初 酔

イラスト/火を灯した蜀台「ほら。飲みたかったんだろ?」

 礼拝堂のほの暗い光の中で少女の前に差し出されたのはその場所にはいかにも不似合いなグラスだった。そこから空気に漂う香りがグラスの半分ほどまでを満 たしている液体が酒であることを教えている。不似合いどころか冒涜だ。
 カラン
 少女の金色の瞳の前で氷が澄んだ音をたてた。

「・・・なぜだ?神父レオン」

「そんな顔してたからさ、さっき。おかしいよな。その顔見るまではこの俺もお前が見かけどおりの年齢の子どもに等しい存在だって自然に思っちまってた。か なりこまっしゃくれたただのガキだってな」

 ニヤリと笑ったレオンの笑みはどこか柔らかなものを含んでいた。

 スフォルツァ城で開かれた今夜の宴はカテリーナが彼女を支持する教会組織の重鎮と貴族をもてなすために催す年に一度の行事だった。武器と鎧をかねた色鮮 やかなドレスに身を包んだカテリーナのそばに僧衣を脱いだ慣れない姿のレイニアが静かに存在していた。その正体を尋ねられてもカテリーナもレイニアも曖昧 な笑みで質問をかわし続けたので、恐らくお付の者ともカテリーナが庇護している縁者の者とでも好きなように結論されただろう。実際には少女はその瞳の力で 美しい主の警護にあたっていたのだが。
 レオン、トレス、アベルの3名もそれぞれに真の姿を秘めたいつもの僧衣姿で色とりどりの客たちの中に身を潜めていた。隙を見て酒に手を伸ばすレオンと嬉 々として料理を食べているアベルに目を向けた少女の顔に微笑がよぎった。カテリーナの手には背が高くて細身のグラスがあり、それは中を飲み干せばまたすぐ に満たされる魔法の道具の一種のようだった。
 金色、琥珀色、光を通す透明な色。
 レイニアは人々の手のグラスの中の液体にいつのまにか魅せられていた。手の中で温めて楽しむもの、氷の音高く喉を潤すもの。様々な香り。
 そのレイニアが持っているグラスには城のコックが少女のために自分で絞ってくれた果汁が入っていた。氷が溶けて味が薄くなってしまうことに罪悪感を覚え ながらすこしずつ楽しんでいる天然の恵み。それでもレイニアは『大人』たちの手の中の液体を目で追っていた。決して彼女には勧める者がいない酒。越えるこ とができない細い線。
 そんなレイニアの視線をレオンはいつの間に見て取っていたのか。

「まあ、あまりたくさんはおすすめしねぇがな。子どもが酒を飲んじゃいけないってのは、多分、アレだ、身体が小さいから。お前の一口と俺の一口じゃあ血液 とか体液の中の酒の割合が違ってくるだろ?ほろ酔いは楽しいが本気で酔うのはなかなか辛い体験だぞ」

「でも、みんな飲むんだな」

「嗜好品ってやつだな。卵は半熟がいいってのと大して変わらんよ」

「わたしは・・・飲んだこと、ないんだ」

 ポツリと呟いたレイニアにレオンは笑った。

「そりゃ、仕方がねぇよ。お前みたいな子ども・・・に見えるやつの前では大人はきれいな建前で生きるもんだ。俺は、お前と一緒に飲んでみるのも悪くねぇと 思うがな」

「ファナちゃんが大人になったら・・・一緒に飲む?」

「当然だ。酒の飲み方をちゃんと教えてやって、気持ちがいい店にエスコートしてってやる。おかしな野郎は半径3メートル以内には絶対に近づけない」

「飲み方、か・・・」

 レイニアはグラスの中の液体を揺らし、表面の光の動きを眺めた。すぐに飲んでみたいような、なぜか少し怖いような。レイニアはそっと唇をグラスに寄せ た。

「そこで何をしている、レイニア、神父レオン」

 片方開け放したままの扉から姿を見せたのはトレスだった。

「お〜お〜、勘がいい保護者だな、お前。黙って見とけ。大人への第一歩、みてぇな儀式だ」

「否定。俺はレイニアを保護、援護するオーダーを受けているが保護者という呼称は妥当ではない。同じ組織の構成メンバーとして『同僚』レベルの言葉が適当 と考えられる」

「あ〜、もう、相変わらず頭がかたい野郎だな、拳銃屋」

「肯定。俺の頭部の強度は人間と比べて80パーセント・・」

「わかった!いや、わからねぇけどわかる必要もねぇ。とにかく場を進めさせろ」

 靴音高く規則正しい歩調で歩いてきたトレスは少女の前に立った。

「哨戒は終わった?」

「肯定。城内及び周囲に不審物及び人物は見当たらなかった。・・・これは、アルコールが含まれた液体か?」

「そうだよ!何か文句あるか?初めての時は信頼できる人間の前が一番安心できるだろ」

「信頼・・・」

 トレスは口を閉じてレオンの顔とレイニアのものの間にすばやく視線を往復させた。

「なんだよ。頭のかたいオヤジみたいなこと言うなよ!"セカンド・サイト”は年齢的にはもう飲む資格十分なんだからな」

 トレスの瞳がチカッと光った。再び頭の強度の話を始めるつもりか、と身構えたレオンはトレスが頷くのを見て目を丸くした。

「肯定。女性はアルコールの影響を周囲のものに悟られないように経験をプルーフしておくのが嗜みだとミラノ公が言っていた。少量ずつ慣れておくことを推奨 する」

「カテリーナ様が?」

「肯定。ミラノ公は食事の時のワインからはじめたと言っていた」

 少女の頃のカテリーナは今と変わらぬ真面目な顔で初めてのワインを味わったのだろうか。その姿を彼女が失ってしまった大切な人たちが見守っていたのだろ うか。
 そして今レイニアの前には、レオンとトレスが。
 少女は心の中でどこかにいるかもしれない大きな存在に静かに感謝した。礼拝堂はそれにはふさわしい場所に思えた。

「怖がるなよ。ほら、ぐっといけ」

 グラスの淵にそっと唇を当てて手首の角度を変えると冷えた液体が口の中に流れ込んできた。途端に満たされ溢れる香りと味、そして焼け付く感覚。何とか全 部を飲み込んだレイニアの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「損害評価報告を」

「・・・って、お前、それはちょっと違うだろうが。どうだった、初めての味は?『大人』だろ」

 目を拭ったレイニアは微笑した。

「そうか。これが『大人』か」

「そうよ。おまけに眠れない夜に助けてくれる事だってある。うまくつきあえばなかなかいいもんだ。飲んじまえよ。部屋までちゃんと送り届けてくれるコイツ がいるんだからよ・・・まあ、コイツだから許してやるんだが」

 何を『許してやる』なのかよくわからないままレイニアはまた一口飲んだ。
 将来ファナの前に現れる異性は・・・なんとなく大変そうだ。そんなことを思いながらグラスを干した。喉の奥の熱さが全身に広がって頭の中が軽くなったよ うな気分だった。

「さて、じゃあ俺は、もう一杯自分の寝酒をしっけいしに行くとするぜ。ちゃんとボディガードしろよ、拳銃屋」

 ニヤリ笑いを残して歩いていくレオンの後姿をガラスの瞳と金色の瞳が無言で見送った。

「部屋まで同行する、レイニア」

「大丈夫、一人で・・・」

 一歩踏み出したレイニアは視界に違和感を感じて足を止めた。左右のバランスをとるのに普段とは違って意志の力が必要だった。

「俺の前腕につかまることを推奨する。卿は身体を支える必要がある」

 隣りに立ってわずかに腕を伸ばしたトレスの顔を見上げてレイニアはそっと手を伸ばした。

「・・・これが酔うということなのか?」

「回答不能。データがない。俺は体内にアルコールを摂取する構造を備えていない」

 少女の手が彼の腕につかまったことを確認するとトレスは速度を落とした歩調で歩きはじめた。少女は半歩遅れてついて歩いた。僧衣の布越しに感じるトレス の腕は気のせいかほのかにあたたかかった。

「トレスはカテリーナ様といつお酒の話をしたんだ?」

「哨戒に出る前だ。卿が興味を惹かれたと推測したのでアルコール摂取に対する一般的な事例のデータを求めた」

 つまり、レオンだけじゃなくトレスにもバレていたというわけだ。
 レイニアは苦笑した。心身ともに疲労しているはずのカテリーナが忠実な機械化歩兵の疑問に対して丁寧に答えを与えている様子が想像できた。唇に浮かんで いたはずの微笑みも。
 二人がゆっくり通り過ぎると傍らの燭台の炎が揺らめいた。静寂な時の流れが頭の中で回る。レオンの微笑とトレスの腕のあたたかさに対する嬉しさが素直に 顔に出そうになる。これはやはり酔いなのだ。レイニアは目を閉じた。トレスが先導してくれている今は視界がなくても恐怖はない。それよりも心を満たしはじ めたものに身体もまかせたかった。
 ふわり、ふわりと。
 いつも心のどこかにある張り詰めた線がほろりと緩む。

 トレスは少女に視線を落とし顔色と呼吸数を確認した。
 頬に赤みがさした顔の中で形の良い唇の両端に浮かんでいたもの。
 トレスは無言で視線を戻し前を向いて歩き続けた。

2006.5.3

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