月の光を全身に浴びた神父の姿は昼間見かけた美丈夫の誉れ高い姿とは何かが違っているように見えた。己を照らす光の源には目もくれず、冴えた瞳を地面に向 けて立つ横顔は遠目からでもその瞳の翡翠の色を見て取ることができる。雪崩落ちる金糸のような光る髪以外黒に包まれたその姿は何かを深く考えているよう だった。
その青年はふと顔を上げた。やはり気配を感じ取られたか。そう思った神父が自ら進み出て挨拶をしようと決めたとき、青年が視線を向けた対象が彼ではない ことを知った。ほっそりした小さな姿が青年に歩み寄った。それは彼が噂に聞いていた新しい『仲間』に違いなかった。興味を惹かれた神父は静かに足を進め た。
「神父トレスは重症ではあるが修復可能な損傷であると聞いた。・・・・君は彼の傷を確認してきたのか?シスター・レイニア」
少女が頷くと長い黒髪が揺れた。金色の瞳はユーグの顔をじっと見上げる。
「報告書を受け取って状態を目で確認してくることが任務だったから。・・・トレスは眠っていた」
「そうか・・・・ではちゃんと会えた訳ではないのだな。・・・辛かったのではないか?」
ためらうようにぎこちなく手を伸ばして頭を引き寄せようとするユーグの手に逆らわず、レイニアは額を僧衣に包まれた胸にあてた。
「でも、明日は“教授”が直接向こうに行って作業の指揮をとってくれる。それがとても・・・ありがたい」
「そうだな。師匠は神父トレスのことを一番よく知っている。大丈夫だ」
レイニアはユーグから身体を離し、不安を宿したままの瞳でユーグを見あげた。
「神父ユーグ。あなたは“教授”にメンテナンスをしてもらうのではないのか?」
その口調がどこかしばらく姿を見ていない機械化歩兵のものと重なって苦笑したユーグはやがて視線を落とした。
「・・俺は早朝に任務でアムステルダムに発つことになっている。残念だが師匠には会えないし、しばらくは君とも会うこともないな」
明日の出立時間が決まった後でウィリアムの到着予定時刻を知った。多分彼が希望すればウィリアムとの挨拶がてら両腕を軽くメンテナンスしてもらう許可は すぐに下りただろう。しかし、ユーグはそうはしなかった。そうしなかった理由を考えることもやめた。けれど彼を見上げる少女の瞳は言葉なくそれを問うてい るようで。そして彼の心の底に隠れている答えを見つけ出してしまいそうで。
ユーグはそっと片手を少女の頬に触れると歩きはじめた。
「いつも健やかであれ、シスター・レイニア。神父トレスは直にミラノ公の元に・・・そして君のところに帰ってくるだろう」
一瞬袖をかすめた少女の指先に気がつかないように、ユーグは薄暗い回廊に姿を消した。
気遣わしげにその姿を見送ったレイニアはやがて少し離れて立つもう一人の神父に顔を向けた。
「・・・ヴァーツラフ・ハヴェル神父?」
少女の金色の瞳を正面から受け止めたことによる己の動揺をヴァーツラフは信じがたいことのように感じた。力強さに溢れた瞳。そこに見えるのは純粋さと邪 悪さ、そのどちらに転んでも強者となり得る可能性。
「私のことを誰からか聞いておられたか?はじめまして、シスター・レイニア・スレイア。この遅い時間にどうしたのです」
ヴァーツラフの穏やかな声に微笑したレイニアは、彼の短く刈った髭とやせた顔、深い緑色の瞳を見つめたまま素直に疑問を口にした。
「わたしを『異端』だと思うか?神父ハヴェル」
驚くほどの率直さは決して性分が大胆なわけではないのだろう。答えを待つ少女の顔には緊張の色があった。強さと弱さを併せ持つ者。またひとつ印象を付け 加えながらハヴェルも微笑した。
「私はもう異端審問官ではありません。大体、そこのところにこだわってしまったらミラノ公の大切な手足がぐっと減ってしまいますからね。私はただ、これま でウィリアムやケイトがあなたのことを褒めちぎるのを聞かされてばかりだったので、ようやくお会いできたことをゆっくり実感していたのです」
「それは同じだ。特に“教授”はあなたとわたしが早く会えたらいいのにと何度も言っていたから、明日はきっと大喜びだ」
そう言いながらウィリアムが召喚された理由を思い出したのだろう。少女の瞳が沈んだ。
「トレスのことですね。聞きましたよ。でも彼は少なくともミラノ公を守ることはできたのだし彼自身の傷も直すことができるとわかっているんです。少し時間 が必要なだけですよ。直に戻ってきます」
温かな声とやわらかな口調。敬虔な聖職者そのものの雰囲気に包まれて立つヴァーツラフをレイニアは見上げた。
「どうしました?まだ何か気にかかっているんですね?」
レイニアは頷いた。そして視線を建物に向けた。
「神父ユーグが・・・何かいつもと違って・・・・気のせいかもしれないけれど・・・」
ヴァーツラフも頷いた。
「昼間とは随分違う感じでしたね。遠目ですが私もさっき、そう感じました。・・・・あなたはユーグの中に何かを見たのですか?」
レイニアは答えにくそうに口ごもった。
「神父ユーグの中には・・・暗くて熱いものがたくさんあるけれど、きっと身体と同じくらい傷があるけれど・・・でも、時々笑った顔はとても眩しい・・・」
ウィリアムの身の回りの世話を焼いている時、レイニアとトレスが滑稽な押し問答にしか聞こえない会話にはまり込んだ時、『妹』のことを言葉少なくレイニ アに語って聞かせてくれる時。
言葉を切ったレイニアにヴァーツラフの瞳が包みこむように優しい視線を送った。
「なるほど、あなたは持っている力を濫用する方ではないのですね。あるがままを受け入れますか。だからトレスの中にあって表面には出てきていないものも大 切にしているのですね」
「・・・過大評価だ」
頬を染めた少女はそれでもヴァーツラフの言葉を拾い上げた。
「・・・トレスの中に表面に出ない何かがあると、あなたは思うのか・・・・?」
すがるような、答えを・・・肯定を強く望んでいるような瞳と、それでいてそんな自分を諌めるように軽く唇を噛んでいる小さな顔。この思いつめた顔に対し ては恐らく誰もが少女が望む答えを与えたいと思ってしまうだろう・・・それが例え偽りであっても。聖職者である彼は嘘を答えるわけにはいかないが、幸いな ことに今回は思うままの答えを言うことができた。
「思いますよ、シスター・レイニア。あなたもウィリアムもユーグも・・・それにアベルや他のAxもみんなが感じているはずだ。そしてみんながないと言い張 る当人の主張を黙って受け入れてあげているんです。そうすると彼が一番くつろぐことができるでしょうからね。トレスはひどく頑固だから」
ひとつ頷いて笑顔になった少女をヴァーツラフは静かに見つめた。
「明日、久しぶりにウィリアムに会うのを私も楽しみにしていますよ。じゃあ、おやすみなさい、シスター・レイニア」
会釈して背を向けた後ろから小さな声が追った。
「無理に『シスター』と呼んでくれなくていい・・・その方がきっとあなたは楽だ」
ハッとして振り向いたヴァーツラフの前、去っていく少女の後姿とはすでに間に距離ができはじめていた。
「やはり・・・力は本物ですか」
口の中で呟かれた静かな声は闇の中に吸い込まれた。