昔語り
 



 闇は潜んだ。
 多くの紅蓮の血を吸い込んだ大地には、時とともに緑が広がりはじめた。
 種族それぞれの記憶は薄れはじめ、自分自身の暮らしに戻り、再び夢を紡ぎはじめた。
 これはそんな時代の狭間であった出来事。
 ほとんど誰の記憶にも残ることはなく、けれど記憶された者たちの心からなくなることは決してない。そんな出来事。



1.

 灰色の衣をまとった背の高い老人。
 その老人が手を引いているのは黒い衣に完全に身を隠した小さな影である。風にあおられたフードの端からこぼれ落ちるように垂れた一房の髪。金と銀の光が夕闇にきらめいた。

「これは苦渋の選択じゃ。今のお前にはわかるまいな・・・・・」

 老人の声は疲れていた。肉体の疲労よりも悩める心がその面を曇らせているようだった。その表情を見上げる小さな影。無言のままに老人の手を握るその姿は更に小さくなったようにも見えた。
 老人は1つの大きな岩の前で足を止め、その岩戸に向かってなにかをつぶやいた。
 見よ!岩戸が奥に向かって重々しく下がって行き、老人と影を通す道をあらわした。
 老人はふと、息を吐いた。

「お前は何も悪くはないのじゃ。じゃが、いずれは双方に危害が及ぶ。お前の持つそのさだめを・・・いつかわかってくれるかのう」


 老人が暗い道に足を踏み出すと、影もそれに従った。一足ごとに二人の姿は奥に進み、岩戸が重々しい音とともに入り口を閉ざした。

「わたしはできるだけここに来るつもりじゃ。お前が身も心も外のものと同じように花開けるよう、できるかぎりのことを尽くそう。書物を手にお取り。それはお前にとってすべての物事への入り口となろう。歩き、声を出すことも忘れてはならぬ。お前がここで為すべきことは思いつく限りここにしたためてある。まだお前の置かれた場所も身の上もよくはわからぬだろうが、ここに書いてあることを守るのじゃ。わたしはすぐにまた戻ってこよう」

 影はずっと無言であった。問いかけも反論も口にされることはない。老人が思っていたよりもその運命を感じ取っているのかもしれなかった。そんな姿を見つめる老人の表情は悲哀に満ちていた。

「もうじき夜が来る。できるだけ眠ることじゃ。天井にすえたこの石がそとの光の様子を教えてくれる。お前に日々の光と闇を運んでくれよう」

 小さな影を寝台に座らせて老人は背を向けた。彼の世界は外にあり、その訪れを待っている者が大勢いる。静寂の世界にその身を置ける時間は限られていた。
 歩み始めた老人はふと足を止めた。影の口から何か声が漏れたような気がしたのだった。
 しかし、寝台に座った影は黙っていた。ひとつ小さくうなずいたその動きはほんの僅かだった。



 村は炎上していた。その燃え上がる炎は天を紅く染めていた。
 なにひとつ後には残さない猛火。驚くほど一瞬のうちにあらわれて村を舐め尽くしたその火がどこからきたものかはわからない。記憶にとどめている者たちはことごとく焼かれてしまった。骨のかけらも塵一つも残らぬほど。
 風になびく炎の渦はある時、忽然と消えた。大地に残る黒い跡と鼻を突く匂いだけがそこで何かがあったことを告げていた。



 少女の心を捕らえている恐怖は闇の色をしていた。
 いつもの通りに昼を過ごし、部屋が茜色に染まる頃すっきりと身体を清め、香りの良い飲み物をとった少女は眠りにつこうとしていたのだ。寝台に身体を横たえた少女の心にふと、何かが触れた。それは内側からわき上がるもののようでもあり、外からそっと忍び込んだもののようでもあった。
 ざわざわと波立つ心の表層。
 こらえきれずに少女は身を起こした。心がさわいで苦しいほどであった。
 少女は彼女の世界の端まで駆けていった。重い灰色の岩壁。想像もつかぬほどの重さの岩がぴったりと並んだそこが少女にとっての境界線であった。外にはいろいろなものがある。そのことを少女は知ってはいたが、その目で見た記憶はなかった。これまでその灰色の岩は重厚な壁として少女に安心感を与えてきたのだ。外を知らない少女にとってこの岩屋・・・・・驚くほど広くて複雑な岩の世界はすべてであり、彼女を包み込んでいた。
 しかし、今やこの灰色の世界が少女にとっては自分を捕らえる重い牢獄に思えた。
 この突然の心の変化はあまりにも不自然であったが、警告を告げる者はなく、灰色の賢者が最後に訪れてからまだ日も浅い。老人は少女の身に変わりはないことに安心して戻っていったのだ。
 絶叫が聞こえた。
 引き裂くようなその声に少女は両手で耳を覆ってしゃがみ込んだ。
 悲哀とも絶望ともつかないその声は少女を取り巻き、上から被さってくる。

「や・・・・・」

 少女の口から音が漏れた。それは壁に吸い込まれていった。
 絶叫は続いた。岩の中をぐるぐると回り続けるその声は反響し、少女の心を押しつぶそうとした。

「いやぁぁぁぁ!!」

 自分を取り巻く渦を跳ね返すように少女は叫んだ。それは生まれて初めて発した心の奥底からの声であった。
 その途端に少女の目の前の岩が吹き飛んだ。宙に躍り上がった岩は瞬間的に姿を消した。
 しかし困惑に捕らわれた少女はその光景を見ることなく、外へと駆けだしていった。
 はじめて触れる大地と空気の中へ・・・・・・。



 少女は走った。騒ぐ心を抱きしめながら恐怖から逃れようとしていた。しかし、自分が身を置いている場所がはじめての世界であることが、余計に少女の恐怖を煽っていた。
 踏みしめる大地の感触が足に伝わってくる。それは次第に土から木の根と落ち葉の重なりに変わり、大気の香りが柔らかに変化しはじめていた。
 少女は息をさらわれて、足を止めた。はじめて走ったこの大地は岩屋の世界よりもぬくもりがあり、けれどその足を傷つけていたのだ。
 見回すと、周りは背の高い木々に囲まれていた。緑滴る闇の中で少女はそっと木の肌に触れてみた。ざらざらとしたその感触とともに何か力のうねりが指先から伝わってくる。吸い込まれそうな気がした少女ははっとして手を離し、根元に腰を下ろした。木々は想像していたよりも遙かに力強く、命を感じさせた。その脈動は少女を震えさせた。それでも座った足元から伝わる不思議なぬくもりは次第に少女の心を落ち着かせていった。
 少女は膝を抱えた。心の中の恐怖は形を変えて少女の心の奥で蠢き続けている。自然と身体が震えだして止まらなくなった少女は膝に回した腕に力を入れ、膝に顔を埋めた。金と銀に光を抱いた長い髪がその全身を覆う。
 自分で作った闇の中で、少女は息をひそめた。
 何かが近くにいる感じ。
 肌の表面が敏感になっていく。
 その存在は彼女に気がついていた。いつから近づいていたのかわからなかったのが不思議なくらい、その存在感が伝わってくる。
 少女は顔を上げることができなかった。怖さとは違う、けれどつきあげるような感情の波。これは一体・・・・・・。


「思いがけない訪問者だ」

 声が聞こえた。その声はすべるように少女の耳から心の中に入ってきて、心の闇にふっと灯がともされたような気がした。
 少女は顔を上げ、声の主を見上げた。まっすぐにこちらを見ている瞳は深く、流れる髪の色は金色。緑と茶色を身にまとったその姿は木々に溶け込んでいるようにも見えた。すらりと高いその姿を見上げた少女の瞳は静かに彼を見つめ続けた。空気の色が、そして声の感じが灰色の賢者とはまったくちがう。

「ここは人間族には危ない場所。時間もよくない。一体、どうしたのだ?」

 問われて少女の胸にあの恐怖感が蘇った。思わず目を伏せる少女のすぐ横に「青年」はやってきた。

「わたしの言葉がわかるか?」

 少女はうなずくことしかできなかった。

「怯えているのか、この森に・・・・?」

 「青年」の目に映る少女の姿は華奢で小さくほっそりとしていた。緑の闇の中できらめく髪がその身体を縁取っている。

「何があったのだ」

 「青年」は少女の傍らに腰を下ろした。互いの体温がほのかに伝わり会うほどの距離。少女は震えていた。

「痛むのか?」

 「青年」は少女の足の状態に気がついたようだった。少女は岩屋を出たときに足に布でできた簡単な履き物を履いていたのだが、それは大地を歩くのに、まして走るのには全く向いていなかった。森に入るまでに引き裂かれてほとんど形が残っていない。少女の白い足には血が滲んでいた。
 「青年」の手がそっとその足に触れた。壊すのを恐れるように静かに傷の具合を確かめている。その手の温かさが驚くほど伝わってきて、少女は思わず目を上げた。

「痛くは・・・・ないのです。・・・・・・ただ、怖いのです」

 外界ではじめて発したその声は小さく、澄んでいた。そしてその外見よりも遙かに成熟した心を感じさせた。「青年」はその対照性にかすかに首をかしげた。
「青年」は黙って少女の傷の手当てをした。木々の間に目を走らせて目当ての木の葉をそっと摘み取り、少し揉んで少女の傷にあてる。懐から取り出した光沢のある布を裂いて両方の足のそれぞれを包み込んで縛る。

「もっと丈夫な履き物が必要だな」

「履き物・・・・・」

「裸足で歩くのは無理だろう」

「地面にはこんなにいろいろな物が落ちているのですね」

 顔を上げた少女は白く透き通るような指で小石を拾い上げた。その目は真剣な色を浮かべていた。

「おかしなことをいうのだな」

 「青年」の顔には面白がるような表情と何かを読みとろうとするような表情が混ざり合っていた。

「おまえはどこから来たのだ?このあたりには人間の集落はないはずだ」

 少女は静かに「青年」の顔を見つめた。

「あなたは人間ではない・・・・?エルフ・・・・・?」

「そう、エルフ族・・・・名はレゴラスという」

 闇の森のエルフ、レゴラスは微笑んだ。少女の声の中に純粋な驚きと憧れを聞いたからだった。

「レゴラス・・・・・」

 少女は丁寧に発音し、口の中で繰り返した。その名前を口にしたとき、少女のほっそりとした身体は不思議な衝撃に貫かれた。思わず差し出したその手をレゴラスは静かに自分の手で包み込んだ。彼は少女の中に恐怖を見た。その強い感情は彼に向けられたものでも暗い森に対するものでもなかった。

「恐れるものは何もないのだ、今、ここには。おまえは自分をこわがっている」

 二人のつないだ手を通して互いの命の奔流が通い合う。その初めての感覚にレゴラスは目を閉じ、少女は唇を噛んだ。体の中の血があたたまり全身に広がっていく。
 少女の頬を涙が流れた。心の中にある恐怖の渦が外に解放されていく。気がつくと少女はレゴラスの腕の中にいて、泣いていた。

「大丈夫、今おまえを傷つけるものはいない」

 レゴラスは少女の髪をなぜた。少女にのしかかる闇の正体はわからなかったが、それに耐えるにはあまりに少女は年若く思えた。
 森の中の夜は静寂を保ち、少女の声だけが吸い込まれていった。



「わたしには名前はありません。だから・・・・・ごめんなさい」

 月の光が射し込みはじめた頃、少女はレゴラスの腕を離れ、涙をふいた。

「名前がないというのか?それは・・・・」

 レゴラスの心の中にエルフの伝承の中で聞いた『名も無き者』たちの物語が浮かんだ。それはいずれも悲劇の色合いを帯びたもので、心に残るものだった。この少女は果たしてどのような道を歩むのだろう。レゴラスが見通せる限りでは、少女が歩む道はきわめて厳しいもののように思えた。不思議なことに、彼は少女をひどく近い者と感じるようになっていた。

「そしてその足は今日まで大地を駆けたこともなかったのだな」

 レゴラスはその首に光る極めて細い鎖に手を回し、静かにはずした。その鎖はかすかに緑色の光を放つ、木の葉から落ちる雫のような形をした石に通されたものだった。彼はそれをそっと少女の首にかけた。石は少女の胸に落ち、神秘的に光った。少女は自分に首飾りをかけるレゴラスの顔を黙って見つめ、それから石に目を落とした。その石はレゴラスに似ている、と少女は思った。美しく、底知れず、あたたかな光を湛えている。

「これは・・・・・?」

「この石はおまえに耐える力を与えるだろう。これはこの森の奥のわたしたちの王国で掘られ、磨かれた石・・・・おまえがこれを持つのを見たエルフはみな、おまえに『エルフの信』があることを知るだろう。特に、このレゴラスの」

 レゴラスの口調に少女は顔を上げた。目の前の美しいエルフの声に聞こえるのは何の響きなのだろう。不安?哀れみ?それとも・・・・・

「おまえはどこからか逃げてきた。けれどそこへ戻らねばならぬ」

 少女は頷いた。心の底であれほど渦巻いていた恐怖はおさまっていた。

「眠ると良い。朝が来たら送っていこう」

 レゴラスは少女の身体を自分が身にまとっていた上衣でくるみこんだ。彼がこれまで知る中で最も幼い、謎だらけの人間族。自分がその少女の進む道をともに歩むことができないことはわかっていたが、そのことはなぜか彼の心を棘のように刺した。

「ありがとう・・・・レゴラス」

 少女は目を閉じた。自分を守ってくれるこのエルフに何か言いたいことがあると思ったが、どういう言葉にすると良いのか少女にはわからなかった。
 わかっているのは、身体も心もとてもあたたかい、ということだけ。
 
 少女とレゴラス・・・・・魂を近く寄せ合うようにして森の夜を過ごした。



     
2004.11.21

SKYWARDのemitaさんが挿絵を描いてくださいました!
素晴らしいです!うれしい!
勿体なさすぎます〜〜〜〜
emitaさん、ありがとうございます
イラストはこちらです→