書 換

「賢い子だ・・・」

 顎にかかる温度が高い手を受け入れた少女の目はまっすぐ、逸らすことなく男の顔に向けられていた。感情を見せない金色の瞳は男の深奥に揺らめく欲望の影 を垣間見、それが己に向けられている事体を受け入れているように、或いは拒絶しているようにも見える。
 銀で装飾された黒い僧衣のポケットの中で小さな手は冷たい凶器を握っていた。互いの身体が触れんばかりのこの距離で発砲すれば命を奪うことも顔に触れる 手を使い物にならなくすることも可能だろう。しかし、そうすればこの男はデータの提出も参考人としてローマに同行することも拒絶するに違いなかった。

「あの堅そうな神父には内緒にすると約束だよ」

 息遣いの高まりを抑えるように囁いた男は少女の身体を持ち上げて机に座らせた。そしてまた少女の顔に手を伸ばした。

「無粋だな・・・こういう時は目を閉じるものだ」

 言われるままに目を閉じた少女の口元がほんの僅かに震えたように見えたのは錯覚だろうか。男は歪んだ笑みを顔に浮かべるとおもむろに己の分厚い唇で少女 の美唇を覆った。呼吸を止めたまますべてが過ぎ去るのを待つ少女の両手が拳を形作って白く血の気を失っていく。顎から首筋、肩、腕と下がっていく肉厚の手 を感じる順番に身体の部分が冷えていく。やがて、耐え切れずに大きく息を吸い込んだ少女を見た男は一旦顔を上げて舌で自分の唇をなぞった後、喰らいつくよ うな勢いで少女にむかって頭を下げた。
 その瞬間、男の頭の上で窓ガラスが割れた。

写真/ガラスの破片 「なん・・・・・」

 砕けたガラスの破片が宙に浮き上がり、窓の外側と内側に流れ落ちた。切れたうしろ首を押さえながら男がようやく戸口を向いたとき、そこにはまだ煙を上げ ている銃口とそれを構える小柄な神父の姿があった。

「そこで何をしている、ローレン博士」

 作り物めいた端正な顔の中でその両眼だけが感情を表すかのように赤く点滅している。

「あ、いや・・・・何でもないんだ、トレス・イクス神父。ちょっとその・・・いや、本当に何でもないんだ」

 目を合わせないように不自然に俯いた男を、沈黙したままの機械化歩兵のガラスの瞳が1秒足らずの間映しだした。

「我々の乗車予定の列車は明朝0600発車予定だ。隣室に移動し速やかに準備を終えることを要求する」

 トレスが顎と視線で扉を指し示すと、男は慌しい足取りで一散に姿を消した。無表情なまま視線を向けていたトレスはセンサーが拾った気配にかすかに音をた てて振り向いた。

「そのまま動かないことを推奨する。微小な破片が多数・・」

 言葉を途切らせたトレスは言いかけたそれを別のものに変更した。

「損害評価報告を、レイニア・スレイア」

 まだ目の前に男が立っているように・・・宙を見上げた少女の頬を床にたまったガラスよりも透明な涙が伝って落ちた。
 トレスが一歩踏み出しはじめるまでの間、その数秒は機械化歩兵の中を一瞬駆け抜けた不自然なパルスを治めるのに必要な時間だったのだろうか。
 トレスの足の下で破片がさらに砕ける音が響くとレイニアは今気がついたように顔をトレスに向けた。

「窓ガラス・・・修理代は経費にできないね」

「肯定。補足事項としてこの施設は72時間以内に取り壊しが開始されると予測できる。修理する必要はない」

 呟いた少女の心はどこか別のところにあるように見え、トレスを見上げる瞳の中には細い揺らめきがあった。そして少女の声に答えた機械化歩兵の音声にもあ るはずのない逡巡の・・・いや、それはやはり錯覚だろうか。

「損害評価報告を」

 トレスの問いかけに少女の唇に微笑が浮かんだ。

「大丈夫、どこも痛くないし怪我もしてない。トレスはわたしにガラスが当たらないように計算して撃ったのだから、傷つくはずがない」

 微笑みながら答える少女の頬を涙が落ち続けていた。

「涙腺が・・・・ちょっとだけ調子が狂っているだけだ」

「否定。卿に全く破片が当たらないようにする空間的余裕はなかった」

 トレスの手がゆっくりと動き、レイニアの僧衣の上で光る輝きを拾った。肩と膝・・・まだ拳を握ったままの手の間。最初にトレスの手袋に包まれた指先が触 れた時小さく震えた身体はやがて静かになり、レイニアは息を吐いて目を閉じた。

「トレスのようにいらない記憶を消せたらいいのに」

 見なかった、感じなかった、脅えなかった・・・穢されなかった。心の中で自分に言い聞かせる声がやり切れないと同時に馬鹿馬鹿しく思えた。トレスに出会 うまでの生き方を思えば、唇を奪われたことで傷つく余裕があってはいけなかった。弱さもないはずだった。どれだけ多量の血を流してもなぜか生き延びてきた 身体だから。

「この記憶は卿の思考と行動にマイナスの影響を与えるものか?今後の作戦続行において卿のあの博士に対する判断力の低下が予測される」

「うん・・・ちょっとだけ引きずるかもしれない」

 でも大丈夫、と呟いたレイニアは頬に触れる感触に目を開けた。次の戦術を思考するようなトレスの顔があった。頬を包んだ布越しにひんやりとした手。

「では卿の記憶を書き換えることを提案する」

「リライト・・・・?トレス?」

 トレスの手が少女の顔の角度を変え、ガラスの瞳との間の距離が徐々に狭まりはじめる。
 あり得ない。あり得るはずがない。これは白昼夢なのかもしれない。心が勝手に描き出すトレスがとろうとしている行動に対する驚きと否定、そして信じたい という複数の感情に揉まれながらレイニアは目を閉じた。
 トレスの唇はその手よりも少しだけ温かかった。先を求めることなく冒すこともなくそっと触れて包みこむ唇の質感に心から何かが一気に溢れて止まらなくな る。レイニアはその永遠に感じられる時間の中で懸命に涙をこらえながら五感を最大限開放した。今また涙を見せてしまったら、それは完全に意味を間違えられ てしまうだろう。心の中を見せず、でもすべてを心に深く刻みたい。いつの間にか拳の意味が違っていた。
 トレスの唇が離れた後、レイニアはまだ自分の顔を見下ろしているはずのトレスの手も離れるまで目を開けなかった。

「記憶はリライトされたか?レイニア・スレイア」

「・・・うん、トレス」

 頷いたレイニアの答えを確認するとトレスはブーツの底で床を正方形に払って少女に右手を差し伸べた。その意図を理解したレイニアはトレスの手につかまり ながらその正方形の中に両足を下ろした。小さな手が普段よりも強くその手を握った刹那をトレスのセンサーはどのように感じただろう。少女のもう片方の手は 胸を押さえながら拳のままで、その中にはどこまでも命ある限り握り続けたいと願う記憶が形なく閉じ込められているようだった。

2005.10.3

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