cigarillo

 待ち人は遅れているようだった。
 少女はちらりと時計に視線を落とし、小さく息を吐いた。あと30分で戻らなければいけないギリギリの時間だった。本当は同じ職場の同僚・・・と単純に言 えば言える間柄なのだから職場で会うことにしても良さそうなのだが、相手はなぜか少女を個人的に外に呼び出した。最後に一言、別の同僚・・・以前少女を拾 い上げてくれた人間にはこの約束のことを絶対に言うなと念を押された。そのすべてが不思議で納得できるものではなかったのだが、それでも少女は自分が再会 を楽しみにしていることに気がつかずに入られなかった。
 誰かと再び会えることを嬉しく思う。そのこと事体が少女には不思議なのだ。

 夕暮れはとうに過ぎ、足元にある影は街灯の灯りを受けた向きに沿うように伸び初めていた。ふと、鼻の頭に冷たいものを感じた少女は視線を上げた。細く流 れるような雨が降り出した。どこか近くの店先に走ろうか。そう考えたとき、少女は強い香りを嗅いだ。振り返ると黒ずくめの男が立っていた。彼が近づく気配 を感じなかった少女は警戒心を強めて一歩引いた。

「驚かせてしまったようで申し訳ありません。見たところ傘をお持ちではない様子でしたので声を掛けさせていただいたのですが、シスター」

 長い黒髪と身に纏う漆黒のインバネスがまるで一体となっているように男の身体を包んでいる。眼鏡の奥の黒い瞳にはよくみると無感情の中で好奇心がかすか に瞬いているようで、少女はさらに一歩引いた。すると男は微笑んだ。手袋をはめた指の間に挟まれた細い葉巻から煙がゆらりと立ち上った。

「ああ、さらに怪しい者と思われてしまったでしょうか。でも、シスター、せめて傘だけはお使いください。噛み付いたりはしないごく普通のものですから」

 男は無駄のない動作で空いた方の手で傘を開き、少女の隣りに歩み寄った。静かに少女の頭の上に傘を差しかけると少しだけ腰をかがめた。

「通り雨が過ぎるまでご一緒させていただいてよろしいですか?シスター」

 少女の金色の瞳が男の黒曜石の瞳を捉えると、男は静かに一礼した。

「私はアイザック・バトラーと申します。連れを待っているのですが、あなたと同じで相手は少々遅れているようですね」

「・・・どうして、わたしをシスターと?」

 少女は外見的にはほんの10歳の姿をしている。服装といえば神父用の黒い僧衣にケープだ。初めて少女を見る者は決まってその正体を訝しんで戸惑うのが普 通で、こうして穏やかな声で話しかけてくるのは異常に思えた。
 少女が見上げた先で男の笑みが深くなった。

「でも、神父様ではないでしょう?それならばシスターとしか呼びようがないではありませんか」

 紫色の煙が強く香った。
 少女の瞳が強い光を帯びた。それを見た男はさらに腰をかがめて少女の瞳を覗き込んだ。

「何が見えますか?シスター。私はあなたの敵ではありませんよ、今は」

 そう言った男は一瞬耳を澄ませた後、少女の手をとった。

「連れが来たようです。これはお使いください、私には不用ですから。・・・またお会いしましょう、シスター」

 男の手には渡された傘とおなじくらい体温を感じなかった。少女が傘を返そうと手を伸ばしたときには身を翻した男の姿は遠く離れ、その横には灰色の髪をし て人影があった。
 少女は男の後姿を見つめた。その姿の中に見えかけたもの、どう考えたらよいのかわからないあれは何だったのだろう。気づけば男の名前を聞いたが名乗るこ ともしなかった。しかし・・・もしかしたら男はとっくに少女の名前を知っていたのではないだろうか。名前も、それ以外も。

「なぁにボケッと突っ立ってんだよ、ちび天使。なんだよ、吸血鬼野郎に噛まれでもしたか?顔が真っ白じゃねぇか」

 爪を真っ赤に染めた手が少女の手から傘をもぎ取り、赤い唇が再会の挨拶を吐いた。慌てて振り向いた少女が微笑むと待ち人は頭を掻いてから少女の肩を抱き 寄せた。

「濡れちまうだろうが。ほら、行くぞ」

 さっきの男のことを話してみようか。そう思った少女は顔を上げたが口を開かないまま言葉を飲んだ。職場に戻ったら一番最初に話したい"人”がいた。今は 久しぶりの再会と許された短い時間に価値があった。
 そう決め時、少女はまたあの香りを嗅いだような気がしてそっと振り向いた。深まる夜の中、見分けられる人影はひとつもなかった。

2005.10.4

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