聖 夜

 一日待てば恐らく十分だった。
 他の派遣執行官が合流すれば事態は難なく決着がつく。
 いや、30分でも良かった。戦闘能力が極めて高い機械化歩兵が加われば条件は今よりはるかに有利になる。今、その機械化歩兵の声がイヤークリップを通し て『敵索のみにとどめて待機』を推奨している。感情がないはずのその声はもはや命令に近く、どこか切迫した印象があることにレオンは口角を上げた。

「やけに真剣に聞こえるじゃねぇか、拳銃屋の声」

 レオンの傍らで瞳を凝らしていたレイニアは小さく頷いて微笑した。本当はここでトレスと同じような台詞をレオンに言うべきなのだ。彼女では戦力にならな い。ひとたびその瞳で吸血鬼たちの正体を確認してしまった後は、用無しの役立たずだ。けれど。
 にやりと笑ったレオンの横顔には余裕と戦いを前にした昂ぶりの他に別の感情の気配があった。監獄の中でも忘れない年に2回の日付。その片方がすぐそこま で近づいている。これは彼にとって幸運以外の何物でもなく、これから先の長い年月に再びその幸運が巡ってくるかどうかはわからないのだ。
 レイニアが見上げると獲物を狙って細まっていた鋭い瞳が和らいだように見えた。

「いいな。お前さんはここで拳銃屋が来るのを待て。俺はやっぱり1分1秒でも時間が惜しい。だからちっとばかり先に始めてる。俺には・・・」

「いい女と会える機会を無駄にするなんて勿体無くてできない・・・・ってことだよね」

 はっとしたようにレイニアの金色の瞳を覗いてレオンは声を殺して身体をゆすりながら笑った。

「わかってんじゃねぇの。やっぱ、お前は俺が知ってる中で2番目くらいにいい女だな。動くなよ、いいな。お前の仕事はしっかりその目で見てそいつをちゃん と伝えることだ」

 立ち上がった巨体の手首で涼しげに戦輪が音をたてた。
 レイニアは真っ白な地面にレオンが残していく足跡を目で追った。彼の心の中にあるこの低く積もった雪のような白い領域。そこを覗くことは罪悪だ。だから 一枚の薄いベール越しに見守っていよう。少女の唇から白い息が漏れた。




「何故単独で突入した、“ダンディライオン”。卿の行動は正常な判断に基づいたものとは思われない」

 硝煙の残り香を漂わせているトレスの姿はレオンのそばにいると余計に小柄に見えた。低い声で紡ぎだされる抑揚のない声をレオンに向けながら、ガラスの瞳 は己の腕の中に抱き起こした少女に向いていた。細く流れ落ちる鮮血が雪を穿つように溶かしていく。

「何故卿はレイニアを・・・」

 周囲を血しぶきと残骸のような肉片で囲まれた中で言葉なく立っていたレオンは唇を開きかけてまた閉じた。トレスの声に非難の響きを聞いていた。無感情な 声から感じるこの響きは恐らく己自身の心が囁いているものなのかもしれない。

「・・・違う、トレス・・・・神父レオンは・・・しつこいくらい待っているように言っていた・・・動いたのはわたしだ」

 予想外の敵の接近に気がついた時、レイニアは警告を発すると同時に走った。すでに傷だらけになっていたレオンの姿を目にしながら動かないでいることはで きなかった。

「・・・すぐにトレスが来ることもわかっていたから・・・」

 傷の上に巻きつけられたマフラーが締められたきつさに唇を噛んだレイニアは言葉を切った。一瞬静止したトレスはそっと少女を抱き上げ、レオンと視線を合 わせた。

「撤収する。先に行って車を回せ、ガルシア神父。俺は歩いている」

 少女の傷のためにゆっくりと。
 引き結ばれて一本の線になっていたレオンの唇がようやく緩んだ。




 巨体に似合わず猫のようにしなやかに立ち上がったレオンはベッドの中の白い寝顔から視線を上げた。1時間ほど前に寝付いたときのレイニアの顔は頬が赤 かったことを思い出して微笑する。大きなカップで湯気をたてていた紅茶に赤ワインと砂糖をたっぷりと混ぜたのは彼だ。アルコールは少女の傷にはあまり良く ないかもしれなかったがぬくもりと睡眠を与えてくれた。

「おっかなかったぜ、お前の顔・・・」

 銃を片手に走ってきた少女の瞳には光が溢れていた。
 真剣で必死で彼のことを想っていた。まるで極めて自分に近いものを守りたいと願うように・・・家族を想うように。
 レオンは足音を殺してそろそろと扉に向かって前進した。
 彼にはこれからやらなければならないことがあった。

「・・・資金は足りるの?神父レオン」

 髪の毛が逆立った気分で振り向いたレオンはパッチリと瞳を開いたレイニアと視線を合わせた。

「何だ、お前・・・目が覚めちまったのか」

「・・・『顔がこわい』とか何とか言われた気がして、ね」

 起き上がったレイニアは床に足を下ろすとベッドの上にきちんと畳まれて置いてある僧衣に手を伸ばした。その表情を通り過ぎたやわらかな色はそれを畳んだ はずの手とその持ち主を想像したから、だったのかもしれない。

「何やってるんだ。おとなしく寝てないと“拳銃使い”におっかけられるぞ」

 するりとカーテンの陰に入ってしまった少女を引っ張り出すわけにも行かず、レオンは布の向こうの身体の動きを見ながら呟いた。

「約束したから。それにちょっと興味があったの。まるで嵐みたいだって神父アベルが言ってたし・・・」

 カーテンから出たレイニアは頭を一振りして長い髪を落ち着かせた。

「確かに約束させたのは俺だがな・・・・やっぱりお前、ベッドに戻れ。今のお前の体力じゃ、俺にはついて来れねぇよ」

 困った顔をして腕を組んだレオンの姿にレイニアの微笑が大きくなった。

「じゃあ余計に身体の中のアルコールが元気をくれているうちに、早く行かなくちゃ」

 スタスタとレオンを追い越したレイニアは扉を開け、そして・・・目を丸くした。

「・・・見つかった」

 突っ立つ二人の前に冷たい無表情で立ちふさがったトレスは光条照準器の赤光に似た視線を向けた。

「どこへ行く。卿にはまだ休息が必要だ、レイニア・スレイア。そのことは卿も理解しているはずだが、ガルシア神父」

 いたずらを見つかった子どものように首をすくめたレオンはため息まじりに両手を挙げた。

「いやぁ、こんなに早くお前に見つかっちまうとはな。まあ、ちょうど良かったのかもしれねえな。確かにこのお嬢ちゃんはもう少しおとなしくしていたほうが いい」

「トレス」

 ほんの数秒言葉を選んでいたレイニアは結局思いついたすべてを捨てた。うまく言う必要はない。トレスには真実以外必要ないのだ。

「これから大急ぎで買い物をして夕方の特急に乗れば神父レオンは夜中にミラノに着ける。それから朝一番に乗って戻ればわたしたちが予定している通りのロー マ行きに間に合う」

「ミラノ?」

 復唱するトレスにレイニアは頷いた。

「夜中に着けばプレゼントを置いてこられるし寝顔も見られる。・・・わたしにはよくわからないけれど今夜と明日はそういう日なのでしょう?離れている家族 も集って贈り物を交換したり・・・そっと靴下の中に入れておいたり・・・神父レオンにはそうしたい相手がいるのだから・・・」

 季節的には聖職者たちの中で紫の色が目立ちはじめ、いろいろな場所で飾られたツリーや何か一場面を表現するように置かれた人形のセットを見かけるように なっていた。レイニアにとってはそれはどれも言葉と情景が組み合わさった情報のひとつでしかなく、これまでも常に傍観者だった。だから最初は気がつかな かったのだ。この任務の日にちと過ぎる時間にレオンがどうして普段からは想像できないくらい神経質になっていたのか。そしてそれを知ってしまえば、いつも 冷静に計算されつくした作戦を展開する巨漢が負傷することを100パーセント予想しながら単独で乗り込んでいくのを止めることはできなかった。この一刻一 刻がレオンが無謀ともいえるやり方と己の犠牲によって獲得した貴重な時間なのだ。その貴重な時間を一時間近くレイニアを見守ることに使ってしまったレオン を。レイニアはまっすぐにトレスの顔を見つめた。

「わたしは一緒に買い物につきあうと神父レオンに約束した。だから、行きたい」

 トレスの視線がわずかに揺れた。それは人間で言うならため息をつくような・・・そんな感じにも見えた。

「理解した。確かに“ダンディライオン”の次の予定は明日我々とともにローマへ行き、“剣の館”でミラノ公に直接口頭で今回の任務についての報告を行うこ とだけだ。それまでの時間は行動の自由が許可されている。・・・・卿については俺の任務には卿の援護および護衛が含まれている。よって卿が外出するという のならば俺も同行する」

「ったく、せっかくのデートにお邪魔虫が一匹くっついてくるってことか。ま、いいか。俺がついでにいい女への贈り物の選び方ってのを教えてやる」

 言いながらレオンは頬を染めたレイニアの横顔を見て苦笑した。お邪魔虫、は彼自身なのではないかと思いつつ、無表情を少しも崩さないトレスの顔に心の中 で嘆息しながら。




 レオン・ガルシア・デ・アストゥリアス。彼が心の中の愛しい女性・・・ただ一人の幼い娘・・・のために買い物をはじめると場は戦場になり嵐が巻き起こ る。レイニアはアベルから聞いていたこの言い方がまさしく今の状況をうまく描き出していることに感動のようなものを覚えていた。ドレスにアクセサリー、人 形にお菓子。獣の王者のような風格を持つ巨漢が突進していく世界は装飾と香りと甘さに満ちていた。そのどれもに馴染みがなくてついつい腰が引けてしまうレ イニアを捕まえてレオンは色の洪水を押し付ける。どうやら彼の大切な人も髪の色が黒いらしく、さらに長く伸ばすことに憧れているらしい。つまりレイニアは レオンにとってまさにちょうどいいマネキン人形なのだ。

「いやぁ、これは絶対に買いだな、無茶苦茶似合う。おい、そのスカートもいいんじゃないか?軽くてふわふわしててぱあっと広がっててよぉ・・・」

 本体の8割強がレースとフリルから出来ているように見える品々をとっかえひっかえ身体にあてられ、レイニアは貧血状態になっていた。誤解した店員が機嫌 を取るようにやたらと微笑みかけてくることにも困惑する。黒い僧衣が目に入らないのだろうか?『今この巨漢神父が買い込んでいるのはわたしのものではあり ません』・・・そんな張り紙を額の真ん中に張っておきたい気分だった。いやな感じの冷や汗を流しながらレイニアはじっと耐えていた。
 レオンはひどく嬉しそうだった。陽気でとどまることを知らず、そのくせ時々とても優しい顔をする。この顔を眺めていられるのならマネキンくらい我慢でき る。ついついそう思ってしまう。そのレイニアが時々向ける視線の先でトレスは自然と荷物持ちの役割を振られながら無言で立っていた。そのトレスも行く店々 で店員たち・・・主に女性・・・に取り囲まれることが多かった。硝煙の香りも甘さに押し流されてしまったようで、データ採取のために周囲を見回すトレスの 瞳とぶっきら棒この上ない返答はなぜか店員たちの心をとらえてしまうのだ。
 こうして小さな町を歩く三人の黒い姿はすっかりその日の話のタネになってしまった。

「ギリギリだな。悪かったな、つき合わせちまって」

 レオン一人では持ちきれない荷物を抱えて三人は揃ってホームに駆け込んだ。乗降口からレオンと買い物の山を押し込んでしまってようやく一息つくことがで きた。するとレオンはすっと手を伸ばしてレイニアの額に触れた。

「大したことはねぇがちっと熱があるな。おい拳銃屋。ちゃんと食べさせて寝かせてくれよ。朝になったら戻るからよ」

「了解した。明日0800に駅で合流する」

 レオンは手を下ろしてほんの一瞬レイニアの頬に触れ、にやりとした。

「本当は俺好みのドレスでも見立ててやりたかったんだがな。でもお前、絶対受け取らないだろうし怒るか困るかしちまうだろうからよ。・・・まあ、そいつが いるからいいさ。お互い、いい夜を。朝になったら、またな」

 ドアが閉まった。何か言いたいことがある・・・そう思ったレイニアだったが、ただ頷くことしか出来なかった。ガラス越しにレオンの唇が音無く何かを言っ た。

「え・・・?」

 動き出した列車の中のレオンの顔を追うように数歩進んだレイニアの手をトレスが静かに掴んだ。

「『ありがとう』だ、レイニア。“ダンディライオン”はそう言っていた」

「ああ・・・・それならわたしが言いたかったのに」

 クリスマス。人がどんな風にそれを楽しんでいるのかを、極端な例だったが見ることが出来た。愛しい相手へ贈ることができる喜び。目の当たりにしたその輝 きは何かとてもあたたかかった。闇に圧されてきた太陽の復活を喜ぶ日。この日でなければ意味がない。そう言っていたレオンの声を思い出す。誕生日とクリス マス。
 列車の姿はすでにかなり遠くなっていた。
 トレスについて歩き出したレイニアは自分の手がまだトレスの手の中にあることに気がついた。思わず頬が熱くなる。言えばきっとすぐにトレスは手を離して くれる・・・離してしまう。だから心の中で10だけ数えた。

「一人でちゃんと歩ける、トレス」

 トレスは立ち止まり視線を落として己の手の中の小さな手を見た。もしかしたら無意識の行動だったのだろうか。自分が機械であると主張する彼に『無意識』 が許されるならば。静かに手を離したトレスにレイニアは微笑した。

「もしも今日ローマにいたら、カテリーナ様に贈り物をしていた?」

 再び歩き出したトレスは頷いた。

「任務に発つ前に店にオーダーした。今頃ミラノ公に生花が届いている予定だ」

 ああ、とレイニアも頷いた。

「白い薔薇?・・・・前にトレスが言っていた・・・」

 まだ冬が訪れる前に哨戒を終えたトレスがぽつりとレイニアに呟いたことがあったのだ。スフォルツァ城に植えられている白薔薇と同じ種類の花が売られてい るのを見かけた、と。

「・・・肯定」

 トレスの声にはわずかだが意外そうな響きがあった。
 レイニアは笑った。
 ことトレスに関しては記憶力は彼に劣らない自信がちょっとだけあった。

「わたしは今年も贈るのも贈られるのも縁がなかったなぁ。わたしもカテリーナ様にお花を贈ればよかった。あとは神父アベルにお菓子とか、“教授” に・・・」

 言いながらレイニアは傍らのトレスを見上げた。本当は誰よりもトレスに贈りたかった。自分は勝手にもう受け取ってしまったのだから・・・あの10秒の時 間を。
 ガラスの瞳が視線を返した。伸びた指先が額に触れた。

「体温の上昇を確認した。速やかに宿に戻ることを提案する」

 離れていくトレスの手を少女の両手が掴み、足を爪先立ちになった少女の唇がトレスの手のひらに触れた。

「・・・祝福を、トレス」

 こんな自分でも神の恵みを祈ることができるなら。この心優しい機械化歩兵が愛する主の傍らに変わりなく健在でいられることを。
 トレスは無言でレイニアの行為を瞳に映し、小さな手と唇がすばやく離れるとその後を追った。

「宿に戻る」

 再び差し出されたトレスの手にレイニアはそっと自分の右手を重ねた。トレスがすべてをどう思ったのかはわからなかったが受け取ってもらえた気がして嬉し かった。それ以上を望む必要はなく、ただ心が満ち足りた。

「神父レオンは無事に夜の病院に入れるかな」

 枕元にあの華やかな包みを全部並べてからしばらく寝顔を見るだけでいい、そう言っていたレオンの顔をレイニアは思い出していた。

「肯定。病院には連絡済だ。侵入者と間違われる可能性はない」

 とにかく娘のところへ行くことばかり考えていたレオンに代わってトレスが行動していたようだ。これもトレスからレオンへの贈り物と考えてしまおう。今夜 はそういう夜なのだから。
 レイニアはトレスの手を握り返した。

2005.12.16

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