夏休み

 **この小咄、ヒロインの名前は『苗字』を指定してお読みください。**

 夏休み。ただそれだけで学校はついこの間まで毎日通ってようやく慣れたはずの場所と違ってしまってるように見える。まず、人の気配が随分バラつ いている。開いていてカーテンが揺れている窓とそうじゃない窓の割合が逆転してる。もしかしたら休み前、土曜日と日曜日の学校もこんな感じだったもかもし れないけれど、どこの部にも結局入りそこなった「帰宅部」のわたしは平日しか学校に来たことがないからわからない。
それから・・・ええと。
わかってる。ただ何となくどこから入っていいのか迷ってるだけ。いや、生徒玄関から普通に入るだけって事だってわかってるんだけど。
上靴はちゃんと靴箱に入っていた。そうだよね、持って帰らなかったもの。持って帰るためのビニール袋までほんとは持ってきてたんだけど、帰りに玄関で一 緒になったクラスメイトたちがみんな置いて帰る様子だったので、わたしだけ・・・っていうのができなかった。みんなそれぞれ部活や補習や夏期講習があるん だなぁ、とあの時思った。夏休みの予定が何にもないのってもしかしたら自分だけかなって。
だから何だ・・・って。何もないけどね。
履き替えた後の靴をそっとしまった。そっと1歩踏み出した後、さらにそっと階段を上がった。そっと、そっと、そっと。ああ、いやだな。誰か歩いてきたら どうしよう。「部活?」とか聞かれたらきっと曖昧な顔で曖昧な言葉を返してしまいそう。だって今の私、きっと曖昧そのもの。「義務教育」って枠さえもう周 りにないんだよね。
我ながら支離滅裂なことばかり考えているうちに教室に着いた。1年7組。表示されたクラス名にこんなに安心するなんて。
廊下の窓から覗いて中に誰もいないことを確認。ふぅ。大丈夫。なるべく静かに戸を開けて教室に入って、一瞬迷った。そう言えば夏休みの1週間前くらいに 席替えがあったんだ。出席番号順だと席がちょうど教室の真ん中あたりになってしまって前後左右にいっぱい人がいる状態がどうも落ち着かなかったんだけど、 席替えしたら窓際になれた。外を眺められるだけで最高だ!・・・だったけど。結局この席にはまだ1回しか座っていない。
机には窓からの陽光があたっていて、手を置くとじんわりとあたたかかった。夏休みが終わったらちゃんと毎日座るからね。心の中で呟きながら椅子を引い て、やっぱりそっと座ってみた。

「・・・あ?」

突然聞こえた短い声に驚いて飛び上がった。ものすごく悪いことをしてる場面を見つかってしまったみたいな気分がいっぱいで。自分が開けっ放しにした戸口 を見てそこに立っている人が誰だか知ってしまい、なぜか余計にパニック状態になった。
阿部君。
野球部で、ポジションはキャッチャーで、背が高くて、でもそれよりも背が高い花井君と一緒にいる時が割りとあって・・・それから。
頭の中身が音を立てて回転してるんじゃないかと思いながら、歩いてくる阿部君を黙って見ていた。
そうだよね。こっちに来るよね。だって・・・阿部君の席、わたしの隣りだから。

「・・・部活?」

阿部君の声は良く通る。どこにいてもすぐにわかる。でも、「隣り合わせの席」の距離で聞くとそれまでと結構違ってる気がしてドキドキしたのを覚えてる。 今の声は覚えていた通りで、でも久しぶりな感じもあって、わたしは首を横に振ることしかできなかった。
阿部君はわたしの様子をちょっと見た後、小さく頷いて視線を外した。興味と意識の圏外。そこに出されたことは安心していいはずなのに。がっかりしなが ら、ホッとしながら、でも鼓動は速くなった。そう、阿部君はあまりお喋りなタイプじゃなかった。野球をしてる時はきっとかなり違うんだろうけど、クラスに いる時は必要な時に必要なことだけ話すタイプに見えた。だから、だと思いたいんだけど、阿部君とは席替えの後に初めて顔を合わせた終業式の日、「よろし く」しか言葉を交わしたことがなかった。なのに今は返事のひとつもできなかったなんて。
せっかく・・・せっかく会えたのに。パニックしてるくせに、その原因はただ嬉しいからだってわかってる。入学式の日から不思議と意識するようになった阿 部君。一緒のクラスだってことが嬉しくて、見てると多分頭の中は野球でいっぱいなんだろうってわかってきて、真面目な顔をしてる時は次の試合のことを考え てるのかななんて想像した。たまに誰かに見せる笑顔に勝手にズン、と直撃されて熱くなった顔を伏せたり。毎日毎日元気を貰ってた。
極めつけがあの桐青高校との初戦。まだ馴染みきっていないクラスメイトたちにこっそり混ざってスタンドに入って、生まれて初めて間の前でプレーされる本 物の野球を見た。一瞬も目を離せなかった。雨が降ってきたときもじっと座ってそれまでに見たものを思い返していた。あんなに興奮したのは初めてかもしれな い。おかげで夜には熱を出してしまったけど。
それからあの・・・美丞大狭山高校との5回戦・・・。あの日の夜は眠れなかった。
その阿部君が今隣にいて、重たそうなバッグを机にのせてる。足を前にのばしてちょっとリラックスして。
目の前に、いる。
夏休みが終わるまで顔を見られないだろうと思っていたのに。こんな幸運、きっともうない。

「阿部君は・・・野球部、練習?」

・・・声が裏返りかけ、自己嫌悪。阿部君は気がついた様子もなく普通に視線をくれた。

「いや、今日は午後から。志賀に呼ばれたんだけど、見かけてねェ?」

志賀・・・先生?ええと、数学の先生、だったよね。メガネの。あ、そうか、野球部の顧問だ。

「見てないよ。あの、わたしも来たばかりだし」

今度は普通の声が出せた。よかった。

「ああ、会議があるとか言ってたからなぁ」

お喋り好きな男子なら、それかわたしが阿部君の仲良しだったら、きっとこの後に「おまえはどうした?」とかいう感じに声をかけてもらえたのかもしれな い。マネージャーの篠岡さんとかだったら多分。でも、阿部君は口を閉じてしまった。でも、でも、視線がまだ外れない。

「えと・・・わたし、ちょっと職員室に用事があって・・・」

体が本調子に戻ったことなどなどの報告に。
阿部君は不思議そうな顔をした。

「・・・職員室?」

じゃあ、なんで今まだここにいるのか。それはあまり説明しやすいものじゃない。

「・・・うん。でも、あそこはあまり得意じゃなくて、何と言うか・・・気持ちの準備をしたくて。大げさだけど」

「・・・ああ」

一応頷いてくれたけど、阿部君ならこんな風に職員室を怖がったりしないんだろうな。背筋をピンと伸ばして入っていって、よく通る声で挨拶して、テキパキ 用事を終わらせるんだろうな。
本当は勇気を出してもっとお喋りをしたかった。だけどグズグズしてるところを見られたくなかった。
立ち上がると阿部君の視線も上向いた。ふふ、阿部君よりも大きいなんて、不思議な感じ。思った次の瞬間、視線が逆転してわたしが阿部君を見上げていた。 阿部君がわたしに続いて立ち上がったから。

「行くぞ」

「え?」

「職員室。俺も志賀、探すから」

ええっ!心の中でこう叫んでしまったくらい驚いた。
職員室まで、一緒に?
いいの?
わたしが1人で突っ立っている間に阿部君はスタスタと戸口まで歩き、振り向いた。

「まだその準備ってのが終わってないなら、先行くぞ?」

阿部君・・・口の端だけほんの少し笑った?

「行く!行くから・・・待って」

素直に言えたのは多分その小さな笑顔のおかげ。
慌てるわたしの先に立って阿部君は歩き出す。
わたしは歩幅の違いを歩数で埋めながら白いシャツを着た背中を追った。1歩、1歩、次の1歩。一緒に歩けるひとつずつを大切に数えながら。



行ってしまえば職員室はけっして怖いところではなかった。入学してすぐに体調を崩しがちになってしまったわたしのことを、担任の先生だけではなく他の先 生も気遣ってくれた。
職員室を出るときに素早く見回してみたけど、阿部君の姿はなかった。志賀先生にちゃんと会えたのかな。もしかしたらもう野球部がいつもつかってる第2グ ラウンドに行っちゃったかもしれないね。
ようやく、今日阿部君とたくさん(わたしにしては)話せたことを振り返る余裕ができて、顔がにやけてしまわないように気をつけながら玄関まで歩いた。
今日、来てよかった。あんな風に2人きりじゃなかったら、きっとちゃんと返事もできなかった。
外に出ると強い日差しに一気におそわれた。でも、大丈夫。負けて立ちくらんだりしない。まだこんなに嬉しくてこんなにドキドキしてるから。早足で歩きな がら無敵の気分で空を振り仰いだ。

1本立つひまわりの写真千堂!」

声が聞こえた。大きくてよく通る、阿部君の声。
え、どこから?後ろ?
振り返ると開いてる窓のひとつから軽く身を乗り出してる阿部君が見えた。
うわ、どうしよう。
阿部君、わたしの名前、知ってた!
印象なんてすごく薄いだろうからきっとまだ覚えてくれてないと思ってた。
ううう、そんなに思い切りの笑顔になろうとするな、わたしの顔。そんなバカ正直に。

「阿部・・・君?」

「忘れ物してるぞ。玄関、戻れ」

そう言って阿部君の姿は窓から消えた。
ええと。忘れ物って・・・。
玄関に走っていくともう阿部君が立っていた。

「お前、これを丸ごと忘れてくってどうよ」

差し出してくれてるのはお財布と定期券ぐらいしか入っていないペタンコのわたしの鞄。
うわぁ。我ながら絶句した。

「あの・・・ありがとう」

「そんなに苦手か?職員室」

阿部君の顔、はっきりした笑顔になっていた。

「ううん。行ってみたら大丈夫だった。もう全然平気」

「そ。よかったな」

  「うん」

阿部君はちょっと片手を上げ、背中を向けて離れて行った。
ありがとう。ありがとう、阿部君。
外に出てまた陽光の中に立つと、耳に苗字を呼んでくれた阿部君の声が蘇った。
ふふ。
数歩はおとなしく歩いたけれど、それからスキップしてみた。最初は馬のギャロップみたいになってしまったけど、5回目くらいはうまくいった。
どの窓だったかな。
足を止めて振り返ると白いカーテンが大きく揺れるのが見えた。
その上の空がとても青かった。

2009.7.5

千堂さんからいただいたリクエストは「おお振り。夏休み中に用事があって登校した夢主と 部活で学校に来ていた阿部君がバッタリ」
ひまわりは阿部君の後姿のイメージで。

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