唇 温

写真/白薔薇の蕾2輪 季節の終わりを惜しむように早朝の光の中で花弁を揺らす花の傾いた茎をそっと切り取って籠に入れると、レイニアは空を仰ぎ見た。ここ、ミラノのスフォル ツァ城の庭から見る空はローマで見るものよりもほんの少し距離が近い気がする。そして近い分、色が濃い。茎葉の緑も光を受けて影色に縁取られた芳花も色鮮 やかに浮き上がる。
 他に切っておいた方がいい花がないか見回しながらゆっくりと歩いていたレイニアは緑色の通路のつきあたりに立った。実はその先には植え込みで巧みに隠さ れた続きの小路があり、それは奥の小さな四阿に続いている。そこは領地に戻った時にカテリーナが己を日常から切り離した数刻を過ごす場所だということをレ イニアは知っていた。もしかしたら今もそこで疲れた身体と心を癒しているかもしれない。切りたての薫り高い薔薇はその助けにならないだろうか。レイニアは 唇に微笑を浮かべて静かに秘密の通路に身体を滑りこませた。
 まだ露に濡れた草を踏んで静寂の中を進むと緑の壁の切れ間に着いた。そこから続く光溢れた空間に一歩踏み出そうとしたとき、レイニアの金色の瞳はとある 光景を視界に入れた。
 やわらかなドレープが優しい印象を与えるくつろいだドレス。明るい色のそれを身に纏った細やかな姿はすっきりと背筋を伸ばして立っている。豪奢な金色の 髪はまだ結われることなく身体の線に沿って流れ落ちる。その眩しい姿の前で身をかがめるように顔を俯けて立つ姿は黒の僧衣をまるで手本のようにぴっちりと 身につけている。明るいオレンジブラウンの髪。滑らかな人工皮膚に包まれた顔。今、白い手がそっとその両方の頬に伸び、深い色で表現された唇がそっと額に 触れた。
 カテリーナとトレス。
 二人と見た途端に苦しいほど急ぎ出した胸の鼓動に、レイニアは身体を動かすことができなくなった。それは少女の目には余りに美しい光景に映り、自分がそ れを見ている事が罪のように感じられた。
 少女の接近に気がついたはずのトレスが顔を上げてしまう前に。その気配を感じたレイニアは必死で身を翻し小路をもと来た方へ走った。

「・・・・」

 素早く顔を上げた後誰何することなく黙っているトレスの視線を追ったカテリーナは小路の手前に落ちている白い花を見た。

「誰かいたのですか?」

「レイニア・・・、レイニア・スレイアがいた」

 答えたトレスの顔には抑揚のない声とは違うかすかに訝しむ色があった。

「まあ・・・・そうですか」

 事情を察したカテリーナはトレスの顔から手を離した。トレスは一歩下がった主人の顔にまっすぐな視線を向けた。

「卿の行動は理解不能だ、ミラノ公。俺の額に接吻する事にどのような意味がある?機械の俺には無意味だと理解する」

 カテリーナは静かに微笑し、トレスの顔を見上げた。

「大切にしたいと思う気持ちはその対象が人であれ機械であれあまり関係のないことではないかしら、神父トレス。そして今の行為は身を挺して私を護ってくれ たあなたに対する感謝とあなたが戻った事への感謝を兼ねているのですよ」

 トレスの瞳の奥でチカチカと光が瞬いた。

「俺はミラノ公の機械だ。39時間前の行動は当然の事だと認識されるが、卿がそれを評価した、ということなのだろうか?」

「そう思ってもらった方があなたにはわかりやすいでしょう。評価と、そしてあなたがいてくれたことへの感謝です」

 一言一言をゆっくりと語ったカテリーナはトレスの瞳を覗き込んだ。

「ではなぜレイニアは突然この場を離れた?理解不能だ」

 少女の心の動きをこの機械化歩兵に伝える術はない。レイニアはカテリーナがトレスに与えた唇の意味を恐らく正確に理解している。それでもなお少女の心が 揺れ動いた原因は・・・それはただ少女の心の中にある。

「邪魔をしてはいけないと思ったのでしょう・・・・多分」

 想いを胸に仕舞いこんで。
 カテリーナはトレスから視線を外した。




 傷のすべてを癒して修理が終わったトレスはタイマーで再起動された後、一番最初にカテリーナを探し、そしてあの四阿にその美しく高貴な姿を見出したのだ ろう。そしてカテリーナは無事に復活を遂げた忠実な姿に対して感謝と祝福の口づけを与えたのだ。
 ようやく足を止めたレイニアは切花の半分以上を落としてしまったことに気がつき、唇を噛んだ。場面の意味もそこにある気持ちもちゃんとわかっていた。そ れなのに心が勝手に動揺して身体と思考を支配する。何かいけないことをした後のようにどこかへ逃げ出したくてたまらない。崇拝し護りたいと願うカテリーナ のことを・・・初めて強く羨んだ。この感情は間違うと妬みに通じる。そのことが苦しくてたまらない。
 俯いていたレイニアは突然掛けられた明るい声に驚いて身体を大きく震わせた。

「早いですね〜、レイニアさん!あのですね、もうトレス君はあの部屋を出ちゃったみたいですよ。もう会いました?・・・・レイニアさん・・・?」

 ブンブンと振っていた手を止めたアベルは少女の肩が震えている事に気がついて首を傾げた。

「どうしました、レイニアさん?お腹でも痛いんですか?あ、それともお腹すきました?それならきっともうすぐ朝ごはん・・・・」

 笑って顔を上げたレイニアの唇が震え、瞳から涙が一筋落ちた。

「・・・そうではない、神父アベル」

「え・・・?うわ、レイニアさん・・・・?」

 心配そうに大きな身体を曲げて覗きこんで来るアベルにレイニアは微笑した。

「何でもない。・・・・あんまり綺麗なものを見たから・・・・そのせいだ」

「・・・・そんなに綺麗なものを見たんですか?」

 涙の理由はわからなかったが少女の心の痛みを感じ取れる気がしたアベルは両手をそっと細い肩に置いた。本当はそのまま小さな身体を引き寄せて抱きしめて やりたいと思ったが、そうすると余計にレイニアを困らせてしまうことを知っていたのでただ、一度だけ肩を撫ぜた。人間を守りたいと願う彼はこの少女の涙を 止める事もできない。人の身体が傷つき血を流すことから護る事ができたとしても、命を救う事ができたとしても、それでも彼はきっといつまでも無力なのだ。 己の思考に沈みはじめていたアベルはふと視線をあげて微笑した。

「わたし、ちょっと先に戻って朝ごはんがまだか見てきますね」

 そう言いながら少女の肩をくるりと回して後ろを向かせると、アベルは場を離れた。
 突然身体の向きを変えられて瞳を見開いたレイニアの視線の先に、トレスが立っていた。

「トレス・・・・?・・・あの、さっきはごめんなさい・・・」

 慌てて頬の涙を拭う少女の前にまっすぐ歩いてきたトレスは無言のまま少女の前に手を差し出した。白い手袋をはめたトレスのその手にはレイニアが落として きた花たちが握られていた。

「否定。謝罪は無用だ。ミラノ公から卿があの場を離れた理由を聞いて理解した。つけ加えるなら卿があの場にいても何ら不都合はなかった」

 レイニアが腕に掛けている籠に花を入れてやった後、トレスはそのまま少女に視線を落とした。
 レイニアはトレスの顔を見上げながら締め付けられていた心が開放されるのを感じていたが、再び差し出されたもう何も持たないトレスの手を不思議な思いで 見つめた。その手は静かにレイニアの頬を包み込んだ。

「卿がミラノに来てからおよそ80パーセントの時間を俺の状態確認に費やしたことを認識している。それは“教授”からの指示を要求以上に満たしていると推 測できる」

 半ば呆然としながらトレスの声を聞いていたレイニアはかがみ込んだトレスの唇が額に触れるのを感じて目を閉じた。冷たくも温かくもないその感触。再び心 臓の鼓動が苦しいほどに速まった。しかし今度の苦しさは甘美さを伴っていた。
 トレスにとってのこの口づけの意味はただ推測することしかできないが、それがどのような理由でもこの溢れそうな気持ちは変わらないだろう。トレスが自ら 与えてくれたのだから。
 唇を離したトレスはついでのようにレイニアの頬に残る跡を拭ってから手を離した。

「ナイトロード神父が両手を振り回している理由は卿の補給の準備ができたことを示していると推測される。可久的速やかに城に戻る事を推奨する」

 振り向いて遠くにアベルの姿を見とめたレイニアは先にたって歩きはじめたトレスの後を追った。
 吹きぬけた爽風が枝を揺らし、長い髪を弾ませながら離れていく少女の姿を見送る人影の存在を晒した。

2005.11.21

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