海の呼び声


 そのホビットは静かにペンを置いた。
 それから静かに窓の外に目を向けた。
 茶色いくせ毛、遠くを見つめる透明な光を湛えた瞳、胸元に下がる鎖の先には白く輝く石が揺れる。
 彼は自分の心が穏やかであることが嬉しかった。
 もう、恐れるものはない。
 ・・・自分を恐れる必要もない。
 目を閉じて耳を澄ますと、どこか不思議に懐かしい音がはっきりと聞こえる気がする。

(はじめてこの音を聞いたのはいつだったか・・・・・・)

 遠く感じる日、夢の中で聞いた気がした。
 帰りの旅の途中の裂け谷で、聞こえないのがとても嫌だった。
 それから・・・・・・。
 袋小路屋敷の書斎の書き物机に向かいながら、フロド・バギンズは白い石を握り締めて想いを飛ばした。



(憶えている・・・・・・)

 息がさらわれそうに重厚で熱い空気と闇の中、時折立ち上る紅蓮の焔。
 1歩1歩踏みしめて進んでいく自分の姿を、なぜかはっきりと見下ろしているように感じた瞬間。
 フロドの心は闇に堕ち、指輪に囚われて結びついた。闇も熱風もたちどころに消散し、水平線が果てしなく眼前に開けた。ホビットである自分はそれを恐れるべきだと感じながらも、フロドの心に湧きあがったのは暗い歓喜の渦だった。彼の元に飛び来るいくつもの黒い影が見えた。それは恐怖を担う存在であるはずだったが、彼の両手でつかみ引き裂くことも、彼に従わせることも容易いように思えた。

 フロドに飛び掛ったのは1匹の哀れな僕(しもべ)・・・・。年老いてなお魂を捧げ続ける矮小な存在であった。憎悪と盲愛を心に抱いたそれは、彼の指とともに歓喜の源を奪い去った。その瞬間に、かのものの名前を思い出した・・・・・ゴクリ。真の名をスメアゴル。混乱する心のまま、フロドは全身が脱力するままに膝をついた。
 奈落の底に轟音とともに煮えたぎる紅が見えた。そのまま吸い込まれそうに感じた時、落ちて行ったのは指輪を手にしたスメアゴルだった。その歓喜の声も絶望の声も、発しているのは自分であるように思え、フロドは意識が遠のいていくのを感じた。

 そのフロドを現世に引き戻してくれたのは、サムの忠実で安心できる腕だった。サムの腕で抱え上げられた時、失いかけていた自分が一気に体内に流れ込んでくるような感じがした。いつの時も彼を信じて支え続けてくれたこのホビット、サムワイズ・ギャムジー。サムの信念が、サムの心の中の自分が本当のフロド、そうでありたい自分を立ち上がらせたのだと・・・・・。
 フロドは耳を澄ませた。波の音の代わりに、遠くで幼子と彼女をあやすサムの声が聞こえた気がした。

(夕星の姫・・・・・・)

 フロドは自分の手の中の白い宝石を見つめた。尊く、光の中に佇むエルフの女性の姿、そして声が心に蘇る。アルウェン・ウンドミエル。その宿命に従って最後まで中つ国にとどまることを決めた女性。誰よりも美しい存在。
 アルウェンがこの白い石を渡してくれたあの時、西方への道を示してくれた時、フロドは自分の耳に聞こえる海の音に半分しか耳を傾けていなかった。フロドは願っていたのだ・・・・懐かしいシャイアに帰り愛情と光に包まれた生活に戻ることを。そして・・・・「九本指のフロドと勇者サムワイズの話」をその耳で聞くことを。

 しかし。
 指輪がこの世から失われてしまった時、フロドの心の中には埋めることが出来ない喪失感が生まれてしまった。
 そして。
 フロドだけは知っていた。自分は指輪を棄却するという大切な使命をまっとうできなかったのだということを。ともにあの場にいたサムは、すべてを知った上でそれをフロドの偉業だと自分のこと以上に胸を張ってくれるけれど、フロドは指輪の闇に堕ちたのだ。もしもあの時スメアゴルがいなかったら・・・・・。
 そのことをもフロドは苦しみ続けてきた。イシリアンで、ゴンドールで大きい人たちが彼を取り囲んで褒め称えてくれた。その晴れがましさと誇らしさを感じる時、いつも心の中にあの時の闇が蘇った。指輪が消滅したことを誰よりも喜ばなければいけない気がするのに、失われてしまったことへの心の苦しみようはなんだろう。

 ビルボなら、そしてあのスメアゴルなら、きっとこの気持ちをわかるのだろう。
 懐かしくて大切な義父と指輪と運命をともにした老いた魂なら。
 指輪に囚われた二つの魂。そのどちらもが自分よりも強いようにフロドには思えた。時折蘇る記憶にさまようビルボ。ついにはその手にした指輪とともに滅んでいったスメアゴル。あのとき、もしもフロドが指輪とともに落ちていたなら、誰の名を口にしていただろう。
 他のものにはわからない。ガンダルフもアルウェン姫も、多分察してくれていることと思う。けれど、この苦しみの真髄は他の誰にもわからない。わかってはいけないのだ。
 そしていつの頃からか、フロドはアルウェンのあの時の言葉を繰り返して思い出すようになっていた。傷跡が痛み、身体に食い込む発作が起こるたび、白い石を握りしめてアルウェンの言葉を何度も辿った。いっそゴンドールへ行き、彼女に会おうかとも考えた。しかし、会えば心の苦しみを底の底まで見て取られてしまう・・・・そのことが怖かった。

(ごめんなさい、アルウェン姫)

 アルウェンの言葉の意味を、そしてこめられた深い想いをしっかりと受け止めようとしなかったことをフロドは思った。シャイアに戻って輝かしく生きる自分の姿を願った日々。それはほんの束の間で、そのあとはいつだってアルウェンに感謝しながら日々を過ごした。

(サム・・・・・)

 吹いてくる風が、サムの笑い声を届けてくれた。
 忠実で賢明で愛しいサム。
 恐らく、フロドの旅立ちを知った時、サムは悲しんでくれるだろう。そのことはフロドにとっては救いともいえた。そして、サムには戻るべき場所と家族がある。それがフロドには嬉しかった。
 フロドのためにほんの少しの間指輪をはめてしまったサム。強くて純朴な心は指輪の力の大部分をはね返しただろうけれど、それでも心に傷を残さないではいない。フロドはそのことをすまないと思った。
 サムがいなかったら、フロドは進み続けることは出来なかった。
 サムがいなかったら、シャイアもゴンドールも・・・・中つ国全部がサウロンの手に落ちていた。
 それでも、フロドは、指輪の傷は自分ひとりで背負いたかった。
 サムにはいつまでもサムらしくあってほしかった。
 誰よりもフロドの近くにいてくれたサム。

(大丈夫、お前の順番がくるのはまだずっとずっと先のことだよ。そのとき、僕はどうなっているのか、よくわからないんだけど・・・・・・)

 フロドはまた目を閉じて、波の音に身を任せた。
 ずっと避けてきた遠い音。
 聞こえると心が騒いで苦しかった自分を呼ぶ声。
 それが、今、とても穏やかで永遠を告げるもののように心に響く。

(明日、僕たちは船に乗る。光の中へ、真っ白な岸辺へ漕ぎ出すんだ)

 フロドの唇には静かな笑みが浮かんでいた。
 置いてゆく者、まだ見ぬ未来・・・・・中つ国を去ろうとする者としての心の底から溢れ出る想いがそこにあった。
 
2004.10.22

10,000を踏んでくださったkaliさんが下さったリクエスト
読ませていただいたとき、心が震えました
「棄却後・フロド・ゴクリ」
棄却後のフロドがゴクリのことをどのように思っていたのか・・・
で、決めました
今の時点の自分が書きたかった「海の呼び声」と書こうと

正直、まだこのお話では、kaliさんのリクエストをちゃんと
書き切る事が出来ていない気がします
これが、今の自分のせいいっぱい
夢中になってしまったので、落ち着いて時間をかけて
考えることもできない・・・・というよりもしたくありませんでした
kaliさん、思いっきり一気に書いてしまってゴメンナサイ
あとで、気持ちが落ち着いたら手直しはいるかもしれませんが
10,000Hitの感謝をこめて!