経験値

写真今にも降りだしそうな雨の気配と静寂の中で近づいてくる宵闇の兆しに包まれて、少女は小さく身震いした。湖面に映る晴れた空の一片は瞳に記憶された残像が 再現されているのだとわかっていた。静かな水面を眺めていると時の流れが止まる。もしもここに噂どおりの神秘が少しでも実在するのなら。ここでこうしてい る限り時に取り残されている少女は生まれて初めて周囲に溶け込むことができるのかもしれなかった。
 少女の白い指が水に触れた。そこから広がった小さな波が鏡映を壊した。
 瞬間の魔法は破れた。
 やがて限りなく滑らかな状態に戻った水面に見慣れた姿が映った。

「作戦完了。こっちにターゲットの接近はなかったか」

「トレス」

 レイニアは立ち上がると自身でも思いがけない衝動でトレスの腰に両腕を回した。

「損害評価報告を・・・」

 黒い僧衣に顔を埋めてしまったレイニアの行動を恐れによるものと判断したトレスは少女がすがりつくままにまかせ、顔を俯けて様子を確認した。

「負傷したのか、レイニア?ならば速やかに応急処置を開始する」

 レイニアは首を横に振った。
 トレスはサーチして少女の身体が負傷している確率が極めて低いことを確認すると細い肩に手を置いた。静かに少女の身体を押し離そうとした瞬間に華奢な全 身が強張るのを感じたトレスは、2秒余りの思考の後で片手を少女の背にあてた。

「卿の行動は俺には理解不能だ。卿が望むものの入力を要求する。俺に実現可能なことであれば善処する」

 トレスの身体に残る硝煙の匂いの中で静かに背中に触れている手を感じながら。レイニアは自分の衝動を恥じるとともに今更何を言えばいいのかわからず困惑 していた。トレスにこれまでに聞いたことがない言葉を与えられ、それを人で言う『優しさ』であると誤解したい気持ちが強すぎる。強すぎるから余計に顔を上 げることができない。

「レイニア・スレイア」

 地面に膝を落としたトレスは目の前で視線を下げて立っている少女の顔に手を伸ばした。両頬を包んで上向けるとようやく二人の視線が出会った。

「恐怖の対象は何だ?吸血鬼は一匹もここへは行かせなかったはずだ」

 ガラスの瞳の奥で光が点滅しているのが見えた。

「・・・この湖の噂が本当だったら、と一瞬思ったんだ。ここにいる間時が止まるなら・・・わたしだけじゃなくてトレスの時も止まるならって。でも・・・ト レスにとって時間が止まるということがもしもスリープ状態と同じだったら・・・」

 これまでに幾度か破損箇所の修理のために数日、時には半月以上もスリープ状態のままになったトレスを見たことがあった。その度にレイニアはいるはずもな い神に祈るような気持ちになった。命を戻してくれるように、この機械化歩兵がいつもどこまでも守りたいと願う主のそばに戻ることができるように、そして少 女がその姿を見守っていられるように。

「卿の思考は論理を欠いている、レイニア。時間が止まるという現象は通常在り得ない。その噂の原因となったのは外見的に年をとらない吸血鬼たちの集落がこ こに存在したことだと推測される。その集落がなくなった今、噂は次第にここを知るものの記憶から消去されていくはずだ」

 その通常は在り得ない現象が目の前の小さな身体に起こっているということをトレスは思考した。少女がこんなにも安易に噂の信憑性を高く考えてしまったこ との裏には少女自身の身体に起きている現象がある。他の人間と同じ分類には入ることができない存在。今は禁じられている脳を生体部品に持つ機械化歩兵と同 じ、クルースニクという分析不能の暴走形態を持つアベル・ナイトロードと同じ。
 トレスが最深部に抱えている記憶の中で彼は機械として死ぬことを望みカテリーナのモノとして生きることを与えられた。その誓約が彼の存在意義だ。アベル は時折『人間を守る』ということを口にする。それがアベルの存在意義だと推測できる。
 ならば、レイニアには。もしも人にも存在意義というものが必要不可欠だとすれば。
 この少女の存在意義は恐らく。
 感情と心の揺れをリミッターで弾かれているトレスの脳は1秒とかからずに真っ直ぐに結論を導き出した。過去にレイニアが彼に見せた表情、聞かせた声と言 葉、身体が示した態度、行動。そのどれもが少女が重要視している存在があり、それがHC-IIIX、彼自身であることを推測させる。
 トレスは機械らしくその結論をただ受け止めた。感情がない機械である彼にはそのことに対する感想はない。彼にはカテリーナ・スフォルツァという最優先事 項がある。それはメモリが破損しない限り消えることはない。
 だが、それと同時に。
 トレスの中の演算子が導き出した計算により、トレスの手は少女の頭をそのまま引き寄せ胸に静かに押し当てた。その計算の道筋は高速で彼の中ではごく当然 の結果だった。経験の積み重ねでできた自然の計算式。恐らくアベルなどはこれを『人間らしさ』『保護欲』などと表現するのだろうが。

「トレス・・・?」

「雨だ」

 トレスのセンサーは周囲に数滴落ちた微細な水滴を感知していた。脱いだケープを少女の頭の上からかぶせ、トレスは細い身体を抱き上げた。

「自分で走れる・・・」

「卿を抱えて走ったほうが588秒早くポイントに着くと推測される」

 対象がレイニアでなかったら彼の計算はこの行動を導き出しはしないだろう。少女を抱えて走りながらトレスはそう結論した。それは少女の体重の軽さが主な 要因だが、それ以外に彼の中にすでにできあがっている思考回路にも原因がありそうだ。
 プルーフされてきた経験値。消えることのない記憶。

 カテリーナを守る。この少女とともに。
 主のそばにいる彼の傍らにはきっとこの少女が。

 トレスはレイニアの身体が落ちないようにしっかりと抱きなおしさらに足を速めた。

2006.4.25

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