慕焦



 小道を歩くホビットの口から、ふと、溜息が漏れた。
 毎年、この日、ホビットはこの道を歩く。あの大きな木の下へ行くために。そこへ行くのは別に1年のうちその日だけということではなかったが、たとえ場所は同じでも、その日にそこへ向かうことは彼にとって特別なことだった。
 また一つ、溜息が風に混じった。
 これではいけない。
 サムワイズは頭を左右に大きく振った。これではまるで彼が今年は行くことを嫌がっているようではないか。そうではないのだ。むしろ、逆なのかもしれない。
 サムワイズはそこへ行き・・・・・そこで止まってしまいたくないのだ。

(何だか年をとった気がする・・・なんて、俺が言ったらおかしいでしょうか、フロド様)

 サムの心はごく自然に彼がずっと大切に思っている人の名前を呼ぶ。

(俺は・・・・何だか変なんです、この頃)

 あの忘れられない日々の後、サムワイズはシャイアの要職を任せられ、そのことに誇りを持って励んできた。ホビットは農耕をこよなく愛し大地の恵みとともに生きる者たちだから、争いをそもそも好まない。けれど、それでも、いや、それだからこそ、サムの元に持ち込まれる些細で真面目な問題は山のようにある。
 その年に作付けする作物の種類の選定と割合の決定。
 卵を産まなくなったというメンドリに効果がある薬草や飼料の調査。
 心に想う異性へのアプローチの仕方。
 その年一番に咲くマルローンの花を当てっこする小さな祭りの準備。
 結婚式や誕生日への参列と挨拶。
 新しく作る家の扉を丸いものにするかどうかでもめる若夫婦とその一族の仲裁。
 まだまだ、まだまだ、ある。
 こんな一つ一つが毎日幾つも降ってくる。
 以前、サムワイズが一時親しくできていた大きな人が・・・・その人は今は一国の王となっているのだが・・・・「信頼できると信じる者にどれほどを任せることができるか、というのも人の上にたたなければならない立ち場の者には重要なことであり、その人間の器を量る目安にもなる」と言ったことがあった。その言葉をサムワイズは今、少々痛む気持ちで思い出す。

(駄目なんですよ、フロド様。俺は最近何でも自分が何とかしなくちゃいけないと思っちまう。器が小さくなっちまったのかな。だから・・・)

 そのことを『責任感が強い』と言って誉めてくれる者もいる。でも、違う。サムワイズだけはそれが全く違うことを知っている。
 サムワイズは手を胸の前まで持ち上げ、それをじっと見下ろした。
 節くれだった頑丈な手。
 大切な主人とは全然違う手。

 その手が僕をずっと掴まえててくれたんだね、サム

 そう言ってくれた温かな声が耳の中に蘇る。

(この手も・・・・何だかすこし皺が出てきた気がするんです。ゴツゴツしてるのは同じだけど、前はもっとパンパンだったような)

 サム

 大切な主人が笑いながら名を呼んで、この手にその手を重ねてくれた温度。
 フロドの手はきっと以前と少しも変わっていないだろう。ペンを持つのが良く似合う、滑らかな肌の白い手。

(いつかフロド様のところに行けても、きっと俺だけがすっかり変わっちまってるかもしれない。顔を見てもわかっていただけないかもしれないし、俺、何の役にもたてないかもしれない・・・・)

 焦燥が熱く胸の中で燃える。
 妻を愛している、と思う。子ども達を可愛いと思う。けれど胸の中がジリジリと熱くなる。間に合わない、間に合わない、と知らない声が囁きかける。
 主人への敬慕とあの指輪をその手にしたことから来る姿の見えない喪失感。サムワイズの中に滾りはじめているのはその両方が混じり合ってできたものなのかもしれない。ただ、本人はまだそれをはっきり自覚できず、おさまらない気持ちに時折小さく息を吐くのだ。

(まだ、なんでしょうか、フロド様。俺は・・・・俺は今、あなたに会いたいんです。あなたのお顔を見ながらお誕生日のお祝いを伝えたい)

 大切な人をいつまでも大切に思い続ける喜びと苦しみ。
 指輪に触れたほんのひと時が心に落とした影。
 わかっている・・・・どれもずっと抱えていかなければならないものなのだということは。それを失くしたら彼はサムワイズ・ギャムジーではない者になってしまうだろうから。

 ふと、鳥の鳴き声と羽ばたきを聞いたように思ったサムワイズは顔を上げて空を見た。これも最近、よくあることだった。羽の細長い白い鳥が空を行き過ぎるのを見て声を聞く。そうするとサムワイズの中にどこか郷愁にも似た強い感情が沸き立ち、しばらくの間じっと空を見る。そんな時、不思議なことに耳の中にはあの灰色港で初めて聞いた波の音が聞こえだす。音が聞こえ、連なる波を思い出し、フロドをのせた船の航跡が音もなく広がっていく光景を思い浮かべる。

(レゴラスが話していた鳥が、きっとあれなんですね。俺、最近少しあの時のレゴラスの気持ちがわかる気がします)

 鳥の鳴き声に呼ばれ、まだ見ぬ遠い島に思いを馳せ。
 サムワイズは空を見たまま、やがてゆっくりと微笑した。

(焦りは禁物。わかってます。今ここにガンダルフがいたら、杖で尻を叩かれたかもしれないですね)

 きっと来年はもっと辛くなり、その次の年はさらに辛くなる。
 サムワイズの唇が直線に引き結ばれた。

(大丈夫です。俺のなんてあなたのあの苦しみに比べたら・・・・フロド様。俺は、何がどうなってもあなたがずっと待っていてくださることを知ってますから)

 サムワイズは再び微笑んだ。
 背筋をピンと伸ばした。
 足取りが徐々に速くなり、やがてサムワイズは走りはじめた。

(待っててください、フロド様。すぐ、行きますから)

 雲間から差した陽光の下、マルローン樹の葉が鮮やかに輝いた。


2007.9.22

今年も9月22日が来ましたね
やっぱりいつまでも特別な二人、特別な物語、特別な映画
フロド、ビルボ、お誕生日おめでとう!!
今年は地味で小さな心の描写になりました
読んでくださった方に感謝です