紫煙


 
(今年も、また・・・・ちゃんとこの日が来るんですよね)

 野原の中で大きく天に向けて枝を広げるマルローン樹。光を抱くとも放射するとも見える美しいその木の下に、そのホビットはやってきた。ぬくもりのある地面に膝をつきそっと樹の幹に触れた仕草は、大切な人とその記憶をより鮮やかに蘇らせるための儀式のようなものだ。シャイアが穏やかに、豊穣に恵まれた年を重ねるほどにあの闇と焔の中の戦いの記憶は自然と薄れていく。それは良いことなのだろう、多分。そう思いながらもホビットは毎年ここでこうして木肌に触れるたびにあの熱を、渇きを、背負って歩いた大切な人の重さを心の中にそっくりそのまま取り戻す。

(みんな、元気ですよ、フロド様。きっとあなたにはいろいろな場所からみんなの声が聞こえていますよね)

 彼の人が旅立ってから最初の年、その次の年。この日、みんなの足は自然とこの木の下に向いて集った。でも今年はそれぞれに離れることができない場所ができていた。ホビットは自分の場所がここで・・・この緑のシャイアでよかったと密かに安堵していた。ここならば彼はたとえ身体が熱を出そうとも這ってでも来ることができる。
 ここにいなくてもそれぞれの場所で自分以外の者たちも想いを馳せていることは知っていた。離れていてもそれを思うと心温かく、他の者の分までこの木の下に長くいようと朝早く出てきたのだったが。

(いつまでたっても・・・あなたが戻ってこないということに慣れないんですよ、俺は)

 温かかった筈の心に、ふと、微小な隙間風が通り抜ける。
 一家の主になり、子供達を育て、シャイアを豊かな土地に戻すことに心と身体のありったけを注いできた。気恥ずかしくも名前に『殿』をつけて呼ばれる機会も増えた。
 でも、自分は。
 堪えきれずに泣きじゃくりながら主を見送ったあの日の自分と、実はまったく変わっていないのだ。ズボンの腰周りのサイズばかりが大きくなった立派な大人の顔をして見せている愚か者。かつて勇者と主のあの声が呼んでくれた・・・サムワイズ・ギャムジー。
 サムワイズの手は木肌を何度も撫ぜた。そして額をおしあてた。

(俺は・・・こんなにも・・・・フロド様・・・)

「サム!」

 野原を横切る風に乗って響いた声に、サムワイズは驚いて顔を上げた。
 聞いたことがあるこの響き。でも、久しく聞いたことがないはずの声。これは・・・この声は。

「馳夫さん!」

 呼んでしまってから慌てて口を押さえた。
 背が高く手足が長いその姿に黒い装束とマントをまとった一人の大きい人の姿は、一度に時間を元に戻してしまったのだ。この人は今はもう大国の王様ではないか。サムワイズが目を見開いて見守る中、その姿は軽やかに地を駆けてきた。

「やっと来れたぞ、サム!お前も家族も、皆息災か?その懐かしい姿は少しも変わらんな」

「あなたこそ!馳・・・・い、いえ、王様・・・いや・・・あの・・・」

 口ごもるサムワイズの背中をアラゴルンの手が力いっぱい叩いた。

「懐かしい名前で結構!そのつもりで少々懐かしい気分がする服装を整えて馬はシャイアの外に預けて歩いてきたのだから」

 マント、ブーツ、長剣。何もかも、そして何よりもその笑顔が懐かしかった。

「アルウェン様はお元気ですか?」

「ああ。日に日に輝きを増していくようだ。エルフとは誠に稀有な種族よ。そしてこれはな・・・わかるかな?お前が知っている別のエルフと彼よりは背が低いその友から託されたものだ」

 アラゴルンは懐から大切そうに革でグルグルと巻かれた包みを取り出し、静かに広げた。
 パイプ。
 サムワイズは2本のパイプを見て目を丸くした。ホビットが咥えるのにピッタリの大きさのそれらは、片方は木、もう片方は石のものだった。どちらも丁寧に細工されて磨き上げられているところは同じだったが、それぞれに個性があった。
 眺めていると懐かしい二人の聞いている者たちが思わず微笑んでしまうようなやりとりが蘇ってくる。エルフとドワーフ。種族の間の様々なものを超えて結びついた友情だった。

「二人ともフロドにそのパイプを見せた後は、お前に使って欲しいと手紙の中に書いてきたぞ」

「勿体無いです・・・俺には」

 言いながらサムワイズはパイプをそっと持ち上げて梢に向かって差し上げた。
 大切な主によく見えるように。
 サムワイズの表情を追っていたアラゴルンの口元に幾つかの感情が通り過ぎ、最後に微笑が浮かんだ。

「・・・辛いか?サム」

 主を失い、そして・・・あの指輪を失ったことが。指輪のことを思うと今もアラゴルンの心の中は激しく波立つ。ほんのひと時でもあの指輪の力を感じた者は見えないどこかに影響を受けないではいられないのだと知っていた。だからこそ、彼はこの忠実で穏やかなホビットの顔を見に来ないではいられなかったのだ。きっとフロドもいつまでも気にかけているだろう、この姿を。
 サムワイズはゆっくりと目をぬぐった。

「・・・俺は大丈夫ですよ、馳夫さん。こうしてあなたが来てくれて・・・きっとフロド様も喜んでいなさるから。俺はこのシャイアでいっぱい生きて、食べて、笑って・・・・それから・・・いつか、フロド様のところに行きます。それがわかっているから、辛いことなんかないんです」

 お前を支えているのはフロドなのか。離れてしまっても。月日がどれだけたとうとも。
 アラゴルンは微笑を深め、サムワイズの背中に手を回して強く抱いた。

「それでこそサムワイズ・ギャムジーだ。お前の中にある強くて尊い魂に幸いあれ。さあ、ではパイプに火を入れてフロドと一緒に味わおうではないか」

 アラゴルンが地面に座って足を投げ出すと、サムは笑いながら隣りに腰を下ろした。

「ガンダルフは不思議な形の煙を吐くのが上手かったですよね。俺たちもどっちが見事に大きな輪を作れるか、競争しませんか?」

「受けて立つぞ、サムワイズ!」

 二人は指先を駆使してパイプ草を詰め、火をつけた。
 互いに吐いた最初の輪は笑ってしまって小さかった。
 ひとつ、またひとつ。
 輪は揺れながら空気の中に広がって消えていく。
 
 フロドのために

 大小と身体の大きさが異なる二人の心の中には同じ言葉が浮かんでいたかもしれない。
 二人はそのままサムワイズの家族のにぎやかな声が聞こえてくるまで、並んで空を見上げ続けた。


2006.9.22

今年も9月22日が来ましたね
久しぶりに映画のサントラを聴きながら書いていたら、思わず涙しそうになってしまいました
いつまでも特別な二人、特別な物語、特別な映画
フロド、ビルボ、お誕生日おめでとう!!