火がついていない海泡石のパイプを口から離した“教授”は傍らに立つ弟子の顔を悠然と見上げた。
「ああ・・・やはりここからの作業はレイニア君がいてくれた方がはかどるだろうねえ・・・彼女はチェック項目をほとんど諳んじているからね。ユーグ、君、 ちょっと呼んできてくれないかね?」
金色の髪の隙間から見える翠瞳をわずかに細めてユーグは捉えどころのない中年紳士の笑顔を見下ろした。
「・・・しかし、師匠。私はシスター・レイニアの居場所を知らないですし・・・それに彼女はじきに姿を見せるのではないでしょうか?こうして神父トレスが ここに戻ってきた訳ですから・・・」
師と弟子。二人の前には護送され運び込まれて再起動されたばかりの機械化歩兵の小柄な姿があった。鋼鉄のスツールに腰掛けて剥き出しの上半身を見せてい るその姿は沈黙のまま無機質な視線を己の正面に向けている。
「それが、今度ばかりはそういうことにはなりそうもねぇんだよ、サムライ」
無精髭を撫ぜながら会話に入ったのは窓際に立っていた巨漢だった。そののんびりとした声には似合わない真面目な表情が陽気な笑みを浮かべた顔をよぎる。
「ま、お前なら丸め込もうとしないかわりに丸め込まれもしてやらねぇだろうから適任ってとこだろうな。行けよ、サムライ。あのシスターの居場所は・・・」
「地下だ。98.76パーセントの確率で地下にいると推測される」
言いかけたレオンを無感情な声が遮った。真っ直ぐ顔を前に向けたままトレスは口を閉じた。
「ほう、当たりだ。さすが師匠は弟子のことがよくわかるってわけだ。もっともその原因までわかってるのかどうかは知らねぇがな」
「地下というと・・・?射撃場か?」
トレスの護送任務にあたっていたため状況が見えていないユーグは小さく首を傾げた。それを見たウィリアムとレオンは顔を見合わせて肩を竦めた。
「とにかく、頼んだよ、ユーグ。すぐにはじめられるように準備をしておくからね」
「妙なこと頼まれても引き受けるなよ」
何かを隠している。そんな様子の二人に送り出されたユーグの顔には戸惑いがあった。
「それで・・・今日はレイニアに会いましたか?アベル」
片眼鏡の奥の灰色の瞳には憂慮の色が浮かんでいた。それは先刻この室内に国務聖省長官に面会を求めてやって来た一人の司祭がいた時には見られなかったど こかやわらかな表情だった。
問われた神父がゆっくりと首を横に振ると長い銀髪が力なく揺れた。
「いえ・・・それがですね・・・レイニアさんは来ないでくれって言ったんです。ちゃんとするべきことはするから気にかけないで欲しいって・・・・。とても 真剣にお願いされたんです」
俯いていくアベルの顔を見たカテリーナは静かに頷いた。
「そうね・・・あなたはそのお願いを断ることはできないわね。そして心配することをやめることもできないわね」
己の顔に表れたものを避けるようにカテリーナは立ち上がり、書棚に向かってアベルに背中を見せた。アベルは顔を上げて豪奢な金色の巻き毛を見つめた。
「やっぱり、カテリーナさんにはわかってるんですね、レイニアさんの気持ちが。知ってましたか?あの時、レイニアさん、こうも叫んでたんですよ。『あなた がカテリーナ様を守れなくなったらどうするの』って」
一冊の本に手を掛けたままカテリーナは目を閉じた。
「彼には・・・わかると思いますか?」
アベルの顔に浮かぶはずの笑みをカテリーナは心に描いた。
「そりゃあ、勿論!トレス君は頑固だし0と1に縛られちゃってるわけですが・・・・でも、彼は本人が認めなくたって絶対に人間ですから。僕やカテリーナさ ん、レイニアさん・・・トレス君をちゃんと知ってるみんながそれを分かってますからね!」
予想通りの明るい声がカテリーナの全身を包みこむ。時にはその明るさを受け取る資格が己には備わっていないのではないかと思うこともある。けれど今はそ の声にほんの一時心の中を委ねよう。
もしもアベルにその時のカテリーナの顔が見えていたら、そこに少しだけ幼い懐かしい面影を見出したかもしれなかった。
「俺は戻ったばかりでよく分からないんだが・・・・君はここで何をしているんだ?シスター・レイニア」
少女は一瞬、両耳を覆ったプロテクターを理由にその声が聞こえなかったふりをしようとしてやめた。そして迷いながら答えを待っているユーグにちらりと目 を向け、プロテクターに手をあてた。手には銃、耳には防御、様々な距離に置かれた標的。何をしているかは一目瞭然のはずだ・・・金色の瞳はそう答えてい た。
「神父トレスは・・・」
レイニアの視線が外れた。再び的に顔を向けた少女の口許が小さく震えるのを目にしたユーグは言葉を切った。トレスの名に少女は苦痛を覚えたのだろうか。 そうであればそれは彼の記憶に完全に逆らっている。この少女はあの無表情な神父のことを静かに深く想っていたではないか。嬉しそうに、時に恥ずかしそうに 素直な笑顔を見せていたはずだ。お気に入りの兄を慕う少女のように・・・心を許した眩しい表情で。
少女はどれほどの時をここで過ごしたのだろう。ふと気がついたユーグは少女に近づき無言のままそっと右肩に手を置いた。少女の身体が強張り、瞳が大きく 開いた。
「やはり。肩を痛めかかっているのではないか?神父トレスがミラノで加療を受けていたのは一週間。その間、ずっとここにいたのか?」
労わるような響きを持ったその声にレイニアは軽く唇を噛んだ。
「・・・・ずっとではない」
「だよな。俺に体術を教えろって丸半日ねだってたりしたもんな。ったく、サムライ野郎はやることがとろいな。ほら避けろ。俺がそいつを抱えてく」
戸口から顔を出したレオンはするりとしなやかな動きで巨体を滑りこませ、レイニアの前に立った。思わず身構えた少女に口角を上げ、身をかがめて顔を覗き こむ。
「怒ってる女は生きが良くて嫌いじゃねぇが、お前、ちょっと自棄になってんじゃねぇか。てめぇと相手、ちゃんと両方にぶつけろよ。全部ぶつけちまえ。大丈 夫、あいつが壊れる心配はないからよ」
ああ。何か少しわかった気がしてユーグは少女の肩の上の手を小さく撫ぜるように動かしてから放した。振り向いた少女にユーグは頷いた。
「行こう」
ほとんど無愛想と言えるユーグの声を聞いてレイニアは息を吐いた。
「何だよ、やっぱ俺に抱かれて行きたいか?お姫様抱っこってやつがいいか?」
この神父ならやりかねない。そう判断して一歩下がった少女を見た二人の神父はそれぞれに微笑み、一人は少女の頭のプロテクターを外し、もう一人は差し出 しかけた手を慌てたように引っ込めた。
「一人で行く」
銃をホルスターにしまいながら歩きはじめたレイニアの顔には思いつめたような表情があった。