直 情 2

「やあ、来たね、レイニア君」

 レイニアはドアを開けてしまってからノックを忘れたことに気がついた。パイプを弄びながら彼女を迎えた“教授”の表情に普段と違ったところは見当たらな いが、当たり前の礼節を怠ってしまったことを愉快には思っていないだろう。レイニアが何か言葉を探して眩暈に似た感覚の中で立っていると、ウィリアムはパ イプを咥え、それと同時に笑みを浮かべた。

「いや、構わないよ。僕はちょっとユーグと手順の確認をしてくるからね。君は完遂したまえ」

 すれ違いざまに「気持ちのままに」と囁いたウィリアムの声をトレスのセンサーは拾い上げただろうか。
 一歩、また一歩。リズムを乱すことを己に許さずゆっくりとトレスのそばまで歩いて行った少女の顔をガラスの瞳は沈黙のまま見守っていた。レイニアはきっ かけを探し、トレスは恐らくレイニアの顔にある見慣れない表情から何かを推測し。二人は同時に互いの身体がほんの僅かに動く気配を捕らえた。

「・・・損害評価報告を、レイニア・スレイア」
「どうしていつもトレスは・・・・!」

 重なった声の一方は普段よりもどこかやわらかく、もう片方は多くの感情を含んでいた。互いの言葉を受け止めあった二人は一呼吸おいた。

「卿の質問は中断されている。再度の入力を」
「ダメージはひとつもない・・・わたしの身体が受けるはずだった全部はトレスの身体に行ったんだから。でも、あれは・・・・」

 再び重なる二つの声。無感情と秘めた激情。
 次は、己の昂りを抑えようとした少女が切っ掛けを逃した。

「197時間前のことを言っているのではない。俺が訊いているのは卿の右肩の損害だ。急に口径を上げた銃を連射することは関節に過度の負担を掛け続けてい たと推測される。損害評価報告の入力を、レイニア・スレイア」

 言葉を発しようとした少女の唇は閉じ、徐々にきつく引き結ばれた。
 懸命に堪えていた筈の涙が落ちた。

「肩なんて・・・トレスの怪我に比べたら・・・」

「否定。俺の人工関節に不具合が生じた場合は迅速な調整もしくは交換が可能だ。しかし卿の場合は痛みは身体に蓄積されるばかりで解消するには多くの時間が 必要となる。人間の怪我と機械の故障を比較するのは無意味だ」

 俺は人間ではない。機械だ。
 これまでにレイニアが何度も聞いたことがあるその言葉がトレスの顔にあった。そしてそれは。少女の両手が拳を作った。

「・・・トレスには無意味でいい。でもトレス、あなたが言うその人間の感情を否定することはあなたにはできない。・・・・・あなたが自分にとってのそれを 否定するのはいい。でも、その感情がわたしの中に湧きあがるのを止めることも消すこともあなたにはできない」

 一言一言をゆっくりと刻む少女の声は語尾に抑え切れなかった震えを残していた。
 トレスは数秒の間を置いた。これは彼にしてはひどく長いものだったのだが、彼自身も少女も恐らく気がついていなかっただろう。

「肯定。卿の感情の動きを止める権利も手段も俺は所有していない。だが、機械である俺に・・・ミラノ公の所有物である俺にそのような感情を持つのは無意味 だと告知することは可能だ。もしも卿の任務遂行に俺に対する感情が影響を与える可能性があるなら、その感情を消失させることが卿への支援になるとも考えら れる」

 抑揚のない冷たい声を聞くレイニアの顔には追憶の表情があった。トレスの無表情の中に訝しげな気配が通り過ぎた。

「無理だ・・・・トレス。トレスが機械だからとかわたしには人間に見えるとか・・・・そういうことはきっと関係ないんだ。トレスがトレスだから。原因はそ れだ。・・・トレスがトレスだから、わたしは思ってしまうんだ。あの時、トレスはわたしを突き飛ばすだけで守れたはずだと。そしたらあの弾がトレスに当た ることはなかった・・・・」

 少女を狙った銃口が火を吹いた瞬間。横にいた機械化歩兵の手が伸びた。予想とは違ってその手は少女の身体を引き寄せた。腕の中に少女を引き入れながら機 械化歩兵の身体が少女と銃弾の間に入った。もう一方の手に握った銃で敵を倒しながら機械化歩兵の身体は傾き、己の重みで幼い身体を潰してしまわないように その時初めて彼は少女の身体を離して突いた。地面に転がった少女は飛び起き、吹き出した皮下循環剤の源を両手で抑えた。なぜ、と少女は言った。冷静な機械 化歩兵は予想可能な場合は損傷部位を必要最低限にとどめるのが常だった。飛んでくる銃弾が特殊で強力・・・当たれば少女の身体を微塵に散らすほどのものだ ということはわかっていたはずだ。彼の強靭な身体でも決して単なる損傷では済まないことも。
 トレスの瞳が静かに少女の顔を確認した。

「・・・卿は怒っているのか?」

 悲しみを浮かべた瞳で涙を落としながら。全身から熱い感情を迸らせて。
 そのどれもが機械であるトレスには理解不能なものであるはずだったが、その存在を感じ取ることはできるようだった。
 少女の唇は震えた。

「怒っている・・・・あれからずっと怒っていた。怒っちゃいけないと思ったけど、無理だった。またトレスに助けてもらった自分の弱さを怒るのは当たり前だ けど、どうしてもトレスのことも怒ってしまう。どうしてあんな怪我をする方法をとった、トレス。・・・本当に死んでしまうかと思ったんだ・・・・。一週間 もミラノにいて、その間にカテリーナ様に何かあったらどうするんだ。そんなことになってトレスの心が傷ついたら、わたしは・・・・」

 彼の損傷は『怪我』ではない。
 彼にとって『死』は修復不能な全壊でしかない。
 機械である彼に『心』はない。
 反論する余地はたくさんあった。けれど口を開こうとした機械化歩兵に少女は小さく頷いた。

「・・・わかってる。わたしはトレスに自分の流儀の言葉を押し付けてる。トレスが言いたいことも多分大体わかってる。・・・・でも、わたしにはこういうい い方しかできないんだ・・・自分に正直であろうとすれば」

 目の前で両手の拳を握りしめて涙を落としながら突っ立っている少女の姿を。
 トレスは生体部品の不要な反応やそれによる動作を切り捨てるはずのリミッターが限界まで揺さぶられるのを感じていた。それは苦痛ではなかった。その代わ り、人間で言う『もどかしさ』のような割り切れないものが意識の中に広がっていた。速やかにこの反応が切り捨てられること、それともリミッターが解除され てOSが凍結する限界まで反応が高まること。そのどちらを彼自身は求めているのだろう。それがわからなかった。

「俺は卿を怒らせた。謝罪が必要か?レイニア」

 少女は首を強く横に振った。

「それよりも約束して欲しい。修理や部品交換がきく身体でも、わたしが原因の損傷を予測できるときは本当に必要最小限にして・・・・・わたしが多少の傷を 負ってもトレスなら指一本で運べる。でも、わたしはトレスの身体を運べない・・・おろおろするだけだ」

 絶望と無力感に満ちた少女の一週間。大半をスリープモードに移行していた機械化歩兵とは体感する時間の長さは全然違ったものだっただろう。彼の見聞によ れば人間はそういう時に時間を必要以上に長く感じるもののようでもあった。
 トレスは右手を伸ばして少女の手を捉えた。

「トレス・・・?」

「俺の右脇腹に触れて確認することを推奨する。今の俺には傷はない。・・・卿が圧迫してくれていたおかげで臨時に塞がっていた管も繋がって皮下循環剤も中 断されることなく流れている」

 手を引かれるままに床に膝をついたレイニアはそっとトレスの脇腹に触れた。完全な皮膚に包まれた滑らかな肌の感触と流れる皮下循環剤によるほのかな温 度。赤黒い液体に手を浸して泣き叫んでいた記憶が蘇る。そしてそれは記憶の奥にしまわれていく。

「あたたかい・・・トレス」

「卿の体温および呼吸数も落ち着いてきたようだ」

 金色の瞳とガラスの瞳はしばらくの間じっと互いを覗いていた。そこに通い合うものに敢えて名前をつける必要はない。それを感じることができるだけでい い。例えそれが自分だけの錯覚だとしても。レイニアが小さく微笑んだとき、トレスの瞳がチカッと光った。

「これは・・・」

 素早く伸びたトレスの指が少女の耳に装着された小さな機械を弾いた。目立たない色のイヤーカフス。レイニアは瞳を大きく見開いた。

「スイッチが入ってた・・・?」

「肯定。通信が開放されていた対象は不明だ」

 その時、レイニアはイヤープロテクターを外してくれた大きな手を思い出した。ごつくて大きくて銀色のブレスレットが澄んだ音を立ててぶつかりあっていた あの手。
 少女の金色の瞳がキラリと輝いた。



<バレてしまったようですわね、どうしましょう。神父レオンとわたしには言い逃れのしようはありませんし・・・・・>

「いい作戦だっただろ?ほとんど完璧に必要なデータは傍受できたんだしよ」

「いや〜、でも、いくらお二人のことが心配でもやっぱりちょっと強引な手段だったですかねぇ。まあ、わたしとカテリーナさんには選択の余地があったわけで すが」

「で、結局こうして通信してるってことは君たち、同罪だってわけだね」

「・・・それは俺たちも同じかと、師匠」

 一瞬の沈黙が別々の場所で同時に流れた。

「でも・・・多分、今回、レイニアさんはトレス君がトレス君だからってことを伝えることができましたよね」

「ったく、どうせお前はまた甘ったるいこと考えてんだろ?へっぽこ」

「えへへ。だって嬉しいじゃないですか。トレス君はすごく頑固だからきっと全然変わらない顔をするんでしょうけど、心の・・・というか記憶のどこかにはレ イニアさんの言葉があるわけですよ。それってすっごい違いですよね〜」

 離れたところにいる全員の頭の中にも銀色の髪の神父の満面の笑みが浮かんだ。

「とにかく。シスター・レイニアと神父トレスを長官執務室に呼んで下さい、シスター・ケイト。あなたたちも全員ですよ。お茶でもいただきながら・・・話を するしかありませんね」

「うわ〜!カテリーナさん、ナイスなお考えです〜!あ、いいですよ、ケイトさん!わたしがこれからひとっ走りしてお二人をお茶にお誘いしてきますから、ケ イトさんはなるべくたくさん美味しい物を準備しておいてください。じゃあ、いってきま〜〜〜す」

 プツッという音が一人の神父が通信を切って張り切って出かけたことを伝えた。

「・・・・アベルったら」

「怖い物知らずというか頭の中も胃袋っつぅか」

「・・・やはり、甘いな」

「なかなか面白いねえ。いや、彼はなかなか適材適所だよ。さてどのくらいで三人一緒に姿を見せるかな」

<・・・時間はご自分で計っておいてくださいね。私、これから大急ぎでとっておきのいろいろを出してまいりますから>

 その日、ローマの空はよく晴れて青かった。

2005.11.1

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