自宅の前、あとほんの数歩で玄関のドアに手が届くその場所は、ひとつの恋が終わりを告げるにはあまりふさわしい場所とは思えない。別れを告げられた瞬間、
ゆりかはそんなことを考えた。不思議と驚きはなかった。痛みもなかった。ただ、言葉を普通に受け止めて普通に手を振って別れなければな らないと、そのことばかり考えていた。だから、足早に離れていく後姿を視界に入れながら自然と力が抜けていく身体をどうしてよいかわからず呆けた気分のま ま立ち尽くし、背後から近づく気配に気がつかなかった。
「振られた方がラッキーだったんじゃねぇの。だって、お前、怖がってただろ、あの男のこと・・・・つぅより、男全部」
最初の言葉が耳に届く前にもう気配で誰が後ろに立っているのかわかっていた。
すぐに振り向く気にはなれなかった。向けばきっとまた、会話をするために視線を上向けなければならない身長差がいつの間にできたのかという疑問を感じる だろうし、生意気盛りの年下の幼馴染に思いがけない場面を目撃された動揺を簡単に見せてしまいそうだったから。時々外見が与える雰囲気を綿菓子に例えられ る
ゆりかだが、その中には譲れないもの、守りたいもの、好きなもの、嫌いなもの・・・・そんな色々がしっかりとした芯になって頭の先から つま先までを貫いている。その
ゆりかが譲りたくないものの一つが、この、後ろにいるはずの高校1年生に対する3歳年上という立場による『差』だった。
初めて顔を合わせた子どもの頃は3歳と言えば人生丸ごと半分くらいな差を持っているように感じられたのに、いつの間にか身長を抜かされ走る速さもとっく に負けた。差があったからただ単純に相手を可愛いと、弟がいたらこんな感じなのだと思えていたのに。ここ数ヶ月、何となく落ち着かない気分を抱かせるこの 『隣りの弟』に対してまだまだ
ゆりかは『姉』でいたかった。
「隆也にはまだわからないよ、恋愛。多分・・・」
ようやく口にした台詞がこんな平凡なものでは。
ならば自分はどうなのだと自問すると、自分だって一欠けらも確信できるものはないという答えが出る。ちょっと知りたくなって、できるような気がして手を 伸ばしてみたら、しっぺ返しをくらったような。
ゆりかは意地のようにピンと張っていた肩の力を緩めた。
隆也の言葉を振り返る。自分よりよほど、現実が見えているような言葉だと思いながら。
「別に知りたくねぇし」
「・・・うん。大好きな野球があるから、きっと他は見なくていいのかも。そういうの、いいな。わたしは・・・・・ねえ、どうして怖がってるって思った?隆 也に言われるまでわたし本人はわかってなかったんだけどな」
「・・・お前が怖がらない男なんて、俺ら兄弟ぐらいだろ」
まだ大人の声とは言いがたい、そのくせちゃんと異性の声で隆也が言った。
当たり前のように。
ゆりかは笑った。
「何だか隆也の声を聞いてたら、それでいいんだって思いそうになるよ」
「別に苦手なもんは苦手でいいだろ。それとも、男好きになりてぇ?」
男好き。
隆也が言うとあまりに使い慣れなさそうで、似合わなくて、それがなぜか
ゆりかの心の鎮静剤になる。
「男性全般を大好きになりたいとは思わない。でも、高校生だったのが大学生になったりすると、出会いというか、何というか・・・・人付き合いとか無難にこ なしたいとか思ってたのかな。もしかしたら変われるかも的な感じだったのかも」
「自分は自分だろ。男が怖くて天道虫が怖いのがお前なんだから、無理しても意味あるか?で、いつまで背中に向かってこんな訳わかんねぇ会話を続けさせん だ。こっち、向け。いい加減」
いつからこんな風に生意気な話し方になったんだったか。
ゆりかは苦笑混じりの溜息をついた。
生意気で、ついこの間までは対等意識が強かったはずなのに、いつの間にか保護者的な雰囲気まで身につけ始めて。
「絶対に見せない・・・・振られた顔なんて」
「・・・・自分が振ったようなもんだろ、実際は」
そうなのかもしれない、と今の
ゆりかならわかる。
告白されて気持ちが舞い上がったのは確かだったが、手を繋いだ時には喜びより緊張が強かった。キスを求められた時には戸惑いが緊張を超え、思わず待った をかけて猶予を求めてしまった。恐らくそれがいけなかったのだ。相手にはそれを面白がる余裕などなかっただろうから、ただ気持ちを否定されたように感じた だろう。
「・・・誰かを振った顔なら余計に見せたくない」
「訳わかんねぇな。ま、いいか」
歩き出した隆也はそのまま
ゆりかの横を通り過ぎて自宅に向かって行く。
ゆりかはいつの間にか自分の中にあったはずの動揺が消散しおかしなほど平常に戻っていることに気がついた。
振り向かない、隆也。向くのが面倒なのか、それとも向けば
ゆりかが困ると思っているからか。そんな隆也の背中になぜか気持ちが励まされる。
「隆也!」
声を掛けると隆也は足を止め、それでも前を向いたままでいた。
「・・・何?」
「次の試合、いつ?久しぶりに応援に行きたい」
「・・・夏大まで待て。日にちが決まったら教える。・・・練習試合なんて、絶対顔出すなよ」
「大丈夫、隆也がいいって言う試合にしか行かないよ。でも、すごいな。高校野球って言うと、何か特別な感じがする。眩しいんだよね、全部が」
「・・・・野球だろ、普通の」
それでも
ゆりかは、隆也の声の中に当たり前とは少しだけ違う響きを聞き取った。
興奮と期待。
隆也が隠しているものをこっそり受け止めようと思った。
「強いところと当たればいいね。そしたら、すぐ、しっかり腕試しできるよね」
「あのな・・・普通はとりあえず一勝したいって思うだろ」
「そっかな。他のメンバーはそうかもしれないけど、隆也にはあんまり似合わない感じがする」
「・・・まあ、いいさ。見に来ればわかるだろ」
隆也は
ゆりかに背を向けたまま、再び歩きはじめた。
わかったようなこと、言うなよな。
チームのためには、特に三橋のためには勝つことの方が大事だとわかっていた。でも、どうせ勝ち上がることができれば相手は段々強くなっていくのだ。それ なら最初の試合からそこそこの相手と当たる方が緊張感が心地よく、得るものも大きいかもしれない。そんな自分の思いを見透かしたような
ゆりかの言葉が癪に障るような、逆になぜか嬉しいようなおかしな気分だった。
怖がるなよな、俺のことは。
幼馴染の弟分と見なされることは正直あまり嬉しくない。だが、悪いことばかりでもない。
隆也は足を止め、振り返った。
すると、ほぼ同時に振り向いていたらしい
ゆりかが目を丸くし、照れたように慌てて手を振った。
バ〜カ。振った振られたなんて関係ない、いつもの顔じゃねぇか。
背を向けた隆也の口角が小さく持ち上がった。