「小奇麗な部屋じゃないか。身分やら訳ありやらの連中がいかにも好んで逢引きしそうな宿だ。神父のカッコじゃ悪目立ちしてんじゃないのかい?おまけにベッ ドはダブルだ」
聞こえてきたハスキーな声に意識が浮上する。
「この宿は秘密厳守という面では町で最も評価が高い。それ以外は任務には特に無関係だ、シスター・モニカ。俺は休息のために寝台を使う必要はない」
頭の上から響いた声に目を開けると滑らかに動いた端正な顔の中のガラスの瞳がレイニアを見下ろした。
「急激な動作は回避することを推奨する、レイニア・スレイア。これから卿の損害を確認する」
トレスの腕は少女の身体をベッドの端に静かに下ろした。
「あの羽がいた、トレス」
「肯定。1537時間前に遭遇したものと同一かどうかは不明だ。・・・シスター・モニカ・アルジェント、“ブラックウィドウ”だ、レイニア・スレイア」
少女の視線を辿ったトレスは特に手で指し示すわけではなく言葉だけで無感情に黒衣のシスターの名前を告げた。
短く刈った黒髪に鮮やかな碧眼。つややかに赤いルージュに彩られた唇。黒い僧衣とそのはだけられた胸元の豊かな存在感、喉もとのチョーカーと谷間に沿っ て垂れ下がるクロスの薔薇模様。身体のしなやかな曲線と黒いブーツ。
ほっそりした身体を包むように広がる波打つ黒髪と金色の瞳。引き裂かれた黒の僧衣の肩部分に滲む紅の色。深く物事を見て取る視線。
2人のシスターは束の間無言で互いを確認した。
少女のまっすぐな視線を受けたモニカは一瞬睨み返した後で赤い唇をニヤリと歪めた。
「何か見えたかい?“セカンド・サイト”」
「・・・たくさんの家族が」
レイニアの短い答えにモニカの身体が一瞬呼吸を止めたとき、トレスが少女の前に立って肩の傷に目を走らせた。
「軽症だ。入浴後に処置することを提案する」
言いながら少女の僧衣の襟元に手を掛けたトレスはすぐにその手を下げてモニカに向き直った。
「レイニア・スレイアの打撲の状況確認を要求する。・・・それ以外は手出し無用だ」
「へぇ〜。お人形ちゃんでもそういう遠慮はするんだ。可愛いらしいじゃないか」
「卿の発言は意味が不明だ。黙っていることを推奨する」
「ま、その可愛いさに免じてちょっとだけ子守してやるよ」
モニカは笑うと噛み煙草を吐き出した。
「やっぱ、連れ込みか逢引き用だな」
コックを捻って勢い良く湯を出しながらモニカの目はバスルームをぐるりと見回した。
細かいタイルで装飾された円形の浴槽は確かに一人用にしては広かった。ちょっとしたテーブルほども面積がある浴槽の縁には形が揃ったさまざまな色の壜が 一列に並べられている。ためつすがめつしてから1本の壜を選んだモニカの手がその栓を抜いて中の液体を数滴垂らすと、浴槽のに溜まりはじめていた湯は一瞬 で乳白色に変化した。
「なんだ・・・・こっちは人形って訳でもなかったんだ」
身につけていたものをすべて脱いだ少女を見たモニカは言葉を切った。真新しい肩の傷以外に細くて白い身体には数箇所の傷が丸い跡を見せていた。モニカは するりと近づくと傷がない方の少女の肩を捕らえ、小さな身体を目の前で一回転させた。
「痣だらけだな。これからどんどんいい色具合になりそうだ。・・・いいぞ、湯に入んな」
女の視線になんとも居心地の悪さを感じていたレイニアは素直に白い湯に身体を沈めた。
「ったく、なんであたしがこんなこと」
ブツブツ言いながら少女の長い髪にシャワーの湯をあてたモニカは跳ねた湯で濡れた袖口を不快そうに睨んだ。
「ああ、もう、面倒だ!」
立ち上がって大胆に僧衣を脱ぎ捨てていくモニカをレイニアは戸惑いながら眺めた。モニカはあっという間に裸身を晒すと二人分の衣類をまとめて放り投げ、 すりガラスの折れ扉をぴしゃりと閉めた。それから歩いて来ると浴槽の縁を跨ぎ超えてザブザブと身体を沈め、膝立ちになる。
「ほら、後ろ向いて髪を寄越せ・・・って何目を丸くしてんだ、お前は。あたしが襲うとでも思ってんのかい?」
「あ、いや・・・・・他人の裸身を見たのは・・・初めてだから・・・・・。失礼した」
「はぁ?」
慌てて目を逸らしたレイニアを見て自分こそ瞳を大きく見開いたモニカはやがて大声で笑いはじめた。
「見とれてたんならそう言えよ、ちび天使」
「・・・ちび天使?」
「この間顔を合わせた野郎がお前のことを天使って言ってたんだよ。柄じゃねぇくせに。・・・で、あたしの身体はどうだ?感想は?」
悪戯っぽい笑みを浮かべたモニカは豊かさを強調するように胸の下で腕を組んだ。
「・・・綺麗で、豪華だ」
真面目な顔で小さく答えたレイニアが見上げると、その視線の先でモニカは不意にザブリと肩まで湯に浸かった。その頬がほんの少し紅潮したように見えたの は湯気の加減だったかもしれない。
「・・・お前、あたしのこと、何か話を聞いてないのか?・・・ちょっとは怖がれ」
レイニアは首を傾げた。
「物質透過能力のことは聞いているし、この目でも見た。後は、知らない」
モニカの青い瞳が光った。
「本当か?あの人形ちゃんはお前に何か忠告したんじゃないのか?」
「トレスのことなら、トレスは『その目で見て判断しろ』と言ってた」
「なるほどな、その『目』か・・・・」
湯の中を進んだモニカは指先で少女の顎を持ち上げた。
「さっき、『家族』とか何とか言ってたな」
レイニアは頭を振ってモニカの手を逃れ、改めてその顔をまっすぐ見た。
「あなたと同じ黒い髪と青い目の人がたくさん見えた。笑顔の」
モニカは一瞬目を閉じた。再び目をあけたこの暗殺者の顔を見た者は・・・普段の彼女を知っている者なら恐らく、瞬間的にモニカの顔を通り過ぎた表情を自 分の見間違いだと思っただろう。それは人によっては『懐郷』と名をつけている感情の気配だった。
「ああ。うちの一族はみんなで一家族みたいなもンだからな。・・・ほら、後ろ向けよ」
少々乱暴に少女の髪を掴んだモニカは壜から直接シャンプーを振りかけ盛大に泡をたてはじめた。
「お前、でかくなれないんだろ?お気の毒ってやつだな。いい女になれそうなのに」
「・・・子どもなのは身体だけだ」
憮然としたのを隠し切れないレイニアの声にモニカは楽しそうに笑った。
「じゃあ・・・お前は男を抱いたことはあるか?男に抱かれたことがあるか?」
「・・・いや」
「そんなら、女は?」
驚いたように振り向いた少女の顔を両手で挟みこんでモニカは唇を近づけた。そして手の中の少女が逃げる様子なく静観しているのを見て、小さく舌打ちし た。
「つまらないな。やっぱりお前は子どもだ。情熱も何もまだ知らないんだろ」
再びモニカが髪を洗いはじめると、レイニアはそっと息を吐きだした。
「・・・そういうのを知らないと大人じゃないのか?」
低い声の中には真面目さ以外に何か他の響きがあった。
モニカは手を止めるとシャワーを出して丁寧に髪に湯を流した。
「ま、少なくとも女じゃないな」
「・・・そうか。自分の身も・・・守れないしな」
泡を流しきってしまうとモニカは浴槽の栓を抜いた。
「ほら上がれ、ちび天使。今頃はおちびちゃんがジリジリしながらお前を待ってるだろうさ」
頭と身体にタオルを巻きつけられたレイニアはふらつき気味にバスルームを出て行った。
「身体が小さいとのぼせやすいのか?」
見送ったモニカの顔には穏やかと言っていい表情が浮かんでいた。
「起きてるか?イクス」
隣りで寝息を立てはじめた少女の顔を見下ろしながら、モニカは常夜灯の下で身体を起こした。
「肯定。何か用か、シスター・モニカ」
部屋の片隅でかすかな物音が聞こえ、立ち上がったトレスがベッドの傍らに歩み寄った。
「こいつ、無防備すぎるぞ。お前の弟子ならもう少し怖いものは怖いってことを教えておけ」
「怖いものとは、卿の事か?」
「・・・それだけじゃないが。こんな顔してグゥグゥ寝てる場合か?襲われたばかりなんだぞ」
この危険人物であるシスターと顔を合わせるとなぜかいつもないはずの感情を垣間見せてしまうトレスはこの時も機械的なガードを超えたような表情を浮かべ た。しかし今回の感情はこれまでのものとはかなり違っていた。まるで立場が入れ替わったような・・・そう見る者もいるかもしれない。ほんの僅かな気配で あったが。
「襲われる・・・卿にか?」
「ば・・馬鹿言うな、チビスケ!お前、聞いてやがったな?」
高くなったモニカの声に反応するように少女の唇が聞き取れない呟きを漏らした。飛び出しかけた次の言葉を飲み込んだモニカは続けて寝返りを打った少女が 再び規則正しい寝息をたてはじめるまでトレスとともに沈黙した。
「レイニア・スレイアが就眠している理由は食事の後で摂取した薬剤の効用と極めて身近に卿と俺が存在しているからだと推測する。この状態で315分前に遭 遇した虫の襲来があってもレイニア・スレイアが損害を受ける確率は0.00012パーセントに過ぎない」
「安心してるって意味か」
「肯定」
トレスの指が頬の上を通って斜めに少女の口元を覆ってしまった一筋の黒髪を避けた。
「保護者だな、お前。それとも恋人か?」
ニヤリとしたモニカは口を開きかけたトレスを手で制して枕に頭をのせた。
「まあ、いい。取り消してやるよ、おちびちゃん。こいつが訳はわからないが面白いガキだってことはあたしも認めるからな」
トレスは無言でモニカを見た。
「でもな、覚えとけ、イクス。何か理由が出来たらあたしは一撃でこいつの心臓を掴み出すからな。0.1秒だって躊躇ったりしない」
「肯定。それは俺も同じだ。俺はミラノ公の機械だ」
そう言いながら背を向けたトレスは部屋の片隅の暗がりに戻って行った。
枕の高さを整えて再びベッドに身体を横たえたモニカはゆっくりと目を閉じた。
「どうだかな。・・・それが本当なら、ちび天使、あんたやっぱり眠ってる場合じゃないかもしれないな」
その囁きと艶然とした笑みは宙の闇に吸い込まれて行った。