかもしれない。
そんな平日に町を無駄にふらつく気分にもなれなくて、結局はまっすぐ家に帰ろうと電車に乗った。まだ春の気配がまざりだしたばかりの冷たい風の中、駅か ら歩いた。明日にはまた西浦高校のグランドを覗きに行ってみようか・・・・そんなことを考えながら歩いているうち、顔を上げると自分の家よりもまず、
ゆりかの家が目に入った。
ゆりかの家の前、玄関につづく細い通路。気がつくと隆也はそこで足を止めていた。
ゆりかの入試はいつだっただろうか。国立の大学を受けると言っていた。毎晩、
ゆりかの部屋には遅くまで灯りがついていて、それにつられるように隆也もつい必要以上に受験勉強をした。だから、当然隆也の試験はバッ チリで、こうして浮かれて歩く余裕が生まれたのだが。
手に持っている紙袋の重さを意識した。
ゆりかのものとは正反対の黒い色の携帯電話。
もし、見せたら、どんな反応が返ってくるだろう。
アドレスを教えてくれと、言うだろうか。
それとも。
結局、隆也は
ゆりかの家には寄らなかった。受験勉強をしているか、登校日でいないかのどちらかだろうと思ったからだが、それだけではなかったのかも しれない。
「ね、隆也」
ようやく
ゆりかが追いついた。
「メールに記号だらけのあの書き方、しないよね?わたし、アレ、まだうまく読めないんだ」
「するかよ。普通に、喋る言葉のまんま、書く」
「よかった」
いかにも、楽しみにしてると言いたげな
ゆりかの表情に、隆也はため息をついた。それでも、楽しそうな
ゆりかの様子に心のどこかで安堵していた。
「言っとくけど、俺・・・・用事なかったらメールしねぇぞ」
「うん。そういうタイプだってわかってるよ。あ、今度ね、隆也がいるチームの写真、送って?試合、応援に行ける時までに名前、覚えとく」
そんな写真、撮れるか・・・・と思った隆也だが、
ゆりかにふんわりと微笑まれると、ただ、頭を掻くしかなかった。
「そのうち、時間、あったらな」
「うん!」
2人は一瞬の小さな笑みを交わし、そのまま歩き続けた。
その夜、結局どちらの携帯電話にもお互いからの着信はなかった。
ゆりかはベッドサイドに携帯電話を置いて灯りを消し、隆也は机の上に置いたまま灯りを消した。そうして2つの部屋の窓は、ほぼ同時に暗くなった。