cigarillo2

 人間離れした力を秘めた手がこの上なくそっと小さな身体を抱え起こし裏通りに面した外壁に寄りかからせると少女はほっと息を吐いた。

「急がないと、トレス。その偽シスターがカテリーナ様のそばに近づくチャンスがこないうちに」

 少女が差し出した紙切れに視線を落した機械化歩兵はそこに鮮やかに描き出された一人の女の顔を瞬時に記憶した。無線の電波を妨害されているのか“剣の 館”にも二人からそう遠くないところにいるはずの派遣執行官にもここから連絡をとることはできない。けれど彼が全力で走れば事態が動く前に届くことは可能 であると予測された。
 硝子の視線が少女の顔に落ちた。打撲と捻挫、背中の擦過傷。予想される外傷は命そのものに影響を与えるものではない。けれど、その0と1の間で決められ るはずの判断に普段よりもほんの僅か余計な時間がかかっていた。それを人に当てはめると『躊躇い』という言葉になるのだろうか。
 少女はそれを感じ取ったように自分の上にある無表情な顔を見上げ、頷いた。

「わたしは大丈夫。そのうち神父アベルか教授が気づいてくれる。走って、トレス。カテリーナ様を守って。」

「・・・了解した」

 立ち上がるトレスの僧衣の動きをトレースしたレイニアの目は次の瞬間にはもう遠く離れた姿を追った。その姿が見えなくなった時初めて、背中の傷の痛みに 気がついた。じくじくと滲み出す温かさが僧衣に吸い込まれていくのがわかった。少しだけ休んだら立ってみよう・・・そう思った。

 細い雨が振り出した時、記憶に残る紫煙の匂いを嗅いだ。
 ごく当たり前のことのように建物の影から現れた闇を切り取ったような姿はレイニアに向かって優雅に一礼した。

「またお会いしましたね、シスター・レイニア・スレイア」

 男の頭の動きに合わせて流れるように動く黒髪と黒く沈んだ瞳をレイニアは見た。

「あなたの傘を持って歩けばよかった・・・・アイザック・・・・イザークとも呼ばれることがある名前だ」

 細い葉巻をはなした唇が曲線を描いた。

「傘は差し上げます、喜んで。私のことをご存知のようですが、私もあなたのことをこの間お会いしたときより少しは知っていますよ。ですから今日は最初のお 誘いをしてみようかと思って顔を出してみたのですが」

 レイニアの顔に疑問の色が浮かんだ。無言で見つめる金色の瞳を“魔術師”は微笑とともに見返した。

「HC-IIIX。彼はミラノ公の忠実な猟犬でありそれ以上でも以下でもない。彼自身が己のことをそう定めているのだからこれほど確かなことはないでしょ う。正確無比な機械。そのような人生は無粋で少しの面白味もなく想像さえしたくないと私は思うのですがね。その彼にあなたが見ているものは彼自身は望んで いないものなのではないですか?」

 男の言葉は正しい。その通りだ。そのことを他の誰よりも知っている少女は小さくひとつ頷いた。
 “魔術師”はその様子に目を細めた。

「潔い方だ。報われないと知りながらも彼の傍らに在りたいですか。それを貫ける程の強さをお持ちですか?時の流れに逆らっているあなたが気持ちを貫くには 通常を遥かに超えた意志の力がいずれ必要になってくるはずです」

 低く静かに語られる言葉をすべて消化してからレイニアは首を横に振った。

「気持ちは義務でも信念でもない。・・・・トレスがそこにいれば自然とそうなる」

 それを聞いた“魔術師”の顔に浮かんだのは慈愛、だったかもしれない。恐らく本物ではない気まぐれな感情の噴出。
 水が流れはじめた路面に膝をつき、“魔術師”は脱いだインバネスをレイニアの身体に掛けた。

「では今はまだお連れするのはやめておきましょう。そうしていくのが辛くなったら私をお呼びください。私は我が君にあなたのことを話してみましょう。もし も我が君があなたに興味を持たれたら・・・そうしたら私はもう少し執拗になるかもしれません。そうなった方が私には喜ばしいことではありますが。原石を磨 いて輝かせるのは興味深い実験となり得るので」

 身体を覆う黒い布地と通りに落ちた細葉巻。

「なぜ?」

 今のレイニアには自分を守る手段はなく、殺すのはとても容易だ。
 殺すほどの価値はない・・・そういうことなのだろうか。
 少女の視線に答えるように“魔術師”の白い手袋をはめた手が頬に冷たい感触を残して離れた。

「あなたはどういう使い方をしてもとても興味深い結果を引き出すことが出来る素材に思えるのですよ。手に入れる価値は十分だと。御自分を卑下するのは似合 わないですよ」

 どこか甘くすら感じられるこの言葉を少女が拒絶したことは引き結ばれた口許の線と瞳の力によって告げられた。“魔術師”は薄く微笑んで立ち上がった。

「またお会いしましょう、シスター。ああ、傘も外套も差し上げますので持ち歩かれる必要はないですよ」

 影の中に歩み去る後姿を眺めながらレイニアはインバネスに残る煙の匂いを嗅いだ。
 会う度にそれが夢ではないことを印すために男は所有物をひとつずつ残していくのだろうか。ふとそんな考えが心をよぎった。

2005.10.24

Copyright © ゆうゆうかんかん All Rights Reserved.